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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第五章:界境の綻び

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第百二十話「妖怪たちの決意」

庭の土が、動いた。


正確には、土の下の脈が動いた。結界座けっかいざの根が走る白砂の層から、普段とは異なる振動が伝わってきたのだ。脅威ではない。我の張った膜に何かが触れているわけでもない。むしろ逆だ。外から、何かが押し寄せてくるのではなく——何かが、集まってきている。


玄丸くろまろは縁側から庭へ下りた。


秋の深夜だった。屋敷の灯火あかりはとうに落ちており、真白ましろ実俊さねとしも眠っている。葛上真澄(かずらがみ の ますみ)だけが母屋の隅でまだ気配を保っていたが、こちらへは来なかった。


白砂を踏む。冷たい。だが確かに、大地の下で何かが集まりつつある。


古椿こつばきの枝が、音もなく揺れた。


風のない夜だった。それでも椿は揺れた。根の方から動いているのだと、我は知っていた。古い木の精が、土の言葉を使って何かを伝えようとしている。我は枝の下まで歩み寄り、幹に背を向けて庭の中央に座った。


待つことにした。


最初に来たのは河童かっぱだった。


塀の外から水の匂いが立ち、次の瞬間には九助きゅうすけが庭石の陰に顔を出していた。その子は頭の皿に水を満たして慎重に塀を越えてきたらしく、砂の上に濡れた足跡を残しながら近づいてきた。父親も後ろに続いた。互いに言葉もなく、ただ庭の隅にそれぞれ落ち着いた。


次は音だった。


空から、ほとんど音のない翼の気配。天狗てんぐだ。若い天狗——以前、下駄を忘れて慌てて取りに来たあの気の荒い若者が、松の枝に降り立った。人の形ではなく、大きな翼のある姿のままだった。夜を飛んできたのだろう、羽根の先にまだ霜が残っている。


続いて、鎌鼬かまいたちが風に乗って現れた。


細い体を持つそのあやかしは刃の爪をしまい込み、庭の端に腰を下ろした。風の流れを読む鋭い目が我の方をちらりと見た。互いに頷く代わりに、我は尾を一度立てた。


塀の外から、どすりとした重い気配がした。


火車かしゃだ。


死体を運ぶその妖怪は屋敷の内には入らない。だが塀のすぐ外に留まり、低い唸り声のような音を発した。来ている、という意味だと我は受け取った。


渡り廊下の障子が、音もなく開いた。


目目連もくもくれんが幾つもの瞳を開き、庭を見渡した。屋敷の監視役として定着したこの妖怪は、今夜は障子の枠ごとわずかに前へ傾いて、庭に集まってきた妖怪たちをひとつひとつ確かめるように瞳を動かした。


湯殿の方から水音がした。


ひょうすべが出てきた。続いて垢嘗あかなめも顔を出した。屋敷に住み着いたこの二匹は最初から庭にいたも同然で、事情を飲み込んでいるのか飲み込んでいないのか定かでないまま、ともかく輪の中に加わった。


くりやの方から、わずかな気配。


座敷童子ざしきわらしのわらべが、厨の格子の隙間からこちらを覗いていた。出てはこなかった。来たくても来られない事情でもあるのか、あるいは単に眠かったのか——それでも目だけはしっかりと庭を見ていた。我は視線だけでわらべに向き合い、まばたきをした。わらべは格子の隙間からほんの少し手を出し、すぐに引っ込めた。


点しともしびが廊下の角から現れた。


提灯の妖怪は火を安定させながら、庭の中ほどまで移動し、そこで止まった。暗い夜の庭に、橙色の光が一点だけ灯る。その光に引き寄せられるように、妖怪たちの輪が少しだけ中心に向かった。


そこへ、ぬえ遠音とおねが届いた。


屋敷の外から、複数の音が重なった独特の響きだった。北の山際の方角、今夜は少し西寄りだ。何かを告げている音ではなく——集会に遅れると知らせる音、だと我は解釈した。あの複合の翼は今夜も都の外縁を飛んでいる。来ることはできないが、気配だけは送ってきた。


最後に来たのは、ぬらりひょんだった。


いつ、どこから入ったのか分からなかった。気づいたときには縁石の上に座っており、白い頭が月のない夜の中でも妙に目立った。妖怪の総大将と呼ばれるこの老人は、我の目を見てゆったりと顎を引いた。


「揃ったな」


声は低く、無駄がなかった。


庭に静止した妖怪たちが、それぞれの方法でぬらりひょんの言葉に応じた。河童の九助が皿の水を揺らし、天狗が翼を一度たたみ、鎌鼬が爪先で砂を一線引いた。目目連の瞳が一斉に開き、点し火の炎が微かに揺れた。


