第百十九話「民の不安」
土の理が、薄い。
屋根の上から都を見渡すと、その感覚がいっそう鮮明になった。白砂を踏む足裏でならば微かに拾えるはずの大地の脈動が、夜の屋根瓦の冷たさを通してはほとんど届かない。まるで地そのものが息を潜めているかのようだ。
秋の夜気が毛を逆立てようとするのを堪え、我は尾の先だけをゆるく揺らした。
北の空は相変わらず黒い。星もなく、月もない。分厚い雲の裏で何かが蠢いている気配だけが、皮膚の奥まで染みこんでくる。これで三夜続けて、この重さだ。
——都の土が、疲れている。
屋根から屋根へと渡り歩くうち、東の外れに近い区画へ差しかかった。普段ならば格子戸の向こうに灯りのひとつやふたつ見えるはずの家並みが、この夜はどこも暗い。人々が日没とともに内に引き籠もり、戸を固く閉めているのだ。
焦げた木の匂いが、まだ漂っていた。
四日前、納屋が焼けた。内側から、と聞いた。火の始末を誤ったのではないかと陰陽寮の下役が触れを出したらしいが、界隈の者たちは誰も信じていない。玄丸の耳には、昼間の物音を通じてその声が届いていた。
「おかしいんだよ。あそこには誰もいなかったんだ。夕方、確かめたばかりで」
「北の辻の井戸も、二日前から水が濁っている。飲めたものじゃない」
「子供が夜に外へ出たがらなくなった。何か見たって言うんだが、うまく話せないんだ」
それらは噂という形をとりながら、日に日に実体を持ち始めていた。
物見の蔵の上で足を止め、四方の気を読んだ。北西——すでに我の内では一番の警戒域と定まっているその方角から、今夜も微量の乱れが滲んでいる。火の理に馴染む何かが、まだ遠い場所で揺れていた。ただし昨夜より少しだけ、位置が東へ偏っている。
這い上がってくる動揺を、意識の奥に押し込んだ。
感情を表に出したところで何も変わらない。変わらないが——大地の脈が細る速さは、我が見積もっていたより早い。
屋根を下り、路地を横切った。
角を曲がったところで、子供の泣き声が聞こえた。
格子戸の隙間から細い光が漏れている。ぼろ布を纏った女が、幼子を胸に抱いて揺すっていた。子は泣き疲れたのか、時折しゃくりあげながらも次第に声を収めていく。女は低い声で何事かを呟き続けていたが、それは歌でも祈りでもなく、ただ「大丈夫、大丈夫」という言葉の繰り返しだった。
我は格子の外で、しばらくその声を聞いた。
言葉が届いてほしい場所へ届かないことは、我自身がよく知っている。それでも女は呟き続けていた。自分に言い聞かせるように。言葉に縋るように。
——人の言霊とは、かくも切なきものか。
その想念が胸を過ぎたとき、藤原真白(ふじわら の ましろ)の声が脳裏に触れた。声そのものが聞こえたわけではない。ただあの澄んだ音の質が、何かの拍子に呼び起こされた。
戻る頃合いだ、と判断して路地を引き返した。
屋敷の門が近づいたとき、渡り廊下の障子に幾つもの瞳が光っているのが見えた。目目連が起きている。北と東の二方向を監視する古い障子の妖は、我が帰るなり瞳を細めてみせた。何事もなかった、という意味だ。
庭に下りると、土の感触がわずかだが戻ってきた。
屋敷の内側では、まだ大地が息をしている。結界座の膜が消耗しながらも踏ん張っているのだ。だが外との差が、昨夜よりはっきり感じ取れた。膜は確実に薄れている。
縁側に人影があった。
灯火も持たず、真白が庭を眺めていた。白い小袖の裾が夜風にわずかに揺れ、膝の上で指先を組んでいる。我が足音なく近づいても、姫君は驚かなかった。最初からそこにいると知っていたように、視線を庭から外さないまま口を開いた。
「今夜も、遠くへ行っていたのね」
問いではなかった。
我は縁側に跳び上がり、真白の膝の隣に腰を下ろした。距離を置いたのは意図的だ。今夜運んできた空気の重さを、この人に移したくなかった。
「市の方が騒がしかったと、蕗が言っていたわ。物の値が上がっているって。北の方の畑が荒れて、野菜が入ってこないって」
真白の声に感情の起伏は少なかった。ただ事実を並べるように、淡々と語る。
「みんな、何かを知っているんだと思う。でも何を怖れているのか、言葉にできないでいる」
我は尾の先を縁板の上でわずかに動かした。
そうだ。それが今夜、最も確かに感じ取ったことだ。人々は知っている。言葉にできなくても、肌で知っている。日常の布地に穿たれた小さな穴が、少しずつ大きくなっていることを。
「玄丸。あなたは、何が起きているか分かるの?」
真白が初めて視線をこちらへ向けた。
灯りのない庭で、姫君の目は澄んでいた。答えを迫っているのではない。ただ問いかけている。我はその目と向き合い、まばたきを一度した。
返せる言葉はない。声もない。
だが真白は、それで何かを受け取ったように小さく息をついた。
「そう。分かった」
それ以上を訊かなかった。
二人——いや、一人と一匹は、しばらく庭の暗がりを見ていた。蟋蟀の声はもうない。秋が深まるにつれ、夜の音は減っていく。あとは風が庭木の枝を揺らす音だけが、時おり渡り廊下を抜けてきた。
我は目を細め、大地の脈を再び探った。
屋敷の土の下、結界の根がまだそこにある。消耗しながらも、踏ん張っている。古椿の精が「土も根もお前の味方だ」と言ったあの声が、不意に甦った。
今はまだ、耐えている。
外では人々が不安の中で息を潜め、大地が疲れ、界境が少しずつほつれている。だが屋敷の庭の土は、まだ生きていた。
それで十分だ、と我は尾を折り畳んだ。
今夜できることはした。見て、聞いて、土の声を確かめた。残りは明日の朝、実俊と真澄に伝えるべき情報として整理すればいい。
真白が立ち上がる気配がした。
「冷えるから、もう入りましょう」
我は返事の代わりに一度だけ尾を立て、縁側から先に屋敷の中へ踏み込んだ。背後で障子が閉まる音がした。闇の中、目目連の複数の瞳がまた静かに光り続けている。
外では、都が不安の中で夜を越えようとしていた。




