第百二十三話「束の間の平和」
「玄丸、飯だよ」
お梅の声が厨の方から飛んできた。
いつもより少し遅い。夜が白む前から騒ぎがあったのだから、朝餉の準備が後ろにずれたのは当然だ。それでも屋敷の竈から煙が上がり、出汁の香りが庭に漏れてくる。この匂いが今日もある——それだけで、我は何かが正常だと判断した。
玄関前の白砂に、昨夜の染みはまだ残っていた。霜が降りてうっすらと白くなった庭の中で、そこだけ色が違う。消えてはいない。だが庭はそれ以外、いつも通りだった。石燈籠が一基倒れているのを除けば。
厨の土間に入ると、お梅が椀を置いた。小魚を煮た汁と、昨夜の残り飯だ。我の分にしては量が多かった。
「たんと食べな。昨夜は大変だったろう」
老女は我を見ずに鍋をかき混ぜながら言った。戦の詳細は知らないはずだ。だが朝になって石燈籠が倒れており、塀に傷があり、藤原真白(ふじわら の ましろ)の顔色が悪ければ、長年この屋敷を切り盛りしてきたお梅には何があったかおおよそ分かる。
蕗が米を研ぎながら横目で我を見た。何か言いたそうな顔をして、黙った。この若い料理番は言葉を飲み込む癖がある。
我は椀に顔を寄せた。
昨夜、どれだけ理を使ったか——土の理を絞り込んで、金の理を放って、姫君の言霊に自分の理を添わせた。消耗の度合いを正確に測る術は今の我にはない。ただ、体の節々が重い。猫の肉体の話ではなく、もっと内側の重さだ。昨夜の共鳴が何かを動かし、その代償が今朝になって滲んでいる。
飯を食べ終えて縁側へ戻ると、真白が縁の端に座っていた。
膝の上に何も持っていない。物語の巻物でも、縫い物でも、手紙でもない。ただ庭を見ていた。視線の先は染みがある玄関前の白砂だった。
我は少し離れた位置に腰を下ろした。
「……冬って、音が少ないのね」
独り言だった。我に向けた言葉ではない。それでも我の耳が受け取った。確かにそうだ——夏なら虫が鳴き、秋なら風が木の葉を動かす。冬の朝は音が遠い。鳥の声が一つ、二つ、それだけだ。
真白の顔色はまだ優れなかった。眠れたのかどうかも分からない。言霊を大きく使った後の消耗は体だけでなく声にも出る。今朝の真白の声は少し掠れていた。
「玄丸は」
真白が我を見た。
「疲れてないの?」
我は耳をわずかに動かした。それだけだ。疲れているか否かを顔に出すのは我の流儀ではない。
「そう」
真白は微かに笑って、正面に向き直った。
しばらく二人で——一人と一匹で、庭を見ていた。石燈籠の倒れた跡に朝の光が当たっている。影が短い。冬至はもう過ぎた。日は少しずつ長くなっているはずだが、寒さはこれからが本番だ。
真名井実俊(まない の さねとし)が門の方からやってきたのは、日が竹垣の上まで上がってからだった。昨夜の疲れが顔に出ているが、目の光は落ちていない。手に細長い紙の束を抱えている——陰陽寮から届いた報告だろう。
「一夜明けて、観測符の反応を見てきました」
実俊は縁側の前で膝をついた。真白と我、両方を見た。
「北西・東・南、三点の裂け目——昨夜の後、数刻は動きが止まっていた。ただ」
一瞬、間があった。
「止まっているだけです。塞がってはいない」
真白が小さく頷いた。驚いた様子はない。昨夜の戦いで既に体が学んでいるのだろう——あれで終わりではないと。
「では、次が来るまでに何か打てる手は」
「安倍晴元(あべ の はるもと)どのが今日、陰陽寮で符師を集めて新しい観測網を組む手配をされています。北西の裂け目に特に重点を置くと。我々にできることは——今日のところは、まず休むことだと思います」
休む。
実俊がその言葉を使ったのは珍しかった。理詰めの青年が「休め」と言うとき、それは感情ではなく算段だ。消耗した状態でまた何かが来ても対処できない、という計算だ。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)は昨夜から姿を見ていなかった。気配は屋敷のどこかにある。塀の向こうか、あるいは影の内側か——消えてはいない。あの男が戦の後に姿を消すのはいつものことだ。体の消耗を他者に見せない。
縁側の古障子が、朝の光の中でただの古障子に見えた。目目連の眼球は閉じている。夜番が終わって休んでいるのかもしれない。湯殿の方からひょうすべが動く音がした——ひと晩中何があっても、あの者は湯を清めることを欠かさない。垢嘗がいつものように湯殿の隅を舐めているはずだ。
屋敷が、動いていた。
いつも通りとは言えない。石燈籠は倒れたままだし、玄関前の染みも消えない。だがここに生きているものたちは、今日も動いていた。
「あの、実俊さん」
真白が言った。
「昨夜、ありがとうございました」
実俊は少し面食らった顔をした。礼を言われることを予期していなかったらしい。
「私こそ。姫君が詠んでくださらなければ、核には届かなかった」
「でも、実俊さんの符が——」
「姫君の声と玄丸の理がなければ、符は通らなかった」
二人は少し黙った。
我は縁板の端に顎を乗せた。秋口から続いていたこの戦の中で、四者がこうして昼間に座って言葉を交わせる時間がどれほどあっただろう。いつも何かが起きており、誰かが走り、誰かが調べ、誰かが夜を徹している。
今日は、今のところ、何も来ていない。
昼前に真澄が戻ってきた。袴の裾に泥がついていた。どこかを歩いてきた。
「北の大路の染みを確認してまいりました、でございます。表面は乾いておりますが、地の下——三尺ほどの深さに、まだ動きがあるでござろう、と」
三尺。浅い。
我は耳を伏せた。真澄がそれを見た。
「ただし、動きは緩い。急に湧き出る気配はない、でございます。今夜は——」
少し置いた。
「今夜は、おそらく来ない、でござろう」
今夜は来ない。
それは保証ではない。真澄の観察と感覚に基づく推定だ。しかし真澄がそう言うなら、その精度は高い。
実俊が束ねていた紙を膝の上に置いた。真白が縁側から庭へ目を戻した。
「じゃあ、今日は——」
真白が言いかけて、止まった。どう続けるか迷ったようだった。
「今日は、ゆっくりしましょうか」
誰かが答えたわけではなかった。実俊が符の束を衣の内側にしまった。真澄が縁に腰を下ろした。我は顎を縁板に乗せたまま、庭の光を見た。
冬の日差しは低く、影が長い。倒れた石燈籠の影が砂利に伸びていた。直してやらなければならないが、今日でなくてもいい。
厨から出汁の匂いがまた来た。昼の支度をお梅が始めたのだろう。
わらべ——厨の座敷童子が、柱の陰からひょこりと顔を出した。小さな手に干した柿を持っている。誰かにやろうとして、人が多いので躊躇っている。
真白が小さく笑って、手を差し伸べた。
わらべが走り寄って、柿を押しつけた。そのまますぐに柱の陰へ戻った。
真白がその柿を見て、また笑った。今度は音がした。昨夜から初めて聞く、真白の笑い声だった。
我は縁板に顎を乗せたまま、目を細めた。
今夜は、来ない。
ならば、今日この時間は、ある。
玄関前の白砂の染みが、冬の光の中で少しずつ色を薄めていた。完全には消えない。それでも、今日の光はそこにも当たっていた。




