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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第六章:決戦前夜

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第百二十九話「天狗の助言」

「猫よ、久しいな」


声が来たのは夕暮れ時だった。


庭の柿の木の梢に、黒い影が降りていた。翼を畳んで枝を掴む足——下駄を履いていない。素足のまま。あの時と逆だ、と我は思った。あの夏の昼に、この庭で下駄だけが落ちていた。持ち主を名乗って慌てて現れた若い天狗が、今は冬の夕空を背にして此方を見下ろしている。


成長した、とは言い難いが、あの頃より目つきが鋭くなった。誇り高い山岳の妖怪は、年月とともに角を研ぐらしい。


縁側で日向を探していた我は、梢の方へ向き直った。尻尾の先だけ動かして、続きを促した。


「北西の山から見ている。ここ数日で界境かいきょうの薄い場所が増えた。夜には光がない方角が三つある」


天狗てんぐの目は、人より高い場所から世界を見る。山の頂から都を俯瞰すれば、我が地面で感じるものとは別の像が浮かぶのだろう。三点——北西、東、南——と我が内心で数えていた異変の布置と合っている。


柿の枝が軋んだ。山の妖怪が一段下の枝へ飛び移り、我との距離を縮めた。


「お前に訊く。あの光のない場所は何だ」


問いかける声に、試す色はなかった。知っている者に確認を求める声だった。


我は石畳の上に腰を落とし、両の前脚を揃えた。答えられる部分と、答えられない部分がある。内心でその線を引きながら、我は梢へ視線を向けた。


界境が薄れている。そこから何かが滲み出ている。それだけが、今我が声にできる全てだ——声など、もとより出ないが。


翼を持つ者は少し待ってから、別の問いを重ねた。


姫御前ひめごぜは、まだここにいるのか」


我は一度、瞬きをした。


「そうか」と天狗は言った。問いへの答えを受け取ったように。「ならば我らも動く。北西の山際は押さえてある。異変が尾根を越えようとする気配があれば、こちらから知らせを入れる。以前にも言ったが、空からの援護ができる」


返答を待つふうでなく、それは宣言に近かった。山の妖怪は交渉より宣言を好む。そういう誇り高さが、我には理解できないでもない。


ちょうどその時、廊下の方から足音が来た。真白ましろが白梅の枝を一本手に持って縁側へ出てくる。庭の奥で咲きかけている梅の最初の一枝を折ってきたらしく、まだ蕾のまま固く閉じている。


令嬢は梢を見て、一瞬だけ目を丸くした。しかしすぐに居住まいを正して、軽く頭を下げた。


「……天狗様、でいらっしゃいますか」


「姫御前は度胸がある」と声が返ってきた。ほんの少しの間を置いてから、「安心せよ。猫の顔見知りだ」と付け加えた。


真白は梅の枝を両手で持ったまま、梢の方を見た。問う気配があったが、口には出さなかった。代わりに我を見た。我は動かず、ただそこにいた。それだけで真白には何か伝わるらしく、かすかに頷いた。


「備えよ、姫御前」と梢から声が降りてきた。「この猫が傍にいる間は守られる。だが、そう長くもないかもしれぬ」


真白の手の中で、梅の枝がわずかに揺れた。


我は梢を見た。余計なことを言う、とも思ったが、山の妖怪は嘘をつかない。遠回しにもしない。それが誇り高さの別の面だ。


「案ずるな」と声が続いた。今度は真白ではなく、我に向けた言葉だった。「空から見える景色がある。お前が地面で抱えているものの、半分は我らが肩代わりできる。北西は任せろ」


