第百十八話「魔の増殖」
「古障子が、また揺れている」
渡り廊下の目目連から声にならない震えが届いたのは、戌の刻を過ぎた頃だった。あの妖怪は声を持たない。ただ、貼り付いた無数の目が一斉に同じ方角を向くとき、その気の変化が結界座を通じて我に伝わる。
我は梁の上で体を起こした。
北西だ。
先夜から気の層が厚みを増していたが、今夜はさらに違う。量が変わったのではない。種類が増えた。これまで感知していた焦げたような金気の匂いの中に、別の性質が混じり始めている。薄く、冷たく、形のない何かが、複数の方向から屋敷の外縁をなぞっている。
一体ではない。
我は梁を伝って渡り廊下の端まで移動した。古障子の表面、目目連の眼球が一斉に北を向いている。その瞳孔が、一つまた一つと開いていく。三つ、五つ、七つ——増えるたびに、外の気の異変が深くなっている証拠だ。
陽眼を使った。
瞳孔を絞り、目の奥の火の理を細く灯す。暗闇が薄れ、屋敷の外の気の流れが淡い光の筋として見え始める。
その先に、それはいた。
人の丈ほどの大きさの揺らぎが、二つ。先日の魔物と同じ性質——形を持たず、輪郭が定まらない。されど今夜のそれは動きが速い。ひと月前に初めて出たときはほとんど動かなかった。霧が漂うように、ただそこにあった。今は違う。北西から東へ、一定の間隔を保ちながら屋敷の外壁を横に流れている。
その動きには意図がある。
偵察だ、と判断した。
我は陽眼を落とし、背の毛を抑えた。今ここで結界座を張り直すことはできる。されど、張り直しに使う気の波紋が、あちらに位置を教えることになる。相手が探っているなら、こちらも探られていると知られない方がいい。
動かずに待った。
二つの揺らぎは屋敷の東面まで流れると、そこで止まった。目目連の眼球が三十ほど、一斉に東を向く。揺らぎは止まったまま、三半刻ほどそこに留まった。我は梁の上で丸くなり、息を浅くして気配を消した。
やがて揺らぎは北の方角へ消えた。
我は体を伸ばし、前足で顔を拭った。毛繕いの仕草だが、実際には考えるための間だ。アルメラ時代、複数の敵が一定の秩序を持って動くとき、それは上位の意志による統制を意味した。形のない魔物が秩序立って動くなら——何かが、あれらを動かしている。
まずい。
その一語だけが残った。
翌朝、実俊が来た。前触れなしで、しかも早い時刻だった。庭に飛び石を踏む足音がいつもより荒い。
真白が縁側に出てきたとき、男の顔色が悪いことは遠目にもわかった。
「昨夜、都の東の外れで——」
実俊は一度言葉を切った。
「民家の納屋が、内側から焼けました。火の気はなかった。炭も灯明も使っていない。近隣の者が煙を見て駆けつけたとき、中には何もなかったと。陰陽寮に報告が入って、私も確認しに行きましたが——」
また切った。
「壁の焦げ方が、普通の火事ではない。内側から何かが噛み付いたような跡です」
我は縁側の柱の根元で、その言葉を聞いていた。
内側から噛み付いた。
昨夜の二つの揺らぎが、東面の外壁で止まっていた。あの時間、あれらは何をしていたのか。屋敷の外壁ではなく、都の別のどこかに——もう一体がいたのかもしれない。二つが囮で、三体目が動いていた。
あるいは、もっと多く。
「陰陽寮は今日から都の各所に観測の符を張ります。晴元殿のご指示です」
実俊がそう続けた。真白が頷いた。
縁側の柱から降り、庭の砂利に足をつけた。砂利の感触が、いつもと少し違う。気が変わっている。昨夜の揺らぎが通った北西から東の経路に沿って、屋敷の土の理がわずかに薄れている。根が侵食されているのではない。接触を繰り返すことで、理の膜が少しずつ消耗しているのだ。
古椿の根元まで歩き、そこに座った。根の温もりはまだある。されど先週より、少し弱い。
「玄丸」
真白の声が降ってきた。縁側から庭を見ている。
その顔には何も浮かんでいない。驚きでも、怯えでも、怒りでもない。ただ見ている。この姫は昔から、何かを感じとるとき、まず黙る。言葉にする前に体が先に知る——それが言霊感応を持つ者の性質だと、実俊が以前言っていた。
真白の視線が、北西の方角へ流れた。
そちらを見ながら、ごく小さな声で言った。
「何か、変わった」
問いではなかった。
我は古椿の根元から動かなかった。返事のできない体だ。されど、尾を一度、真白の方へ向けた。
それが肯定だとわかったかどうか。
真白は少し間を置いてから、また我を見た。その目が、一瞬だけ何かを決めた色になった。すぐに消えたが、確かにあった。
夕刻、鵺が鳴いた。
遠く、北の山際から、「きゅるるるる」と低く長い声が届いた。屋敷の外でお梅が何事かと空を仰ぎ、点し火が提灯の光をわずかに揺らした。人間には奇妙な鳥の声に聞こえただろう。
我には違う。
あれは鵺の遠音だ。昨日取り決めた合図——北西の気に異変が生じたことの報告。
時刻と方角を頭に刻んだ。
夕刻の戌前。北の山から。これまで一点に固まっていた気の異変が、北へも広がっている。弧が広がっている。昨夜の偵察で、あれらは経路を確認した。今夜以降、動く範囲が変わる可能性がある。
東の納屋の焦け跡。北西から東への偵察経路。鵺の遠音が北を示す。
三点を繋げると、一つの形が浮かぶ。
あれらは都を囲もうとしている。
渡り廊下へ戻り、古障子の前で立ち止まった。眼球が一斉にこちらを見た。その無数の瞳に向かって、尾の先を北へ、それから東へ、緩く一筋ずつ動かした。
目目連が答えるように、二方向の瞳をゆっくりと開いた。
把握した、という意味に受け取った。
翌朝、実俊が再び来た。今度は真澄も縁側に出ていた。二人が顔を合わせる。実俊が何か言おうとして、真澄が先に口を開いた。
「昨夜、北の辻でも同様の痕跡が見つかったとのことでございます」
「なぜそれを——」
「妖怪の情報網……というやつだ。屋敷にはその類の者が複数、定着しております」
実俊が一瞬黙り、それから頷いた。反論しなかった。この男は変わった、と改めて確認した。理を優先する陰陽師なら、妖怪の情報を素直に受け入れることはしない。
四者が揃っていなかったが、情報だけは合流した。
陰陽寮の観測、妖怪の情報網、鵺の遠音、目目連の監視。それぞれが別々に動いて、同じ事実に辿り着いている。
都の外縁で、魔物が増えている。そして、動きに秩序がある。
縁側の端に腰を落とし、北西の空を見上げた。雲が低い。今夜も晴れない。星の理が遮られると、水の理の感度も鈍くなる。夢鏡が使いにくい夜が続く。
されど、土の理はまだここにある。
古椿の根の温もりが、足裏から伝わってくる。
それだけは確かめながら、夜を待った。