我は庭の中心に座ったまま動かなかった。


ぬらりひょんが続けた。


「お前たちに問う。都が変わりつつある。界境かいきょうの綻びから、ことわりの乱れたものが入り込んでいる。このまま放っておけば、都は変わる。人も変わる。あやかしの居場所も変わる」


天狗が嘴を開いた。


「俺は山から来た。山の気が狂い始めている。風の道が変わった。このままでは降り場所がなくなる」


火車が塀の外から唸った。声ではなく、腹の底に響く低い振動だった。


鎌鼬が言った。


「風も、おかしい。乗れる流れが減った。東の方から、乗れない風が増えている」


河童の父親が口を開いた。


「川の水が変わった。川底に何かが溜まっている。魚も減った。九助が川に入るのを止めさせている」


ひょうすべが頭を搔いた。


「風呂の水も変わったと思ったら。なるほどそういうことか」


垢嘗が小さな声でつぶやいた。


「汚れの質が変わった。普通の汚れじゃない。変な味がする」


ぬらりひょんが一同を見回した。


「つまり。山も川も風も、すでに変わっている」


誰も反論しなかった。


我は尾を一度、ゆっくり動かした。そうだ、という意味だ。ぬらりひょんの視線が我に向いた。


「猫よ。お前が知っていることは多いだろう。だが今夜はそれを問わない」


我は目を細めた。


「ただひとつだけ訊く。この屋敷の姫君と、陰陽師の青年と、半妖の家令——三者は、戦う気があるか」


我は立ち上がり、四つ足で庭の中央に踏み出した。まっすぐに、ぬらりひょんの目を見た。答えは、尻尾ではなく全身で示す必要があった。


背筋を伸ばし、耳を立て、瞳を開いた。


ぬらりひょんは長い間、我を見た。


それから、顎を引いた。


「分かった」


静かな一言だった。だがその言葉が落ちた瞬間、庭の空気が変わった。天狗が翼を広げて姿勢を正した。河童の父親が九助の頭を叩いた。鎌鼬が爪の向きを変えた。目目連の瞳が庭全体を包むように開かれた。


ぬらりひょんが立ち上がった。縁石から降りた老人は、やけに背が高かった。


「では申し渡す。山の妖怪は北西の山際を押さえる。川の妖怪は水の乱れを報告し続ける。風の使い手は上空から変化を読む。屋敷の者は内からこの場所を守る。そして——」


目目連の方を向いた。


「情報の要は引き続きお前だ。見たことをすべて猫に伝えろ」


目目連の瞳が一斉にまたたいた。


火車が塀の外で短く唸った。ぬらりひょんはそちらへ顎をしゃくった。


「お前は、死の気配が動いたら先に動け。場を清める役はお前にしかできない」


塀の外の気配が沈黙で応じた。


点し火が炎を一度大きく揺らした。ぬらりひょんが見やった。


「お前は中にいろ。暗い場所に、光はいる」


我はぬらりひょんを見た。老人が我の視線に気づき、こちらへ向き直った。


「猫よ」


声の質が変わった。他の妖怪たちに言い渡す声ではなく、同じ目の高さで話す声だった。


「お前が抱えているものが何であれ、今夜ここに集まった者たちは都を捨てるつもりはない。人間どもが何百年とかけてここに作り上げてきたものが、我らの棲み処でもある」


我は瞳を細めた。


それ以上の言葉は出なかった。出す必要もなかった。


ぬらりひょんは縁石に戻り、また腰を下ろした。それが合図だったかのように、妖怪たちが静かに散り始めた。天狗が翼を広げ、夜空へ消えた。鎌鼬が風に乗った。河童の父子が塀を越えた。九助が振り返り、手を一度振った。


ひょうすべと垢嘗は湯殿へ戻っていった。


点し火は廊下の角で止まり、炎を小さく保ちながら灯り続けた。


目目連の障子が元の位置に戻り、複数の瞳がまた北と東を向いた。


わらべは、気づくと厨の格子から消えていた。


ぬらりひょんだけが残っていた。我も動かなかった。


どのくらいの間、二者だけで庭にいたのか分からない。老人は我を見ず、夜空を見ていた。星もなく、月もない夜だった。


やがてぬらりひょんが言った。


「お前は疲れているか」


我はまばたきをしなかった。


「そうか」


老人はそれきり口を閉じた。問いを重ねなかった。それで十分だと判断したのか、あるいは答えを既に知っていたのか。


しばらくして、ぬらりひょんは立ち上がった。どこへ向かうとも告げず、ただ白い頭が夜の中へ溶けた。気づいたときには庭に我一匹だけが残っていた。


土の振動が、先ほどより落ち着いている。


集まっていた気配が散ったためだ。だが今夜の庭は昨夜の庭ではなかった。目に見えない何かが、白砂の上に残っている。約束、という言葉が近いが、言葉にするには少し大げさだ。ただ、それぞれがそれぞれの場所に戻り、それぞれの方法で同じ方角を向いた——それだけのことが、確かに起きた。


