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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第六章:決戦前夜

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第百二十七話「真白の気づき」

真白が我を抱き上げた時、その手が一瞬、止まった。


いつもと何かが違う。そう感じたのだろう。人の手というのは正直なもので、戸惑いは指先に出る。抱き慣れた重さが変わっていれば、言葉より先に皮膚が知る。


「……玄丸」


小さく名を呼んだ。問いにも呼びかけにも聞こえる、そういう声だった。


朝の光が渡り廊下わたりろうかに差し込んでいた。冬の陽は低く、縁側の板を斜めに照らして、影を長く伸ばす。真白は我を胸に抱いたまま、しばらくそこに立っていた。


我は動かなかった。逃げることも、身をよじることもしなかった。ただ、その腕の中に収まって、前方の庭を見ていた。


「最近、少し……痩せた?」


独り言に近い声だった。


我の背に手が当てられた。毛並みを確かめるような、丁寧な手つきだ。真白は昔からそうで、我を撫でる時は必ず手のひら全体を使う。爪を立てることなく、毛の流れに沿って。この手つきは最初の日から変わっていない。


あばらのあたりで指先が止まった。


何かを言おうとして、真白は黙った。代わりに、抱く力が少しだけ強くなった。


「あなた、疲れているの?」


問いかけの形をしていたが、答えを求めていない声だった。我が何かを答えられないことを、真白は知っている。それでも問いかけるのは、言葉を出さなければ胸の中で詰まるからだろう。


我は耳を一度動かした。それだけだ。


令嬢は縁側に腰を下ろした。我を膝に乗せ、両手で包むように抱える。庭の方を向いたまま、しばらく何も言わなかった。


倒れた石燈籠いしどうろうがある。白砂の染みもある。冬の庭はものが少なく、欠けているものが目立つ。その目がその燈籠の上で一度止まり、また我に戻ってきた。


「この戦が始まってから、あなたは一度も休んでいないわね」


独り言の続きのような言い方だった。


「夜中に庭に出ているのを見ているから。毎晩、結界を確かめているの。わかっているの、ちゃんと」


我は真白の膝の上で、動かなかった。


「わかっているけれど」


そこで声が途切れた。


真白が我の頭に頬を当てた。額、というよりは頬骨ほおぼねのあたり。人間の体温が我の耳のそばに来る。少し湿っていた。


泣いているわけではない。まだ。ただ、泣く前の息の仕方をしていた。


「あなたのことが、心配なの」


静かな声だった。怒りでも、嘆きでもない。ただ、揺れのない水のように、その言葉だけがあった。


「最初に会った時から、あなたは私の知らないたくさんのことを知っていた。庭の気配を読んで、夜の怪異を退けて、私が気づかないうちに色んなものを守っていた。それは今も変わらない。変わらないけれど……」


真白の手が我の背を、毛並みを確かめながら撫でた。


「あなたが削れていくのが、わかる」


我は息を詰めた。


肺の動きを止めたのは一瞬だ。すぐに戻した。表情は変えられないが、耳がわずかに後ろに引いた。それだけが、動揺の出どころだった。


言霊ことだまを扱うようになってから、気の流れが読めるようになった。人のものも、妖のものも、そして……あなたのも」


真白はそこで一度、息を整えた。


「あなたから流れていくものがある。戦のたびに、術のたびに。それが戻ってくる量が、少しずつ減っている」


我は目を閉じた。開いた。庭の石を見た。


何も言えない。言うすべがない。言えたとしても、何を言うべきかわからない。この身が削れていることは事実で、真白がそれを感じ取ったことも事実だ。隠しおおせると思っていたわけではない。ただ、もう少し先まで気づかせたくなかった。


「玄丸」


名を呼ぶ声に、わずかな震えが混じった。


「私はあなたに、死んでほしくない」


それだけだった。


修飾も、理屈もない。ただその一文が、朝の冬光の中に置かれた。


我は膝の上で、前足を一度だけ踏み直した。爪は立てない。体重を少し、その膝に預けた。それが今の我にできる返答の全部だった。


泣き始めたのは、その後しばらくしてからだ。


声は出なかった。嗚咽おえつでも、すすり泣きでもない。目から水が出て、頬を伝った。それだけのことだ。拭わず、我の頭に顔を当てたまま、真白はしばらく動かなかった。


冬の陽が移動した。影の角度が変わった。渡り廊下の奥で、誰かの気配が一度動いて、止まった。真澄ますみだろう。だが足音はしなかった。気配は遠ざかった。


二人きりにしてくれている。


真白が時間をかけて顔を上げた。目元が赤い。それでも、うつむかなかった。


「玄丸、聞いて」


我は真白の顔を見た。


「あなたが来てから、色んなことがあった。怖いことも、悲しいことも、あなたがいなければ乗り越えられなかったことがたくさんある。それは全部、あなたが側にいてくれたから」


真白は続けた。


「あなたが何者なのか、本当のところは知らない。猫なのか、それとも別の何かなのか。でも、私にとってそれは関係ない。あなたは……あなたは、私にとって特別な存在なの」


我は動かなかった。


「家族とも、守り神とも、ちょっと違う。うまく言えないけれど」


真白は少し口をつぐんだ。それから、また続けた。


「あなたと見た月が、あなたと過ごした季節が、私の中に全部ある。あなたが疲れていても、あなたが削れていっても、それは変わらない。変わらないから……だから、自分だけで全部抱えないで」


言葉が止まった。


真白が我の顔の前に手のひらを差し出した。人間が猫にする仕草ではない。対等に向き合う時の、人間同士の仕草に近い。


我は少し考えた。


それから、その手のひらに顔を押し当てた。


額から鼻先にかけての、猫の重みを預ける動作だ。目は開けたままにした。


真白の指が、我の耳の後ろをゆっくりなぞった。


声はなかった。庭の木が冬風に揺れる音だけがあった。


我は胸の内で、何かが落ち着くのを感じた。落ち着く、という言葉は正確ではないかもしれない。ただ、長く張っていた何かが、少しだけ緩んだ。緩んでいいと、思った。


真白の言葉に嘘はない。言霊の血を持つ者の言葉には、意図せずことわりが乗る。偽りは乗らない。


特別な存在、と言った。


我は、その言葉を飲み込んだ。


飲み込んで、それ以上どこにも置かなかった。この胸の奥に収めて、そこで留めた。猫の肉体には舌がある。言葉はない。返せるものを持っていない。それでも、この重みだけは受け取った。


受け取って、いい。


陽が高くなった。


真白が立ち上がろうとした時、我はもう一度だけ、その手に頬を押しつけた。


ほんの一瞬だ。すぐに離した。


真白が、小さく笑った。泣いた後の、水気の残る笑い方だった。


「わかった。一緒に、戦いましょう」


我は縁側に降りた。


庭の方を向いた。石燈籠の影が伸びている。白砂の染みはまだ消えていない。それでも朝の光は変わらず注いでいて、古い砂の上にも等しく当たっていた。


尾を一度、払った。


返事の代わりだ。

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