第百二十一話「夜叉の乱入」
冬の夜気が、急に割れた。
空が鳴ったのではない。何かが空を押し退けた——そういう音だった。
縁側の端で丸まっていた我は、耳をそばだてるより先に四肢を起こしていた。屋根の霜が、微かに粉けた。普通の地揺れではない。震源が上だ。
鵺の遠音だ。
あの独特な鳴き声の断片——猿でも虎でもない、その混じり合いが夜気に溶けてきたのはほんの瞬きほどの時間だった。それが北北西から南へと弧を描いて消えていった。ぬらりひょんとの取り決めで言えば「大型が動いた」という合図になる。
我は縁板を蹴って庭へ降りた。
霜を踏む感覚が足裏に刺さる。冬の地は固く、土の理の伝わりが悪い。それでも北の気を辿れば——ある。重い。これまで感じた魔物の気配よりずっと密度が違う。束ねた鉄の棒を一本一本折るような、鈍く圧のある威圧だ。
渡り廊下の古障子に目が灯った。目目連が複数の眼球を北へ向け、その眼差しが一点に集中している。
「……出た。北の大路。大きい」
声ではない。目から眼差しが零れ出るように伝わってくる言葉の塊だ。我は尾を一度打ちつけて応じた。
藤原真白(ふじわら の ましろ)が几帳を引いて渡り廊下へ出てきたのは、そのすぐ後だった。袿を肩に引っ掛けただけの姿で、目が覚めていた。最初から眠れていなかったのかもしれない。
「……今の音、何?」
我は北を向いたまま動かない。それが答えだと分かってくれる。真白はしばらく北の闇を見つめ、唇をわずかに引き結んだ。
「行くの?」
問いではなく確認だ。彼女は既に手燭を持ち、足袋を履いていた。
真名井実俊(まない の さねとし)が門の方から駆けてきたのは間もなくだった。陰陽師の装束ではなく素袍姿のまま、手に幣束を持っている。夜通し陰陽寮の観測符を確認していたのだろう、目の縁が赤かった。
「北の大路に何かが降りました。観測符が同時に三枚焼き切れた。三枚同時などこれまでなかった」
息が白く散る。我は実俊の言葉を聞きながら北の気の流れを改めて辿る。
——近い。来ている。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)は既に塀の上にいた。いつ移動したのか、影から切り出されたように立っている。
「来ます」
断言だった。「でござろう」でも「ございます」でもなく、ただ「来ます」と落とした。それが我の警戒を最高潮に引き上げた。真澄が言い切るとき、それは目で確かめたことだ。
轟音が来た。
地面が揺れたのではない。夜気が揺れた。大路の突き当たり——藤原家の邸の前の土道——に何かが着地した衝撃が、空気を通して胸の奥まで届いた。塀の板が数枚、嫌な音を立てて軋んだ。
我は塀の陰から気の流れだけで輪郭を探る。
大きい。
これまでの魔物は霧か気流のようなものだった。形が定まらず、引き裂いても再び集まる不定形の害だ。だがこれは違う。輪郭がある。骨がある。二本の脚で地を踏み、二本の腕がある。身の丈は二間を超えるだろう。牛より重い。
そして——ただの巨体ではない。内側に核がある。永劫炉の残滓が、何かの「形」を纏っている。
以前の魔物はあくまで滲み出た欠片だった。それが今夜、一点に凝集して形になった。
夜叉、と我は内心でその名を当てた。かつて経典や都人の話の端に聞いたことがある——鬼神の一種。だが目の前のそれは信仰の産物ではない。永劫炉の残滓が夜叉という「形の型」に流れ込んだものだ。人の恐れが作った型が、魔の依り代になった。
真白が短く息を吸い込む気配がした。
塀の向こうに顔が見えた。二つの目が黄色く灯り、しかしそれが「目」と判断できるのは位置の関係だけで、焦点も動きも生物のものではない。ただ光っている。腕が塀の上縁を掴んだとき、石積みがひと塊、音を立てて崩れた。
実俊が幣束を正面に構える。「——払え」と短く唱えて術式を放った。白い光が飛んで夜叉の肩に当たり、そこに焦げ跡のような痕を作った。動きが一瞬止まった。
有効だ、と我は判断した。陰陽の清めの術が通じる。だが——足りない。肩の痕はもう塞がりかけている。
喉の奥で音を作った。鈴を打つより低く、弦をこするより高い、金の理の起点となる振動だ。喉の皮膚ひとつひとつが共振し、波が広がっていく。鈴声をその巨体へ向けて放つのではなく、目の部分——光の核の部分だけに集中させた。
巨体が頭を振った。
光が揺らいだ。一瞬だけ、焦点が散った。
