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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第六章:決戦前夜

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第百二十二話「共鳴の結界」

夜叉が戻ってきた。


今度は一度では止まらなかった。


退いてから二刻ふたときも経っていなかった。玄関前の亀裂がまだ砂の中で白く光っているうちに、北の気が再び膨れ上がった。前より速い。前より重い。我が庭の土越しに感じた密度は、一度目の比ではなかった——核が、完全に固まっている。


真名井実俊(まない の さねとし)は縁側の柱に寄りかかって一枚も符を無駄にせず待っていた。眠ってなどいない。藤原真白(ふじわら の ましろ)も几帳の内側で衣擦れの音もなく座っていた——と分かったのは、我が庭へ向いた瞬間に彼女もすでに立ち上がっていたからだ。


葛上真澄(かずらがみ の ますみ)は塀の上に影のように張り付いたまま夜を過ごしていた。一度目の退散から一歩も動いていない。


四者全員、分かっていた。戻ってくると。


「——来た」


実俊が符の束を右手に収めながら言った。我は視線で応じた。尾を一度水平に振る。真白が手燭を消した。明かりは要らない。むしろ邪魔だ。


塀が鳴った。石の摩擦音ではない。塀そのものが鳴った、と言う方が近い。一度目に崩れた石積みの欠けた箇所から夜叉やしゃの腕が割り込み、次の瞬間には上半身が塀の上に乗り出していた。黄色い目の光が庭を舐めるように動いた。


胸の中心の黒い密度が、一度目より明確に凝集しているのが霊的感知に引っかかってくる。表面を崩しても再生する速度も上がっているはずだ。


「中心を狙う。それ以外は無駄です」


実俊が言った。一度の交戦で彼も同じ結論に達していた。我は縁の木板を前足で一度打った。肯定の合図だ。真澄が塀の上から降り、庭の砂利に音もなく着地した。


「胸を開かせねばならぬ。……隙は一度だ」


腕を大きく振り上げたとき、体の前面が開く。その一瞬だけ、核が外気に向く。そこへ符と真白の言霊を同時に叩き込む——それが真澄の提示した手順だ。


問題は、腕を振り上げさせる誘引が必要なことだ。


姫君が前へ出た。


我は体を庇うように真白の前脚の側面に割り込んだ。彼女の足が一瞬止まる。だが彼女は我を押しのけるのではなく、かがんで我と目を合わせた。


「分かってる。でも、私でないと届かない」


言霊は発する者の器によって射程が変わる。真白の言霊は、今の真白自身が立った場所から発しなければならない。我の土の理や実俊の符で間接的に増幅することはできるが、真白が後方にいたのでは夜叉の核まで届かない。


我は一歩退いた。


それを見て真白は、かすかに口角を上げた。笑いではない。腹を決めた顔だ。


夜叉が塀を越えた。着地の衝撃で白砂が波打った。庭の石燈籠いしどうろうが一つ、揺れて倒れた。高さ二間を超える巨体が月明かりを遮り、黄色い光の目が一点——姫君を見た。


動く。


真澄が影に溶けた。実俊が符を三枚、夜叉の肩と脇に向けて同時に放った。符は当たらなかった——夜叉が払ったのではなく、符が夜叉の表皮に弾かれた。一度目より外壁が硬くなっている。


「くっ——」


実俊が歯を噛んだ。我は喉を鳴らした。金の理の振動を夜叉の光眼に向けて細く絞り込む。鈴声れいせいが核ではなく目だけを叩く。一度目と同じ手だが、効きは確実に落ちていた。それでも夜叉の動きが半歩分だけ揺らいだ。


その半歩を、真澄が使った。


影から現れた人影が夜叉の背後に回り、両腕を掴んで後方へ引いた。人の力ではありえない動きだ。妖の血が体の外に滲んでいる——影がその腕を伝って夜叉の後背部に絡みついていた。完全には止められない。だが一瞬だけ腕を引き上げさせた。


巨体の胸が、開いた。


「——姫君!」


実俊が叫んだのと、真白が詠んだのは同時だった。


詠むとは言っても、歌の形ではなかった。言葉というより息の流れだった——喉の奥から出てきた音が、そのまま夜気を揺るがした。我はその音を受け取った瞬間、体の内側の理が共振するのを感じた。


声と理が、触れた。


土の理の残滓をかき集め、真白の言霊の流れに沿わせる。彼女の言葉が方向を決め、我の理がその輪郭を補強した。一度目は彼女の声が届かなかった——術式も祓いも、単体では黒い密度を傷つけられなかった。だが今は違う。真白の音と我の理が同じ方向を向いている。


実俊が符を全力で投じた。五枚が一列に並んで夜叉の胸の中心へ向かった。


白い光の帯が真白の声と絡み合い、我の理の膜を纏って黒い密度に届いた。


音が止んだ。


黄色い光の目が、揺れた。


次の瞬間、核から黒い光が溢れた——溢れたのではなく、崩れた、という方が正確だ。凝集していたものが解け、内側から霧散した。夜叉の巨体が揺れ、膝をついた。塀の一部が崩れる音がした。夜叉の輪郭が滲み、霧になり、冬の夜気に溶けていった。


静寂が戻ってきた。


白砂の上に、黒い染みだけが残った。


令嬢が膝をついた。倒れたのではない——力が抜けて、その場に座り込んだ。実俊が駆け寄る。真澄が影から戻り、庭を一度見渡してから「残存はない」と短く言った。


真白の傍らに寄った。


彼女の手が我の背に触れた。震えていた——恐怖ではなく、言霊を発した後の消耗だ。体が冷えている。我はその膝の上に乗り、背中から体温を伝えた。喉を鳴らす気力は残っていなかったが、それでも手が少しずつ落ち着いてきた。


「……やっつけた、の?」


真白が我を見た。我は一度、瞬きした。


だが目を細めたまま、庭の黒い染みを見ていた。


消えた。だが、これで終わりではない——核は確かに壊れた。しかし永劫炉の残滓そのものが消えたわけではない。染みの下から微かに届く感触がある。地の下深くで、まだ動いている。


真澄も同じものを感じているはずだ。横を見ると、家令はやはり染みを見ていた。


「……完全ではない。核を一つ潰した——ただし根は残っているでござろう」


実俊が符の束を衣の内側にしまいながら言った。「では次が来る、ということですか」


「来る。ただし——しばらくは」


真澄が少し間を置いた。


「凝集に時間が要るでござろう、と」


東の空が白み始めていた。冬の夜明けは遅い。それでも確かに光が来ていた。白砂の上の黒い染みが、薄明の中で少しずつ色を薄めていく。完全には消えない。だが見えなくなる。


真白が我を両腕で抱き上げた。


「あなたたちのおかげよ」


実俊を見て、真澄を見て、最後に我を見た。我は真白の腕の中で目を閉じた。


——共鳴できた。


真白の言霊と我の理が同じ方向を向いた、あの一瞬。そこに何があったのかを、我はまだ正確には言語化できない。理論ではなく、体が先に知っていた。


かつてアルメラで我が研究し尽くした理の体系に、この感触はなかった。


それが今、ひどく気になっていた。


縁側の古障子の目が、また一つ灯った。目目連もくもくれんが北を確認して、静かに閉じた。屋敷の夜が、終わった。

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