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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第六章:決戦前夜

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第百二十六話「河童の涙」

川の気配が動いた。


冬の夜気の中、裏庭の土に何かの足跡が残っていた。水気を含んだ丸い跡。三本指。間隔は狭く、急いで来た者の歩幅だ。

塀の際にしゃがみ込んで臭いを嗅ぐと、川砂と川魚の脂、それに少しの藻の香りが混じっていた。

九助きゅうすけが来ている。


我は縁側の端から庭へ降りた。石畳の感触が足裏を走る。倒れたままの石燈籠いしどうろうの脇を抜け、塀の影に目をやると、岩と見紛うほどの丸い影が暗がりにうずくまっていた。


「……猫どの」


低く、掠れた声だった。


大柄の河童かっぱが、塀の陰から重たげに顔を上げた。甲羅こうらの縁に冬の夜露がついており、頭の皿に張った水が月明かりを反射してかすかに光っている。目が赤かった。充血ではない。泣いた目だ。


九助きゅうすけは、去年の秋に川で助けて以来、屋敷に出入りしている。最初に会った時の子どもっぽい怒鳴り声はとうに消え、今は川の変化を報告する役を自ら買って出ている。実直で、義理堅い。水面みなもが不穏な動きをするたびに駆けてくるのは、恐れからではなく、報せなければという一点からだ。


だが今夜は報告ではなかった。


我は三歩、九助に近寄った。石燈籠の影から出て、その正面に座る。尾は地につけたまま、まっすぐに相手の目を見た。


「川は、異様はない。今夜は」


九助はそう前置きしてから、ひざに置いた手に力を込めた。ごつごつとした三本指が甲羅の縁を掴む。


「猫どの、おぬしの気が……薄くなっておる」


我は動じなかった。耳一枚も動かさず、九助の目を見続けた。


「先の戦の後から、ずっとそう感じておった。川の水が空になっていくような……そういう感じがする。川の者は水の変化にさとい。おぬしから流れていくものがある。これ以上使えば」


九助は言葉を止めた。止めてから、一度大きく息を吸い、吐いた。


「お前を失いたくない」


静かな声だった。怒鳴り声の裏にあった芯の部分だけが残ったような、そういう声だ。


目に水が盛り上がっていた。河童の涙は、川の水と同じ色をしている。月に照らされてかすかに光り、それが一筋、ほほを伝った。


九助は拭わなかった。拭うことを恥とも思っていない顔で、ただ我を見ていた。


我は尾を一度だけ、落ち着いた速度で払った。


拒絶ではない。違う。


九助の言葉は正確だ。我が気配が薄れているのは本当のことで、それを誰かに指摘されたのは初めてだった。真澄ますみは感づいているかもしれないが、言葉にはしていない。真白ましろには気づかせていない。妖怪の感覚というものは、人のそれとは違う経路で世界を読む。川の変化を肌で知る者が「流れていく」と言うなら、それは観察であり、記録だ。


我は石燈籠の台座に前脚を乗せ、目線を合わせた。


相手が息を詰める。


両の目を細め、視線で屋敷の方角をなぞった。縁側の方角。あの部屋で今夜も眠っているであろう人の方角。


九助は黙って見ていた。


それから、また屋敷の方を向き、今度は相手の目に視線を戻した。


「……姫のことを、頼むと言っておるのか」


我は耳を立てたまま、一拍置いて、瞳を閉じた。開く。


「そういうことを、猫どのが言うのか」


九助の声が低く落ちた。涙はもう流れていない。代わりに、甲羅が少し震えた。


「言うのか。お前は」


問い返す声に、責める色はなかった。ただ、長い付き合いの中で初めて触れるものに戸惑うような、そういう質の重さがあった。


我は動かなかった。石燈籠の台座に前脚を置いたまま、九助を見ていた。


しばらく沈黙が続いた。


庭の向こうで、目目連もくもくれん古障子ふるしょうじがわずかに揺れた。夜風か、それとも監視の目が動いたのか。点しともしびの灯りが渡り廊下わたりろうかの端でかすかに揺らいだのが見えた。