それで十分だった。真澄が塀の縁から影に溶け、夜叉の背後へ回った。短刀の腹で首の付け根を打つ。打撃音が響き、夜叉が前に崩れた。だが膝だけをついて、すぐに立ち上がる。
倒れない。
実俊が符を重ねて投げる。三枚が夜叉の正面で炸裂した。夜叉の上体が仰け反った。真澄が再び影から現れ、玄関前の白砂に封印紋を踏み鳴らした。砂が螺旋を描いて盛り上がり、夜叉の踏み込みを止めた——しかし夜叉の腕が振り下ろされ、砂の封印ごと大地を打った。地面に亀裂が走った。
真白が息を呑むのが聞こえた。
我は土の理に集中した。結界座の膜を縮め、屋敷の門前だけを覆う小さな壁として凝縮させる。猫の肉体が許す最大限まで絞り込んだ。
白砂の下から、光が浮かんだ。
薄い。だが確かにある。玄関前の土が膜のように張り、夜叉の次の踏み込みを一歩だけ受け止めた。
「——今!」
真澄の声だった。実俊が符を最後の一枚、胸の中心の黒い密度——核へ向けて叩きつけた。
白光と黄光がぶつかり、巨大な輪郭が一瞬揺らいだ。
だが、消えなかった。
輪郭が揺らいだまま、夜叉は後退した。塀の外へ退いていく。追撃しようとした実俊の腕を真澄がさりげなく止めた。
「追うな。これは——まだ、始まりに過ぎぬ」
夜気が戻ってくる。北の大路の気配が、遠のいた。
完全に消えたわけではない。気の痕跡が残っている。
我は四肢の力を緩め、冷えた地に腹をつけた。真白が傍らに来て、ためらいなく我を抱き上げた。温かかった。彼女の指が我の耳の後ろに触れ、何も言わなかった。
空の向こうで、鵺の遠音がもう一度響いた。今度は長い。
我は目を細めたまま、夜叉が消えていった北の闇を見ていた。
——一度では終わらない。あれはまだ完全な形ではなかった。次は完全に現れてくる。
玄関前の白砂に、亀裂が一本、真っ直ぐ走ったままだった。
【妖怪図鑑】
■夜叉
【分類】鬼神系魔物(変異体)
【危険度】★★★★☆(高)
【レア度】★★★★★(極めて稀)
【出現場所】界境の裂け目付近・都の大路・陰の気が凝集する場所
【特徴】
もとは仏法の護法神として知られる鬼神の名だが、界境の乱れによって変質した存在。本来の夜叉は善悪二面を持つとされるが、今回現れたそれは永劫炉の残滓が「夜叉」という人の恐れの型に流れ込んだ異形の魔物であり、護法の性質は失われている。二間を超える巨躯に黄色く灯る光の目を持ち、石積みの塀を素手で崩す膂力がある。特筆すべきは「核」の存在——胸の中心に高密度の魔の凝集点を持ち、これが生きている限り体表の損傷は再生する。
【得意技】
・重圧震動:地を踏む衝撃だけで周囲の空気と土を揺らす
・再生:体表の傷は核が存在する限り速やかに塞がる
・光眼威圧:黄色い目の光が周辺の霊的感知を妨げる
【弱点】
・陰陽師の清めの術(符・幣束)が核に有効
・金の理による音の干渉で一時的に焦点を失わせられる
・核そのものを直接打撃・消滅させなければ完全には倒せない
【生態】
不定。界境の裂け目が広がるほど凝集しやすくなる。単独で現れるが、その分一体の密度が通常の魔物の数倍に達する。以前の霧状・気流状の魔物とは質的に別物であり、物理的な「形」を持つことで屋敷の結界や封印紋を直接打ち破ろうとする行動をとる。
【玄丸の評価】
「あれはただの巨体ではない。内側に核がある——それが原因であり、結果であり、倒すべき一点だ。表面をいくら削っても無駄だということを、今夜で全員が学んだ。次は核を狙う手順を整えておかなければならない。これほどの密度で形を作れるなら、次に現れるときはさらに完成に近いはずだ。悠長に構えている場合ではない」
【遭遇時の対処法】
単独での対処は推奨しない。陰陽師の清めの術と封印紋の組み合わせが有効だが、完全消滅には核への集中打撃が必要。核は胸の中心部にあり、高密度の魔が凝集している黒い点として霊的感知に引っかかる。金の理による攪乱で一時的に動きを止め、その間に核へ符や言霊を集中させるのが現状最も有効な手順と考えられる。
【豆知識】
夜叉はもともとインド由来の鬼神で、仏法の守護者としての側面を持つとされる。都の人々の間では「人を食らう恐ろしい鬼」として恐れられているが、本来の性質は善悪入り混じった複雑なものだ。今回現れたそれは本来の夜叉とは全く別物——「夜叉」という人の恐れの輪郭だけを借りた、界境の魔の塊である。




