第百二十八話「別れの予感」
数えたことなど、ない。
どれほどの夜を真白の傍らで過ごしたか、どれほどの朝にこの屋敷の冷えた縁側から空が白むのを見たか。我はそういう記録をつけることを、猫に転じた当初から意図的に避けていた。数えれば、それが終わりへ向かっていることを認めることになる。
今夜、はじめて数えたくなった。
真白は寝ている。几帳の薄絹が灯心の残り火に揺れて、その向こうにくぐもった息の音が聞こえる。規則正しく、穏やかな。世界に何の不安もないかのような寝息だ。
我は几帳の手前に丸まって、その音を聞いていた。
目を閉じれば、最初の夜が戻ってくる。
飢えていた。それ以外に言い様がない。アルメラ(魔導帝国)の王たる者が、溝の泥に顔を埋めて痙攣していた。猫の肉体がそこまで消耗していることなど、意識が宿った瞬間まで知らなかった。知っていれば、もう少し尊厳ある場所を選んだかもしれない。
あの手が来た。
温かかった。それが最初の驚きだった。異世界の人間は魔力の器として見ていた。平安の貴族の娘というものは、さらに遠い概念だった。その娘が、我の全身の重さを腕ごと受け止めて、何も言わずに胸に抱いた。
「かわいそうに」
その言葉が降ってきた時、我は返す言葉を持たなかった。持てなかったのではない。かわいそう、という語が、我に向けられたことがなかったのだ。哀れみを受ける存在だという認識が、どこにもなかった。
その夜から、何かが変わった。少しずつではなく、気がついた時にはすでに変わっていた。
池の面に映る月を一緒に見た夜があった。あの令嬢が何か詠もうとして、言葉を探しながら空を仰いでいた。最後まで詠み切れずに笑った顔を、我は今も細部まで思い出せる。言霊感応の血を持つ者が、完成しない歌に笑う。それが不思議で、しばらく尻尾が動かなかった。
実俊が初めて現れた日のことも覚えている。陰陽の理屈を並べて真白に何か説明しようとしていた。縁側の端から彼の術構を観察し、欠点を三つ数えた。それよりも先に、真白が実俊の話に目を輝かせているのが引っかかった。引っかかった、とだけ記録しておく。
真澄の影走りを初めて目の当たりにした夜もあった。柱の影が人の形になって、また消えた。この屋敷には我の知らない理が働いていると知った瞬間だった。あの男は今も何かを抱えたまま、声に出さずにいる。我と同じように。
川へ行った日があった。九助の父親が岸に現れて、魚の臭いとともに近づいてきた時、真白が我を抱いて一歩引いた。庇ったのだ。庇われた。我が。
毛並みの奥の何かが、その時ひどく揺れた。
口無し女の怨念が真白を包んだ夜があった。金の理を振動させながら、我は真白の声を聞いていた。言霊が怨念の層に触れて、少しずつ解いていく。あの共鳴の感触——真白の声と我の理が、同じ周波で交差した瞬間——を、アルメラ時代の千の実験でも得たことはなかった。
あれが、何かを理解しはじめた転機だったかもしれない。
理の共鳴とは、力と力の衝突ではない。声と声が同じ場所を鳴らすことだ。真白がそれを知っていたかどうか、問いたくても問えない。
冬の縁側で、姫が膝の上で我を撫でながら読んでいた物語冊子が滑り落ちた夜があった。眠ってしまったのだ。我の背の上に手を乗せたまま。その手の重さを、我はしばらく動かずに受けていた。動けなかった、とは違う。あの重さを、もう少し長く感じたかった。
長く、というのが既に奇妙だと、今ならわかる。
先日、真白は言った。
あなたは私にとって特別な存在なの、と。
その言葉が、我の中の何かに刺さって抜けなかった。刺さる、というのも正確ではない。何か広いものに触れた、という感触だった。広くて、重くて、それでいて驚くほど静かな何か。
我はそれを受け取った。
返せるものが何もなくても、受け取ることならできる。
土の理の結界は少しずつ摩耗している。夢鏡の感度は下がっている。術を振るうたびに、器が一回り縮んでいる実感がある。それは数えなくても、毛並みの奥側でわかる。
我がここにいられる時間は、これまでの日々ほど長くはないかもしれない。
けれど。
几帳の向こうで、真白が寝返りを打った。薄絹が揺れて、その端がわずかにめくれた。月明かりが差し込んで、真白の横顔が白く浮かんだ。
穏やかだった。
今、あそこに何の恐れもない。屋敷の外に異変の気配が残っていることも、界境に三つの裂け目があることも、北の大路の地下が今も蠢いていることも——真白の寝顔には、そのどれも映っていない。
我がいる間は、映らなくてよい。
真白の寝顔を見ながら、我はそれだけを思った。いつ来るとも知れない何かを前にして、悔いを数えようとしたが、出てこなかった。
悔いが、ない。
あの溝の泥の中にいた夜から今夜まで、この猫生に悔いるべきものが見当たらない。姫の手に拾われたことも、この屋敷で過ごした日々も、共に怨念と向き合ったことも、妖どもと言葉を交わしたことも、その全てが我の中に残っている。失うにしては重すぎる量だが、それでも悔いではない。
我は几帳の端から、真白の寝顔を見続けた。
月が傾いていく。
真白の息は変わらず、規則正しい。
この顔を、焼き付けておく。
灯心が小さく揺れて、また静まった。




