第百十七話「鵺の協力」
雨の気配が近い。
空の底が低く沈み、北の山際が灰色に滲んでいた。庭木の葉がひとつも揺れていないのに、どこか遠い場所の風の匂いが届いてくる。この季節の都はいつもそうだ。嵐の前に空気が固まり、鳥も虫も声を落とす。
我は縁側の端に座って、その匂いを鼻先で確かめていた。
雨ではない。
雨の匂いの下に、別の層がある。焦げたような、金気の混じった気配。北西から流れてくるそれは、ここ数日で確かに濃くなっていた。界境の綻びが、少しずつ東へ寄ってきている。
前足を舐め、耳を一度伏せた。
昨日、四者が揃った。言葉で誓ったわけではない。それでも、あの部屋に生じたものが一夜では消えていないことを、朝の気の流れで確かめていた。真澄はいつも通り早くから動いていた。ただ、その動きにわずかに余白がある。腹を括った者が、他者の動きに少しだけ間を与えるようになる、あの余白だ。
——気に入らないが、昨日よりは、まだましだ。
そう結論していたとき、庭の南端で気が動いた。
音ではない。屋敷の結界座の外縁が、何者かに触れて微かに震えた。敵意はない。ただ、並の妖ではなかった。気の密度が違う。古く、重く、複数の性質が混在している。
我は縁側から庭に下り、砂利を踏んで南の築地塀の際まで歩いた。
塀の外、路地に面した闇の中に、それはいた。
猿の頭、狸の胴、虎の足、蛇の尾。組み合わせの異様さと裏腹に、佇まいは静かだった。以前、不安を訴えて去って行ったときとは、まるで気が違う。あのときは怯えが体全体から滲んでいた。今は——落ち着いている。いや、覚悟という方が近い。
鵺だった。
「……また来た」
声は低く、鳴き声とも言葉とも区別しがたい響きだった。我は動かずに、その目を見た。猿の顔に収まった双眸は、思いのほか澄んでいる。
「北西が、変わった。昨日から。何か決まったのだろう、この屋敷で」
尾を一度だけ払った。
「そうか」と鵺は言った。問いを引っ込めて、先へ進む者の間合いだった。「ならば、話が早い。我も加わる」
その言葉には余分なものが何もなかった。理由も、条件も、説明もない。ただそれだけが置かれ、沈黙が落ちた。
少し考えた。
こちらを試しているのではない。この妖怪はもともと言葉の少ない性質だ。以前に界境の乱れを最初に感知して来たのも鵺だった。あのときはまだ目に見える異変がなかったが、感覚は正しかった。その後、我が内心で確信した永劫炉の残滓が、実際に北西から侵食を続けている。
信を置ける相手だと判断した。
塀の内側で前足を揃えて座った。それで伝わるかどうか確信はなかったが、鵺はその姿勢を数拍見て、小さく頷いた。
「詳しいことは、お前の仲間に聞く。体で動く方が得意だ」
妥当な自己評価だ。鵺の力は、その気の複合性にある。猿の知覚、狸の変化、虎の破壊力、蛇の毒性。それらが混在することで、単一の性質しか持たない者が対処できない局面に対応できる。界境の綻びから這い出す魔物は形がなく、金の理を吸収する。鵺の複合した気は、そういった相手への変則的な対処に向くかもしれない。
「一つだけ、聞いてもいいか」
低い声が続いた。
「あの屋敷の者たちは、どこまで知っている」
即座に答えられない。答えるすべもない。ただ、視線を屋敷の方へ向けてから、また鵺に戻した。
「そうか。お前も、全部は言えないのだな」
鼻先で息を吐いた。嘲笑ではなかった。どちらかといえば、共感に近い息の出し方だった。
「我も、そうだ。この体に混じった何かが、どこから来てどこへ行くのか、よくわかっていない。ただ、北西のあれが都に満ちたら、それは困る。我の住処でもある」
単純な理由だ。
それがかえって信頼できる。大義や理屈を並べる者より、自分の利害を正直に述べる者の方が、往々にして約束を守る。アルメラ時代に帝国を動かした同盟の多くは、そういう取り決めで成り立っていた。
築地塀の際まで歩き、塀の上に飛び乗った。そこから見下ろす格好になった。格好だけで、実際には向こうの方が遥かに大きい。それでもこちらが高い場所にいることで、話の筋が通りやすくなることがある。人間たちから学んだ、どうにも腹立たしい知恵だ。
その意図を察したのか、わずかに体を引いた。
北西の方角を一度見てから、相手の顔に視線を戻した。
しばらく黙っていた答えが来た。
「我の声は遠くまで届く。鳴けば聞こえる」
それで十分だった。
