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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第五章:界境の綻び

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第百十七話「鵺の協力」

雨の気配が近い。


空の底が低く沈み、北の山際が灰色に滲んでいた。庭木の葉がひとつも揺れていないのに、どこか遠い場所の風の匂いが届いてくる。この季節の都はいつもそうだ。嵐の前に空気が固まり、鳥も虫も声を落とす。


我は縁側の端に座って、その匂いを鼻先で確かめていた。


雨ではない。


雨の匂いの下に、別の層がある。焦げたような、金気かなけの混じった気配。北西から流れてくるそれは、ここ数日で確かに濃くなっていた。界境かいきょうの綻びが、少しずつ東へ寄ってきている。


前足を舐め、耳を一度伏せた。


昨日、四者が揃った。言葉で誓ったわけではない。それでも、あの部屋に生じたものが一夜では消えていないことを、朝の気の流れで確かめていた。真澄ますみはいつも通り早くから動いていた。ただ、その動きにわずかに余白がある。腹を括った者が、他者の動きに少しだけ間を与えるようになる、あの余白だ。


——気に入らないが、昨日よりは、まだましだ。


そう結論していたとき、庭の南端で気が動いた。


音ではない。屋敷の結界座けっかいざの外縁が、何者かに触れて微かに震えた。敵意はない。ただ、並のあやかしではなかった。気の密度が違う。古く、重く、複数の性質が混在している。


我は縁側から庭に下り、砂利を踏んで南の築地塀ついじべいの際まで歩いた。


塀の外、路地に面した闇の中に、それはいた。


猿の頭、狸の胴、虎の足、蛇の尾。組み合わせの異様さと裏腹に、佇まいは静かだった。以前、不安を訴えて去って行ったときとは、まるで気が違う。あのときは怯えが体全体から滲んでいた。今は——落ち着いている。いや、覚悟という方が近い。


ぬえだった。


「……また来た」


声は低く、鳴き声とも言葉とも区別しがたい響きだった。我は動かずに、その目を見た。猿の顔に収まった双眸は、思いのほか澄んでいる。


「北西が、変わった。昨日から。何か決まったのだろう、この屋敷で」


尾を一度だけ払った。


「そうか」と鵺は言った。問いを引っ込めて、先へ進む者の間合いだった。「ならば、話が早い。我も加わる」


その言葉には余分なものが何もなかった。理由も、条件も、説明もない。ただそれだけが置かれ、沈黙が落ちた。


少し考えた。


こちらを試しているのではない。この妖怪はもともと言葉の少ない性質だ。以前に界境の乱れを最初に感知して来たのも鵺だった。あのときはまだ目に見える異変がなかったが、感覚は正しかった。その後、我が内心で確信した永劫炉えいごうろの残滓が、実際に北西から侵食を続けている。


信を置ける相手だと判断した。


塀の内側で前足を揃えて座った。それで伝わるかどうか確信はなかったが、鵺はその姿勢を数拍見て、小さく頷いた。


「詳しいことは、お前の仲間に聞く。体で動く方が得意だ」


妥当な自己評価だ。鵺の力は、その気の複合性にある。猿の知覚、狸の変化、虎の破壊力、蛇の毒性。それらが混在することで、単一の性質しか持たない者が対処できない局面に対応できる。界境の綻びから這い出す魔物は形がなく、金のことわりを吸収する。鵺の複合した気は、そういった相手への変則的な対処に向くかもしれない。


「一つだけ、聞いてもいいか」


低い声が続いた。


「あの屋敷の者たちは、どこまで知っている」


即座に答えられない。答えるすべもない。ただ、視線を屋敷の方へ向けてから、また鵺に戻した。


「そうか。お前も、全部は言えないのだな」


鼻先で息を吐いた。嘲笑ではなかった。どちらかといえば、共感に近い息の出し方だった。


「我も、そうだ。この体に混じった何かが、どこから来てどこへ行くのか、よくわかっていない。ただ、北西のあれが都に満ちたら、それは困る。我の住処でもある」


単純な理由だ。


それがかえって信頼できる。大義や理屈を並べる者より、自分の利害を正直に述べる者の方が、往々にして約束を守る。アルメラ時代に帝国を動かした同盟の多くは、そういう取り決めで成り立っていた。


築地塀の際まで歩き、塀の上に飛び乗った。そこから見下ろす格好になった。格好だけで、実際には向こうの方が遥かに大きい。それでもこちらが高い場所にいることで、話の筋が通りやすくなることがある。人間たちから学んだ、どうにも腹立たしい知恵だ。


その意図を察したのか、わずかに体を引いた。


北西の方角を一度見てから、相手の顔に視線を戻した。


しばらく黙っていた答えが来た。


「我の声は遠くまで届く。鳴けば聞こえる」


それで十分だった。


条件が揃った。北西の気の変化を鵺が早期に感知し、鳴き声で合図を送る。目目連もくもくれんの監視と合わせれば、屋敷の察知網が一段厚くなる。言葉は最小限で、それで成立する取り決めだった。