我は古椿の幹に近づき、一度だけ背を擦りつけた。


木の精が応えるように、根の振動が掌へ伝わった。


北西の空が、暗い。


冬が来る前に、決定的な何かが起きるだろう。その予感はもう随分前から我の内にあり、今夜さらに輪郭を持った。だが今夜ここで起きたことは、その予感の向こう側にある。この都の土に根を張ったものたちが、まだそこにいる。


我は縁側へ上がり、屋敷の中へ戻った。


点し火の橙色が廊下を細く照らしていた。


その光の中を、我は真白の部屋へ向かって歩いた。

【妖怪図鑑】


■ぬらりひょん

【分類】老人型妖怪/妖怪の総大将

【危険度】★★★★☆(高——ただし敵対的ではない)

【レア度】★★★★★(極めて稀)

【出現場所】どこにでも現れる。特に人の集まる場所、格式ある屋敷の座敷など


【特徴】

白い大きな頭を持つ老人の姿をした妖怪。百鬼夜行の頭領とも呼ばれ、妖怪の総大将と目される。「勝手に人の家に上がり込み、茶を飲んでいる」という伝承を持つが、その本質は支配や威圧ではなく、静かな存在感にある。多くの妖怪たちから一目置かれており、その言葉には自然と重みが宿る。


【得意技】

・気配の消去:人間も妖怪も、いることに気づかぬまま時が過ぎる

・言葉の重さ:短い言葉で大勢の意志をまとめる

・状況把握:その場の空気をすべて読み取る


【弱点】

・特になし——ただし、自ら争いを起こすことはない

・「なぜそこにいるのか」という問いには答えない


【生態】

特定の住処を持たず、気ままに各地を訪れる。妖怪たちの間では「ぬらりひょんが姿を見せたときは何かが動く前兆」と言われる。しかし害を与えることは少なく、むしろ混乱した場の収拾役として動くことが多い。


【玄丸の評価】

「かつて同格と呼べる人間がいたか、と問われれば頷きかねた。しかしこの老人には、何かそれに近いものがある。言葉の経済が我と似ている。無駄を嫌い、必要なことだけを言う。こういう妖怪と都の同じ夜を生きていることが、今夜初めて確かに分かった」


【遭遇時の対処法】

無理に追い払おうとしないこと。ぬらりひょんは居心地のよい場所に自然に留まり、居心地が悪くなれば自然に去る。危害を加えてくることは稀で、むしろ話しかけると予想外に深い言葉が返ってくる。



ぬえ【補足記録】

【分類】複合型妖怪

【危険度】★★★☆☆(中)

【レア度】★★★★☆(稀少)

【出現場所】山野の夜空、深夜の屋敷周辺


【特徴】

猿の頭、狸の胴、虎の足、蛇の尾を持つとされる複合的な姿の妖怪。鳴き声は複数の音が同時に重なり、聞いた者に不安と胸騒ぎをもたらすと言われる。しかしその遠音とおね——遠くまで届く独特の鳴き方——は、信頼できる相手への伝言として使われることもある。


【得意技】

・遠音:遠距離への意志の伝達

・夜間飛行:暗夜でも自在に動く

・気配の察知:界境の乱れを音として感知する


【弱点】

・多くの者に恐れられるため、近づく者が少ない

・信頼関係の構築に時間がかかる


【生態】

単独行動を好む。都の周縁部や山と町の境目を主な縄張りとし、界境の異変に敏感に反応する。人間とも妖怪とも深く関わろうとしないが、一度信を置いた相手には誠実に動く。


【玄丸の評価】

「最初に接触したとき、互いの言葉は少なかった。だが少ない言葉の中に嘘がなかった。それで十分だ。遠音の意味を読み取るには少し慣れがいるが、今はもう大体分かる。北西の空を任せられる相手は、今のところこの鵺しかいない」


【遭遇時の対処法】

鳴き声を聞いても慌てて逃げないこと。恐れを示すと距離を置かれる。足を止めて相手の動きを観察することが先決。鵺が何かを伝えようとしている場合、鳴き声の方向と回数に意味がある。

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