第百二十四話「座敷童子の別れ」
朝のうちに、わらべは消えていた。
正確には、いなくなったのではない。厨の土間の隅、積み上げた薪の裏に小さな背中が見えた。両膝を抱えて、膝の上に顎を乗せている。霜が降りる前の冷えた朝の空気の中で、ただじっと、何かを待っているような座り方だった。
我は渡り廊下から厨を覗き込んだ。
蕗が朝餉の支度で忙しく動いている。竈に火を入れ、水を張った鍋をかけ、乾物を戸棚から出す。わらべの姿には気づいていない——いや、気づいていて、見ないようにしているのかもしれなかった。仕事の手が、いつもより丁寧だった。
厨の奥からお梅の声が低く聞こえた。
「今日食べたいものはあるかい」
わらべは顔を上げなかった。少し考えてから、「甘いもの」と言った。子供の声そのものだが、その一言だけで厨の空気が少し変わった。
お梅は何も聞かなかった。棚から小豆の袋を取り出して、ぽん、と竈の脇に置いた。
我は厨に入ることはせず、縁側に腰を下ろして毛繕いを始めた。爪の先を舐めて、耳の裏を拭う。前脚を舐めながら、耳だけをその方角へ向けた。
しばらくして、薪の陰から小さな影が出てきた。土間を横切り、縁側の我の横に立つ。靴も履かないまま、冷えた木の板の上に立って、我を見下ろした。
丸い顔だった。幼い顔のどこにも、昨夜の夜叉の残した痕はなかった。屋敷の中にいたからだ——それだけの話だが、なぜか我の胸の奥、肋の下あたりが重くなった。
「出てくの」
わらべは言った。質問ではなかった。
我は毛繕いを止めなかった。尻尾の先を、少しだけ揺らした。
「怖くはない」とわらべは続けた。「ここで戦いになったら、うちの甕が割れる。あそこにはたくさん仕込んだものが入ってる。勿体ない」
呆れた理由だ、と我は思った。だが否定もしなかった。
座敷童子という生き物は、屋敷に幸運を呼ぶ代わりに、その屋敷の「調和」を糧にして生きる。調和が乱れると、その場所にいられなくなる——炎や剣よりも、きっとそういうものが苦手なのだ。甕の仕込みは口実で、本当のことを言わないのは、この子が子供だからではなく、長い時間をかけて身につけた知恵だと、察していた。
「戦いが終わったら」とわらべは言った。「またくるから」
我は尻尾を一度、大きく振った。
肯定のつもりだったが、わらべには伝わらなかったかもしれない。ただ、伝わらなくても構わなかった。
「お梅さんに、ちゃんと仕込みの続きを頼んでいく。忘れるなって言っておいて」
それは我に言うことではない、と思ったが、尻尾を揺らした。わらべは小さく頷いて、足音もなく厨へ戻った。
昼前になって、藤原真白(ふじわら の ましろ)が縁側に来た。掌の上に椀を持っていた。小豆の粥だった。
「お梅さんが作ったの。わらべに持って行こうと思って」
声はまだ少しかすれていた。昨夜の言霊の余韻が、喉の奥に残っている。それでも歩き方は昨日よりしっかりしていた。我は真白の裾をひとつ叩いて、厨の方向を視線で示した。
すぐ分かった顔をした。「いるの?」と言って、足を向けた。
厨に入ると、わらべは蕗の隣で小豆の袋を数えていた。小さな指で袋の口を確かめ、中身をのぞき込み、また次の袋に移る。律儀な仕事ぶりだった。
真白が声をかけた。
振り返った顔が、少し硬くなった。それから椀を差し出された意味に気づいて、受け取った。両手で持って、においを嗅いだ。
「甘い」
「お梅さんが蜜をたくさん入れてくれたって」
わらべは一口飲んだ。我は土間の入り口に座って、それを見ていた。
蕗は何も言わずに魚を捌いていた。包丁の音だけが続いている。
「しばらく、ここを離れます」
真白に向けて、きちんとした口調だった。「悪い気が満ちると、うちは動けなくなる。厨の子たちに迷惑をかけたくないから」
しばらく、沈黙があった。
「戻ってきてくれる?」
「戻ります」とわらべは言った。「うちの甕があるから」
蕗がわずかに笑った。口元だけで、顔は魚の方を向いたまま。
