第百二十二話「共鳴の結界」
夜叉が戻ってきた。
今度は一度では止まらなかった。
退いてから二刻も経っていなかった。玄関前の亀裂がまだ砂の中で白く光っているうちに、北の気が再び膨れ上がった。前より速い。前より重い。我が庭の土越しに感じた密度は、一度目の比ではなかった——核が、完全に固まっている。
真名井実俊(まない の さねとし)は縁側の柱に寄りかかって一枚も符を無駄にせず待っていた。眠ってなどいない。藤原真白(ふじわら の ましろ)も几帳の内側で衣擦れの音もなく座っていた——と分かったのは、我が庭へ向いた瞬間に彼女もすでに立ち上がっていたからだ。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)は塀の上に影のように張り付いたまま夜を過ごしていた。一度目の退散から一歩も動いていない。
四者全員、分かっていた。戻ってくると。
「——来た」
実俊が符の束を右手に収めながら言った。我は視線で応じた。尾を一度水平に振る。真白が手燭を消した。明かりは要らない。むしろ邪魔だ。
塀が鳴った。石の摩擦音ではない。塀そのものが鳴った、と言う方が近い。一度目に崩れた石積みの欠けた箇所から夜叉の腕が割り込み、次の瞬間には上半身が塀の上に乗り出していた。黄色い目の光が庭を舐めるように動いた。
胸の中心の黒い密度が、一度目より明確に凝集しているのが霊的感知に引っかかってくる。表面を崩しても再生する速度も上がっているはずだ。
「中心を狙う。それ以外は無駄です」
実俊が言った。一度の交戦で彼も同じ結論に達していた。我は縁の木板を前足で一度打った。肯定の合図だ。真澄が塀の上から降り、庭の砂利に音もなく着地した。
「胸を開かせねばならぬ。……隙は一度だ」
腕を大きく振り上げたとき、体の前面が開く。その一瞬だけ、核が外気に向く。そこへ符と真白の言霊を同時に叩き込む——それが真澄の提示した手順だ。
問題は、腕を振り上げさせる誘引が必要なことだ。
姫君が前へ出た。
我は体を庇うように真白の前脚の側面に割り込んだ。彼女の足が一瞬止まる。だが彼女は我を押しのけるのではなく、かがんで我と目を合わせた。
「分かってる。でも、私でないと届かない」
言霊は発する者の器によって射程が変わる。真白の言霊は、今の真白自身が立った場所から発しなければならない。我の土の理や実俊の符で間接的に増幅することはできるが、真白が後方にいたのでは夜叉の核まで届かない。
我は一歩退いた。
それを見て真白は、かすかに口角を上げた。笑いではない。腹を決めた顔だ。
夜叉が塀を越えた。着地の衝撃で白砂が波打った。庭の石燈籠が一つ、揺れて倒れた。高さ二間を超える巨体が月明かりを遮り、黄色い光の目が一点——姫君を見た。
動く。
真澄が影に溶けた。実俊が符を三枚、夜叉の肩と脇に向けて同時に放った。符は当たらなかった——夜叉が払ったのではなく、符が夜叉の表皮に弾かれた。一度目より外壁が硬くなっている。
「くっ——」
実俊が歯を噛んだ。我は喉を鳴らした。金の理の振動を夜叉の光眼に向けて細く絞り込む。鈴声が核ではなく目だけを叩く。一度目と同じ手だが、効きは確実に落ちていた。それでも夜叉の動きが半歩分だけ揺らいだ。
その半歩を、真澄が使った。
影から現れた人影が夜叉の背後に回り、両腕を掴んで後方へ引いた。人の力ではありえない動きだ。妖の血が体の外に滲んでいる——影がその腕を伝って夜叉の後背部に絡みついていた。完全には止められない。だが一瞬だけ腕を引き上げさせた。
巨体の胸が、開いた。
「——姫君!」
実俊が叫んだのと、真白が詠んだのは同時だった。
詠むとは言っても、歌の形ではなかった。言葉というより息の流れだった——喉の奥から出てきた音が、そのまま夜気を揺るがした。我はその音を受け取った瞬間、体の内側の理が共振するのを感じた。
声と理が、触れた。
土の理の残滓をかき集め、真白の言霊の流れに沿わせる。彼女の言葉が方向を決め、我の理がその輪郭を補強した。一度目は彼女の声が届かなかった——術式も祓いも、単体では黒い密度を傷つけられなかった。だが今は違う。真白の音と我の理が同じ方向を向いている。
実俊が符を全力で投じた。五枚が一列に並んで夜叉の胸の中心へ向かった。
白い光の帯が真白の声と絡み合い、我の理の膜を纏って黒い密度に届いた。
音が止んだ。
黄色い光の目が、揺れた。
次の瞬間、核から黒い光が溢れた——溢れたのではなく、崩れた、という方が正確だ。凝集していたものが解け、内側から霧散した。夜叉の巨体が揺れ、膝をついた。塀の一部が崩れる音がした。夜叉の輪郭が滲み、霧になり、冬の夜気に溶けていった。
静寂が戻ってきた。
白砂の上に、黒い染みだけが残った。
令嬢が膝をついた。倒れたのではない——力が抜けて、その場に座り込んだ。実俊が駆け寄る。真澄が影から戻り、庭を一度見渡してから「残存はない」と短く言った。
真白の傍らに寄った。
彼女の手が我の背に触れた。震えていた——恐怖ではなく、言霊を発した後の消耗だ。体が冷えている。我はその膝の上に乗り、背中から体温を伝えた。喉を鳴らす気力は残っていなかったが、それでも手が少しずつ落ち着いてきた。
「……やっつけた、の?」
真白が我を見た。我は一度、瞬きした。
だが目を細めたまま、庭の黒い染みを見ていた。
消えた。だが、これで終わりではない——核は確かに壊れた。しかし永劫炉の残滓そのものが消えたわけではない。染みの下から微かに届く感触がある。地の下深くで、まだ動いている。
真澄も同じものを感じているはずだ。横を見ると、家令はやはり染みを見ていた。
「……完全ではない。核を一つ潰した——ただし根は残っているでござろう」
実俊が符の束を衣の内側にしまいながら言った。「では次が来る、ということですか」
「来る。ただし——しばらくは」
真澄が少し間を置いた。
「凝集に時間が要るでござろう、と」
東の空が白み始めていた。冬の夜明けは遅い。それでも確かに光が来ていた。白砂の上の黒い染みが、薄明の中で少しずつ色を薄めていく。完全には消えない。だが見えなくなる。
真白が我を両腕で抱き上げた。
「あなたたちのおかげよ」
実俊を見て、真澄を見て、最後に我を見た。我は真白の腕の中で目を閉じた。
——共鳴できた。
真白の言霊と我の理が同じ方向を向いた、あの一瞬。そこに何があったのかを、我はまだ正確には言語化できない。理論ではなく、体が先に知っていた。
かつてアルメラで我が研究し尽くした理の体系に、この感触はなかった。
それが今、ひどく気になっていた。
縁側の古障子の目が、また一つ灯った。目目連が北を確認して、静かに閉じた。屋敷の夜が、終わった。




