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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第五章:界境の綻び

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第百十八話「魔の増殖」

古障子こしょうじが、また揺れている」


渡り廊下わたりろうか目目連もくもくれんから声にならない震えが届いたのは、戌のいぬのこくを過ぎた頃だった。あの妖怪は声を持たない。ただ、貼り付いた無数の目が一斉に同じ方角を向くとき、その気の変化が結界座けっかいざを通じて我に伝わる。


我は梁の上で体を起こした。


北西だ。


先夜から気の層が厚みを増していたが、今夜はさらに違う。量が変わったのではない。種類が増えた。これまで感知していた焦げたような金気かなけの匂いの中に、別の性質が混じり始めている。薄く、冷たく、形のない何かが、複数の方向から屋敷の外縁をなぞっている。


一体ではない。


我は梁を伝って渡り廊下の端まで移動した。古障子の表面、目目連の眼球が一斉に北を向いている。その瞳孔が、一つまた一つと開いていく。三つ、五つ、七つ——増えるたびに、外の気の異変が深くなっている証拠だ。


陽眼ようがんを使った。


瞳孔を絞り、目の奥の火のことわりを細く灯す。暗闇が薄れ、屋敷の外の気の流れが淡い光の筋として見え始める。


その先に、それはいた。


人の丈ほどの大きさの揺らぎが、二つ。先日の魔物と同じ性質——形を持たず、輪郭が定まらない。されど今夜のそれは動きが速い。ひと月前に初めて出たときはほとんど動かなかった。霧が漂うように、ただそこにあった。今は違う。北西から東へ、一定の間隔を保ちながら屋敷の外壁を横に流れている。


その動きには意図がある。


偵察だ、と判断した。


我は陽眼を落とし、背の毛を抑えた。今ここで結界座を張り直すことはできる。されど、張り直しに使う気の波紋が、あちらに位置を教えることになる。相手が探っているなら、こちらも探られていると知られない方がいい。


動かずに待った。


二つの揺らぎは屋敷の東面まで流れると、そこで止まった。目目連の眼球が三十ほど、一斉に東を向く。揺らぎは止まったまま、三半刻みはんときほどそこに留まった。我は梁の上で丸くなり、息を浅くして気配を消した。


やがて揺らぎは北の方角へ消えた。


我は体を伸ばし、前足で顔を拭った。毛繕いの仕草だが、実際には考えるための間だ。アルメラ時代、複数の敵が一定の秩序を持って動くとき、それは上位の意志による統制を意味した。形のない魔物が秩序立って動くなら——何かが、あれらを動かしている。


まずい。


その一語だけが残った。


翌朝、実俊さねとしが来た。前触れなしで、しかも早い時刻だった。庭に飛び石を踏む足音がいつもより荒い。


真白ましろが縁側に出てきたとき、男の顔色が悪いことは遠目にもわかった。


「昨夜、都の東の外れで——」


実俊は一度言葉を切った。


「民家の納屋なやが、内側から焼けました。火の気はなかった。炭も灯明とうみょうも使っていない。近隣の者が煙を見て駆けつけたとき、中には何もなかったと。陰陽寮おんみょうりょうに報告が入って、私も確認しに行きましたが——」


また切った。


「壁の焦げ方が、普通の火事ではない。内側から何かが噛み付いたような跡です」


我は縁側の柱の根元で、その言葉を聞いていた。


内側から噛み付いた。


昨夜の二つの揺らぎが、東面の外壁で止まっていた。あの時間、あれらは何をしていたのか。屋敷の外壁ではなく、都の別のどこかに——もう一体がいたのかもしれない。二つが囮で、三体目が動いていた。


あるいは、もっと多く。


「陰陽寮は今日から都の各所に観測のを張ります。晴元はるもと殿のご指示です」


実俊がそう続けた。真白が頷いた。


縁側の柱から降り、庭の砂利に足をつけた。砂利の感触が、いつもと少し違う。気が変わっている。昨夜の揺らぎが通った北西から東の経路に沿って、屋敷の土のことわりがわずかに薄れている。根が侵食されているのではない。接触を繰り返すことで、理の膜が少しずつ消耗しているのだ。


古椿つばきの根元まで歩き、そこに座った。根の温もりはまだある。されど先週より、少し弱い。


玄丸くろまろ


真白の声が降ってきた。縁側から庭を見ている。


その顔には何も浮かんでいない。驚きでも、怯えでも、怒りでもない。ただ見ている。この姫は昔から、何かを感じとるとき、まず黙る。言葉にする前に体が先に知る——それが言霊ことだま感応を持つ者の性質だと、実俊が以前言っていた。


真白の視線が、北西の方角へ流れた。


そちらを見ながら、ごく小さな声で言った。


「何か、変わった」


問いではなかった。


我は古椿の根元から動かなかった。返事のできない体だ。されど、尾を一度、真白の方へ向けた。


それが肯定だとわかったかどうか。


真白は少し間を置いてから、また我を見た。その目が、一瞬だけ何かを決めた色になった。すぐに消えたが、確かにあった。


夕刻、ぬえが鳴いた。


遠く、北の山際から、「きゅるるるる」と低く長い声が届いた。屋敷の外でおうめが何事かと空を仰ぎ、点しともしびが提灯の光をわずかに揺らした。人間には奇妙な鳥の声に聞こえただろう。


我には違う。


あれは鵺の遠音とおねだ。昨日取り決めた合図——北西の気に異変が生じたことの報告。


時刻と方角を頭に刻んだ。


夕刻の戌前。北の山から。これまで一点に固まっていた気の異変が、北へも広がっている。弧が広がっている。昨夜の偵察で、あれらは経路を確認した。今夜以降、動く範囲が変わる可能性がある。


東の納屋の焦け跡。北西から東への偵察経路。鵺の遠音が北を示す。


三点を繋げると、一つの形が浮かぶ。


あれらは都を囲もうとしている。


渡り廊下へ戻り、古障子の前で立ち止まった。眼球が一斉にこちらを見た。その無数の瞳に向かって、尾の先を北へ、それから東へ、緩く一筋ずつ動かした。


目目連が答えるように、二方向の瞳をゆっくりと開いた。


把握した、という意味に受け取った。


翌朝、実俊が再び来た。今度は真澄ますみも縁側に出ていた。二人が顔を合わせる。実俊が何か言おうとして、真澄が先に口を開いた。


「昨夜、北のつじでも同様の痕跡が見つかったとのことでございます」


「なぜそれを——」


妖怪あやかしの情報網……というやつだ。屋敷にはその類の者が複数、定着しております」


実俊が一瞬黙り、それから頷いた。反論しなかった。この男は変わった、と改めて確認した。理を優先する陰陽師なら、妖怪の情報を素直に受け入れることはしない。


四者が揃っていなかったが、情報だけは合流した。


陰陽寮の観測、妖怪の情報網、鵺の遠音、目目連の監視。それぞれが別々に動いて、同じ事実に辿り着いている。


都の外縁で、魔物が増えている。そして、動きに秩序がある。


縁側の端に腰を落とし、北西の空を見上げた。雲が低い。今夜も晴れない。星の理が遮られると、水のことわりの感度も鈍くなる。夢鏡むきょうが使いにくい夜が続く。


されど、土の理はまだここにある。


古椿の根の温もりが、足裏から伝わってくる。


それだけは確かめながら、夜を待った。

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