お梅は奥の棚を拭きながら、「仕込みの続きはうちがやっとく」と言った。振り返りもせずに。わらべはその背中を見て、椀をすすって、また見た。
「ちゃんとやってね。比率を間違えると台無しになるから」
「三十年料理番やってんだ、教えんでいい」
「お梅さんはいつも塩を多く入れすぎる」
「うるさい」
厨の中が少しだけ温かくなった。我は尻尾を床に一度打ちつけた。
わらべは椀を飲み終えて、縁側に出た。真白が後ろについてきた。冬の光が、白砂の上に細く落ちていた。倒れたままの石燈籠が、砂の上に横たわっている。わらべはそれを少しの間見てから、顔をそらした。
「姫も、無理しないでね」
真白は笑った。「うん」とだけ言った。
我は縁側の端に座って、白砂の向こうを見た。塀の外では何も動いていない。鵺の遠音も今朝は聞こえなかった。今夜も来ないかもしれない——真澄の読みはまず外れないが、それを頼りに油断するのは我の流儀ではなかった。
「では」とわらべは言った。
長い別れではなかった。子供がそこから離れる、というだけの、短い別れだった。足音もなく土間に戻り、薪の裏の定位置に入り込んで——気がつくと、そこにいなかった。
真白は少しの間、薪の陰を見ていた。
「また来るって、言ってたよね」
視線を彼女へ戻した。真白は我を見た。我は一度、目を閉じた。
開いたとき、縁側に腰を下ろした姫君が膝を差し出してきた。膝の上に我を抱き上げる。乾いた冬の光の中で、指が背に触れる。言霊の余韻で少し痩せた指の感触だった。動かなかった。喉を鳴らすこともしなかった。ただ、抱かれたまま、白砂の庭を見た。
厨からお梅の声がした。蕗に何かを言いつけている声。蕗が返事をする声。小豆が煮える匂いが、冬の空気の中に混じってきた。
屋敷はまだ、いつもの音をしていた。
わらべがいなくなっても、厨は動いていた。甕の中には仕込みが残っていた。比率が正しいかどうかは、戻ってきたときに確かめればいい。
そういうことだ、と我は思った——思ったのではなく、尻尾が、おのずと静止した。
【妖怪図鑑】
■わらべ(座敷童子・ざしきわらし)
【分類】屋敷守護妖怪
【危険度】★☆☆☆☆(無害)
【レア度】★★★★☆(稀)
【出現場所】古い屋敷の厨・蔵・土間。長く人が住んだ建物の内部。
【特徴】
幼い子供の姿をとり、屋敷の片隅に棲みつく妖怪。人の目にはほとんど映らないが、気配だけは長く親しんだ者に感じ取られる。住みついた家には穏やかな繁栄をもたらすが、屋敷に不調和な気が満ちると、自らその場を離れる性質を持つ。これは弱さではなく、調和の外に出ることで屋敷の気の流れを守ろうとする本能的な振る舞いと見られている。
【得意技】
・家守り:屋敷内の気の乱れをわずかに整える
・気配消し:意図せず人の視界から外れる
・在庫管理:食材や道具の減りを正確に把握する(本人はこれを特技とは思っていない)
【弱点】
・屋敷内の気が激しく乱れると留まれない
・外の世界への適応は不得手
・別れを素直に言えない
【生態】
厨や蔵を好む。人間と暮らすことを選んでいるわけではなく、ただその場所を「居場所」と定めて棲んでいる。食べることへの関心が高く、仕込みや保存の状態をよく観察している。去り際は突然で、気がつくといない。
【玄丸の評価】
「甕の仕込みが惜しいから去る、と言った。おそらく本当のことではない——だが嘘とも言い切れぬ。あれが長く生きてきた知恵というものだ。また戻ると言った。我はその言葉を、信じることにした」
【遭遇時の対処法】
気づいても騒がないこと。存在を認めながら、普通に暮らすのが最も良い。与えたいものがあれば、直接渡すより、目につく場所に置く方が受け取られやすい。
【豆知識】
座敷童子が去った家は不運に見舞われるという伝承があるが、これは誤解とも言える。去るのは屋敷の気が乱れた後であることが多く、原因と結果が逆に伝わった可能性が高い。本来は屋敷の調和を映す鏡のような存在であり、その不在は「鏡が割れた」のではなく「鏡が避難した」と見るのが正しい。




