第百二十五話「猫の寿命」
冬の月が、妙に近かった。
雲一枚ない夜で、白砂の庭が青白く光っていた。石燈籠はまだ倒れたままで、その影が砂の上に斜めに伸びている。我は渡り廊下の端、屋根の庇が切れるあたりに腰を下ろして、夜空を見上げていた。
別に光を集めようとしていたわけではなかった。
ただ、そこにいた。
この感覚を言葉にするなら——我の内側に、わずかな欠けがある。器が満ちないまま置かれているような、あるいは弦を張りきれずに音を出している琵琶のような、そういう不具合だ。昨夜の夜叉との戦いで使った火の理と土の理の消耗は、翌朝には戻っていた。その前の、真白の言霊と共鳴させた夜の消耗も、数日かけて回復した。
だが今夜、気づいた。
戻っている。しかし、戻りきっていない。
もとに戻るべき量が、少し前より少ない。器が、じわじわと縮んでいる——そういうことだ。
我はしばらく、その認識を確かめた。理屈で捏ねるのではなく、肉体の内側を隅から隅まで丁寧に辿るように、もう一度。爪の根元から尾の先まで。耳の内側、喉の奥、肋の間。
疑いようがなかった。
猫の肉体は、もとより精緻な器ではない。アルメラにいた頃に使っていた肉体と比べれば、土器と玻璃ほどの差がある。魔力を通すたびに、わずかに摩耗する。それは転生した当初から知っていたことだった——知っていた、が、軽く見ていた。
今まで使った術の数を、我は頭の中で並べた。
風眠は数え切れない。陽眼も同様。結界座は最初の頃から屋敷を包み続けており、特に界境が綻び始めてからは消耗が大きくなっている。鈴声は口無し女の頃から幾度か。夢鏡は満月の夜ごとに。虚歩は一度だけだが、あれが最も重かった。
そして先日の、真白の言霊との共鳴。
あれは我が予想した以上に、内側の何かを削った。力が出たのは確かだ。夜叉の核を砕けた。だが終わった後の感触が——術が終わって消耗が引いた後に残ったものが、以前の戦いとは違っていた。回復しても、もとの輪郭に戻らない。
我は尻尾を一度だけ、床に打ちつけた。
「寿命だ」とアゼルであった頃の記憶が言った。論理の声だった。感情の混じらない、ただ正確な声だった。「猫の肉体を通じて高位の術を使うたびに、その猫の残余が削れる。魔力が枯渇するのではなく、寿命が縮む——お前はそれを、半ば分かって使っていた」
半ば、というのが正確だった。
完全に知らないふりをしていた、とは言えない。ただ、試算はしていなかった。しようとしなかった、というべきかもしれない。計算すれば、使えなくなる。使えなければ、真白を守れない。だから数えなかった。
愚かだ、と我は自分に言った。さらに愚かなのは、そうしても後悔していないことだった。
光が雲の端に遮られた。白砂の青さが薄れた。
残りがどの程度かは、まだ正確には分からない。だが多くはない——そう感じた。月があと何度満ちるか、梅があと何度咲くか、そういう単位で残っている時間を想像すると、我の内側の何かが、ひっそりと静止した。怯えではなかった。驚きでもなかった。ただ、静かに、そういうことか、と受け取った。
渡り廊下の奥で、木の軋む音がした。
真澄だった。灯りも持たずに歩いている。影の中を移動する習性が、夜でも消えない。我の横を通るとき、一度だけ足を止めた。我を見た。我は月を見たまま動かなかった。
「夜が深うございます」
それだけだった。あの男はそのまま歩いて行った。
何を察したかは、問わなかった。気づいていないはずがない——だが言葉にしない。それが葛上真澄(かずらがみ の ますみ)という男の、おそらく唯一の優しさだった。
我は再び月を見た。
真白のことを考えた。
今夜は早く寝た。昨夜わらべを見送った後、少し泣いていたのを我は知っている。座敷の奥で、誰にも聞こえないように。泣いたあと、すぐ眠った。健やかな眠りだった——風眠を使う必要もなかった。
あれでいい。
あの令嬢がよく眠れているうちは、屋敷の均衡はまだ保たれている。我がそこに在り続ける意味も、まだある。
残りをどう使うか、という話だ。
今まで、それを考えたことがなかった。猫の寿命に意識的になるのは、猫らしくない——アゼルの記憶がそう言う。あの男は自分の命を資材のように扱っていた。消耗を計算し、効率を最大化し、感傷を排除した。その結果が、永劫炉だった。
そういう在り方は、もう選ばない。
だが、だからといって残りを無駄にしたいわけでもない。
使いどころは一つだ、と我は思った。考える必要もなかった。真白と、この屋敷と、都を守ること——それ以外に使う場所はない。理屈の問題ですらなかった。
月が再び雲の外に出た。白砂に青い光が戻った。
我は前脚を揃えて、姿勢を正した。猫が正面を見るときの形、背筋を伸ばして耳を立てる形。尻尾を足に巻いて、目を細める。
残りがいくらであれ、削れるたびに何かを守れたなら——それでいい。
そう決めてしまえば、先ほどまで内側にあった欠けの感覚が、少しだけ形を変えた。なくなったわけではない。ただ、抱えていられる重さになった。
厨の方で、炭の燃える匂いがした。
お梅がまだ起きている。あの老女は、夜中に厨で何かを仕込む習慣がある。おそらくわらべのいなくなった厨を確かめに来たのだ——そういうことを、誰にも言わずにする女だった。
我は渡り廊下から降りて、庭の白砂を横切った。
夜露で砂が湿っている。前脚に冷たさが伝わった。石燈籠の横を通り、梅の木の根元で立ち止まる。まだ蕾もついていなかった。
来年の春には咲くだろうか、と我は思った。
思っただけで、答えは出さなかった。出す必要もなかった。
砂の上に、我の影が長く伸びている。月光の中で、黒猫の影がひとつ。
庭はしんと静かで、屋敷はよく眠っていた。