我は塀から庭へ戻り、縁側の方へ歩き始めた。


鵺がもう一度だけ言った。


「あの屋敷の者に、よく言っておけ。我は礼儀作法は知らん。驚かせるかもしれない」


正直な予告だ。尾の先だけを一度揺らして応えた。それで会話は終わった。


気配が薄れ、鵺は路地の闇に溶けるように去った。


縁側に戻り、腰を落とした。


頭の中で、今わかっていることを並べた。北西の気の乱れは東へ寄りつつある。目目連が古障子こしょうじから監視を続けている。古椿つばきの根が土の理を保っている。火車かしゃが以前に三点の界境薄域を伝えた。そして今、鵺が遠距離の早報はやしらせを引き受けた。


一つひとつは細い。されど細い糸を束ねれば、多少の重さには耐える。


問題は、これらの糸を誰が束ねるかだ。


実俊さねとしは理で動く。真白ましろは言霊で動く。真澄は体で動こうとしている。では我は——。


喉の奥で何かが鳴りそうになって、押さえた。


我が動けるのは、三者が動けない場所においてだ。夜の庭、屋根の上、妖との境。言葉が届かず、理が測れず、血が鍵にならない、その隙間に立てる者として、この猫の体がある。


それで十分だと、結論した。


空の低い場所から、ついに雨が落ち始めた。


最初の一粒が砂利に跳ねた音を、縁側の屋根の下で聞いた。すぐに続く二粒目、三粒目。雨は均一ではなく、どこかに偏りながら降ってくる。それが自然というものだ。偏りの中にある規則性を見つけ、その隙間に体を入れる。


鵺が去った南の路地の方を、一度だけ見た。


北西の焦げた匂いは、雨の中でも消えなかった。

【妖怪図鑑】


ぬえ

【分類】複合妖怪・古霊種

【危険度】★★★★☆(高)

【レア度】★★★★★(極めて稀)

【出現場所】深山、古戦場跡、界境の薄れた場所、嵐の前夜


【特徴】

猿の頭、狸の胴、虎の手足、蛇の尾を持つ複合形態の妖怪。その姿は一つの生き物の設計を逸脱しており、いかなる分類にも収まらない。古い記録には「鵺の鳴く夜は凶事の前触れ」と記されているが、これは鵺が凶事を引き起こすのではなく、鵺が凶事に先立つ気の変化を感知するためと考えられる。性質は概ね孤独で寡黙。群れず、人里にも近づかないが、都全体に関わる異変が生じると現れることがある。


【得意技】

・複合感知:猿の視覚、蛇の熱感知、狸の霊感応を同時に使い、複数の次元の異変を察知する。

遠音とおね:固有の鳴き声は遠くまで届き、界境を超えて伝わることがある。夜半に聞こえる「ひゅうどろ」とも「きゅるる」ともとれる声がそれにあたる。

・複合気圧:異なる性質の気を同時に放つことで、単一属性の防護では対処しにくい状況を作る。


【弱点】

・形が一つに定まらないため、特定の理に対する耐性が均一でなく、隙が生まれやすい。

・極端に高温または極端に冷えた環境を苦手とする。

・本人の気性が孤独で、連携を要する状況に不慣れ。


【生態】

基本的に単独行動。縄張りはなく、気の流れに従って各地を移動する。食性は不明だが、大気中の霊的なものを吸収して生きているという説が有力。繁殖の記録はなく、どこからともなく現れ、どこへともなく消える。その長命は確かで、百年以上の記憶を持つ個体も存在する。


【玄丸の評価】

「複合という性質は、弱点の裏返しでもある。ひとつの理で押し切れない代わりに、どの理でも完全には動かせない。だが、感知と報告という役割においては、この都でこれ以上の適任はいないだろう。都を守ろうとする動機も単純で好感が持てる。礼儀は知らないと本人が言ったが、それで十分だ。礼儀が必要なのは人間同士の話であって、我と妖怪の間の取り決めにそれは要らない」


【遭遇時の対処法】

鵺は基本的に人に危害を加えない。ただし、その見た目の異様さから逃げようとすると、追跡本能が刺激される場合がある。静止して視線を合わせ、敵意がないことを示すのが最善。食べ物での懐柔は効果が薄い。


【豆知識】

平安の頃、御所の上空を飛ぶ鵺が夜ごと不思議な声を発し、みかどが悩まれたという記録が残る。その後、武人によって射落とされたとも伝わるが、鵺は複数存在するとも言われ、射られた個体がどれかは定かでない。なお「鵺」という字の組み立ては「夜の鳥」を意味し、その名の通り闇と境界を好む性質がある。

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