条件が揃った。北西の気の変化を鵺が早期に感知し、鳴き声で合図を送る。目目連の監視と合わせれば、屋敷の察知網が一段厚くなる。言葉は最小限で、それで成立する取り決めだった。
我は塀から庭へ戻り、縁側の方へ歩き始めた。
鵺がもう一度だけ言った。
「あの屋敷の者に、よく言っておけ。我は礼儀作法は知らん。驚かせるかもしれない」
正直な予告だ。尾の先だけを一度揺らして応えた。それで会話は終わった。
気配が薄れ、鵺は路地の闇に溶けるように去った。
縁側に戻り、腰を落とした。
頭の中で、今わかっていることを並べた。北西の気の乱れは東へ寄りつつある。目目連が古障子から監視を続けている。古椿の根が土の理を保っている。火車が以前に三点の界境薄域を伝えた。そして今、鵺が遠距離の早報を引き受けた。
一つひとつは細い。されど細い糸を束ねれば、多少の重さには耐える。
問題は、これらの糸を誰が束ねるかだ。
実俊は理で動く。真白は言霊で動く。真澄は体で動こうとしている。では我は——。
喉の奥で何かが鳴りそうになって、押さえた。
我が動けるのは、三者が動けない場所においてだ。夜の庭、屋根の上、妖との境。言葉が届かず、理が測れず、血が鍵にならない、その隙間に立てる者として、この猫の体がある。
それで十分だと、結論した。
空の低い場所から、ついに雨が落ち始めた。
最初の一粒が砂利に跳ねた音を、縁側の屋根の下で聞いた。すぐに続く二粒目、三粒目。雨は均一ではなく、どこかに偏りながら降ってくる。それが自然というものだ。偏りの中にある規則性を見つけ、その隙間に体を入れる。
鵺が去った南の路地の方を、一度だけ見た。
北西の焦げた匂いは、雨の中でも消えなかった。
【妖怪図鑑】
■鵺
【分類】複合妖怪・古霊種
【危険度】★★★★☆(高)
【レア度】★★★★★(極めて稀)
【出現場所】深山、古戦場跡、界境の薄れた場所、嵐の前夜
【特徴】
猿の頭、狸の胴、虎の手足、蛇の尾を持つ複合形態の妖怪。その姿は一つの生き物の設計を逸脱しており、いかなる分類にも収まらない。古い記録には「鵺の鳴く夜は凶事の前触れ」と記されているが、これは鵺が凶事を引き起こすのではなく、鵺が凶事に先立つ気の変化を感知するためと考えられる。性質は概ね孤独で寡黙。群れず、人里にも近づかないが、都全体に関わる異変が生じると現れることがある。
【得意技】
・複合感知:猿の視覚、蛇の熱感知、狸の霊感応を同時に使い、複数の次元の異変を察知する。
・遠音:固有の鳴き声は遠くまで届き、界境を超えて伝わることがある。夜半に聞こえる「ひゅうどろ」とも「きゅるる」ともとれる声がそれにあたる。
・複合気圧:異なる性質の気を同時に放つことで、単一属性の防護では対処しにくい状況を作る。
【弱点】
・形が一つに定まらないため、特定の理に対する耐性が均一でなく、隙が生まれやすい。
・極端に高温または極端に冷えた環境を苦手とする。
・本人の気性が孤独で、連携を要する状況に不慣れ。
【生態】
基本的に単独行動。縄張りはなく、気の流れに従って各地を移動する。食性は不明だが、大気中の霊的なものを吸収して生きているという説が有力。繁殖の記録はなく、どこからともなく現れ、どこへともなく消える。その長命は確かで、百年以上の記憶を持つ個体も存在する。
【玄丸の評価】
「複合という性質は、弱点の裏返しでもある。ひとつの理で押し切れない代わりに、どの理でも完全には動かせない。だが、感知と報告という役割においては、この都でこれ以上の適任はいないだろう。都を守ろうとする動機も単純で好感が持てる。礼儀は知らないと本人が言ったが、それで十分だ。礼儀が必要なのは人間同士の話であって、我と妖怪の間の取り決めにそれは要らない」
【遭遇時の対処法】
鵺は基本的に人に危害を加えない。ただし、その見た目の異様さから逃げようとすると、追跡本能が刺激される場合がある。静止して視線を合わせ、敵意がないことを示すのが最善。食べ物での懐柔は効果が薄い。
【豆知識】
平安の頃、御所の上空を飛ぶ鵺が夜ごと不思議な声を発し、帝が悩まれたという記録が残る。その後、武人によって射落とされたとも伝わるが、鵺は複数存在するとも言われ、射られた個体がどれかは定かでない。なお「鵺」という字の組み立ては「夜の鳥」を意味し、その名の通り闇と境界を好む性質がある。