屋敷のあちこちに気配がある。みな、聞いている。


九助が甲羅に両手をあて、深々と頭を下げた。額の皿の水が地面に一滴落ちた。


「わかった。わかったぞ、猫どの。川の者として引き受けよう。姫が危うくなれば、水路を使って報せを飛ばす。この身、約定やくじょうする」


頭を上げた顔は、目が乾いていた。


「だがな」


低い声が続いた。


「おぬしが戦いを終えて、春の川を一緒に見るまで、死ぬことは許さん。川の者の言葉に二言はない。我らは流れを覚えておる。お前が川の魚を助けた日のことも、子どもを助けた日のことも、全部覚えておる。そういうものを、おいそれとは流せん」


我は石燈籠から降りた。


そのそばまで歩み寄り、膝の脇にしばらく座った。川の臭いが濃くなる。泥と水草と、それから少しだけ涙の塩の匂い。


九助は何も言わなかった。ただ、ごつごつした指先を軽く我の背に置いた。重くはない。触れるだけの力だ。


月が少し傾いた。


夜が深くなる前に、九助は立ち上がった。「川へ戻る。変化があれば知らせる」とだけ言い、塀の際から水音もなく消えた。


裏庭に我一匹が残った。


九助の足跡が土の上に残っている。丸く、三本指の跡。来た時よりも、帰りの跡の方が少し深い。


我は尾を地面に垂らしたまま、しばらく動かなかった。


石燈籠は倒れたままだ。白砂の染みもまだある。修復されていないものは多い。それでも屋敷は今夜も灯りを持ち、中で誰かが息をしている。


眠れそうになかったが、それは嘆くことではない。


夜の残りを使って、もう一度土の理の膜を確かめた。結界座けっかいざの感触は薄い。術を重ねるたびに摩耗する量が、以前とは違う。我が器の縁から少しずつ零れていく感覚は、今夜も変わらなかった。


それでも、塀の四隅に微細な波を走らせた。膜は応えた。弱くとも、まだある。


我は縁側へ戻った。


部屋の中から、規則正しい寝息が聞こえた。真白の声だ。


我は縁側に腰を下ろし、庭を向いたまま夜明けを待った。

【妖怪図鑑】


河童かっぱ九助きゅうすけ

【分類】水棲妖怪

【危険度】★★☆☆☆(普通)

【レア度】★★☆☆☆(普通)

【出現場所】川辺・水路・池・川底の岩陰


【特徴】

甲羅を持つ水棲の妖怪。頭頂に皿があり、常に水を湛えている。皿が乾くと力が落ちるが、冬の川辺に棲む個体は皿の水管理に長け、薄氷の下でも活動できる。

九助はども時代に玄丸に命を救われた経緯を持つ。当初は気性が荒く、縄張り意識が強かったが、長年の付き合いの中で信頼を培い、妖怪ネットワークにおける川の変化の報告役を担う。一族の中では長老格に近い立場にあり、川沿いの妖怪たちへの影響力を持つ。


【得意技】

水感すいかん:川の流れや水質の微細な変化を皮膚で感じ取る

・水路伝達:川を通じて遠距離に気配を送る


【弱点】

・皿の水が干上がると動きが鈍る

・炎系の術に対する耐性が低い


【生態】

魚を食べるが、恩を受けた相手には魚を贈る習性がある。義理を重んじ、約定を破ったことがない。涙を人前で見せることを恥とする風習が河童一族にはあるが、九助は長年の経験から、見せるべき時に見せることを知っている。


【玄丸の評価】

「川の変化を読む目は確かだ。感傷的に見えるが、その涙は感情の流出ではなく、積み重なった時間の重さだ。我が気配が薄れていることをこれほど正確に言葉にした者は、妖怪の中では九助が初めてだ。川の者の約定は、水と同じく形を変えない」

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