言い終えると天狗は翼を開いた。夕暮れの風が一度だけ庭を横切り、柿の木の枯れ葉を数枚舞い上げた。黒い翼が夕空に溶けて、あっという間に見えなくなった。


しばらく、庭が静かだった。


真白は梅の枝を見ていた。固い蕾が一つ、先端で光を受けていた。


「いつ咲くかしら」と令嬢は言った。我への問いかけか、独り言か、判然としない声だった。「春になれば開くのに、冬の間はずっとこうして待っているのね」


我は縁側の端まで歩いて、姫の足元に座った。


梅の蕾は答えない。春が来れば開く。それ以上でも以下でもない。待つということが、何かを保証するわけでもない。ただ、今がここにある。それが全てだ。


庭の向こう、北西の方角はもう暗かった。


空のどこかに天狗がいる。川では九助きゅうすけの父親が水面を監視している。ぬえが都の外縁を飛んでいる。鎌鼬かまいたちが上空の気流を読んでいる。


一匹の猫が、縁側に座っている。


見えない布陣が、都の周囲に幾重にも張られている。


真白が我を抱き上げた。冬の冷えを残した手だったが、胸の温度がすぐに伝わってきた。


玄丸くろまろは知っているのね、いろんなことを」とつぶやいた。返事を求めていない声だった。ただ確かめるように。「あなたが見ている景色を、私も見てみたいわ」


我は腕の中で、首を傾けた。


見ているものの大半は、見せられるものではない。そしてそれでよかった。姫が見る必要のないものは、我が見る。それが我のいる理由だ。


夕空の最後の明かりが、真白の横顔を照らしていた。


柿の木の梢はもう空っぽだった。

【妖怪図鑑】


天狗てんぐ

【分類】山岳妖怪・翼持ち種

【危険度】★★★★☆(高)

【レア度】★★★☆☆(少ない)

【出現場所】深山の尾根、杉の古木の梢、山岳の社


【特徴】

長い鼻と赤い顔を持つ山の妖怪として広く知られるが、若い個体は外見が鋭く引き締まっており、神官の装束に近い衣をまとう。誇りと実力主義を信条とし、同格以上の存在にしか心を開かない。山から都を俯瞰できるため、異変の察知能力は地上の妖怪の中でも群を抜く。嘘をつかず、遠回しな物言いもしない。それが誠実さなのか、単に婉曲表現を面倒と思っているだけなのかは、本人に訊いても教えてもらえない。


【得意技】

鳥瞰ちょうかん:高所からの広域監視。界境の乱れを光のむらとして視認できる。

風操かぜあや:翼を使った風の操作。上空から気流を変え、異変の方向を揺らすことができる。

・山気送り:山の気脈を通じ、遠方の仲間へ情報を伝達する。


【弱点】

誇り高さゆえに、下と見なした相手の言葉には耳を貸さない。また、高空での戦いは得意だが地上に降りると機動力が落ちる。


【生態】

単独か少数の群れで行動し、縄張りは山の尾根一帯に及ぶ。人里に降りることは稀で、用件があっても要点のみを告げてすぐに去る。長話を好まない。食事の習慣が人とは大きく異なり、山の気そのものを糧とするため、台所に立つことは生涯ない。


【玄丸の評価】

「空から見える景色を持っている。地面を這う我には届かない情報源だ。誇り高さは時に扱いにくいが、言ったことは必ず守る。約束を守る妖怪は、約束を破る人間より信用できる——もっとも、これは人間に対して失礼な評価かもしれないが」


【遭遇時の対処法】

敬意を持って接すること。試すような態度や見下した物言いは即座に感づかれ、以後は相手にしてもらえなくなる。用件は簡潔に。長々と事情を説明するより、相手の判断を信じて任せた方が結果がよい。山への供物として、豆腐や干し柿を置いておくと機嫌がよくなるという話もあるが、本人に確認したことはない。


【豆知識】

天狗には大天狗・小天狗の別があり、長い鼻を持つのは主に大天狗の系統。若い個体が成長して大天狗になるまでには、数百年の修行が必要とされる。山の気脈を守ることが天狗一族の使命であるため、界境の乱れは本来の縄張り問題として非常に敏感に反応する。

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