第百十六話「四者の誓い」
縁側に朝の光が差し込んできたとき、家令の気配が昨夜とは違う濃さを帯びていることに気づいた。
厨の方から白湯を運ぶ足音、庭を掃く箒の音。屋敷はいつも通りの朝を刻んでいたが、家令だけが違う。手の動きが機械的すぎる。視線が仕事の先ではなく、もっと遠い何かを向いている。あの木箱を開けてから、真澄の内にあった均衡がひとつ崩れたのだ。
我は尾を一度だけ、緩く払った。
気に入らない。
そう内心で繰り返しながらも、今は何もできない。できることは待つことだけであり、待つことを選んだ以上は粛々とそれを実行するほかない。昨夜、梁の上で見届けた真澄の独白が、耳の奥でまだ反響していた。
葛上の血が界境に触れるとき、封が開く——。
あの声は低く、確信を帯びていた。驚きではなかった。先祖の記録を読み、長い時間をかけて答えを積み上げてきた者の、静かな着地だった。そしてその静けさが、我には何よりも不吉に映った。
穏やかに腹を括った者は、往々にして自分を消す算段まで整えている。
我は縁側から庭に下り、砂利を踏みながら古椿の根元まで歩いた。椿の精はすでに眠りの中にある。返事は来ない。ただ根の温もりだけが、足裏から伝わってくる。土の理が、まだここに息づいている証拠だ。
それだけで、少し足が軽くなった。
実俊が来たのは、巳の刻を過ぎた頃だった。
前回の約束通り、今日は声を出す日だったらしく、風呂敷包みの中に紙束を持参していた。廊下の途中で真澄と行き合い、二言三言何か交わしたが、その言葉は我には届かなかった。
真白の部屋に通り、男が文机の前に座る。
「今日は実際に声に出してみましょう。理論を頭で追うのと、言葉を体に乗せるのとでは、まったく違う感触があるはずです」
真白は頷いた。背筋が先週より伸びている。何か決めた者の姿勢だ。
「どんな言葉でも構いません。ただし、意味を持たせてください。音だけ出しても言霊は動かない。声の奥に、伝えたいものが要る」
「……たとえば、名前でも」
「ええ。もっとも言霊に馴染みやすい言葉のひとつです」
真白は少し間を置いてから、口を開いた。
「玄丸」
単純な二音節。されど我の背の毛が、根元からかすかに逆立った。言霊の波動ではない。もっと別の何かが、その音の中にある。真白は自覚していない。けれど彼女が名を呼ぶとき、その声は屋敷の気を一瞬、整える。
実俊が鋭く目を細めた。
「今、感じましたか」
「何かが——動いた気がしました。でも、わたしの方が、ではなくて……」
「音が、空間に触れた。言葉が外に出る前に、まず術者の内側を通る。今のは、確かにそれでした」
文机の脇に腰を落ち着けたまま、前足を揃えて二人を見ていた。あの分析は正しい。真白の言霊は、まだ形になっていない。だがあの波は、アルメラ時代の記録にある「言の胎動」に近い。磨けば恐ろしい力になる。
そのことを、我はこの部屋では誰にも告げられない。
三半刻ほど練習が続いた。真白が声を出し、陰陽師が観察し、ときに少し修正する。地味な繰り返しだったが、部屋の気の密度が微かに変わってきた。最後の一節が終わったとき、尾をゆっくり壁の方に向けた。
男が気づいた。この人間は変わった。以前なら我の動きを疑いの目で追ったが、今は黙って意図を読もうとする。
「……真澄殿のことか」
我は動かなかった。それが肯定だと、彼にはわかるはずだ。
「家令殿が、何か」
廊下から声がした。本人だった。
どうやら茶を運んできた折に立ち止まったらしく、障子の向こうに気配がある。我は素知らぬ顔で前足を舐め始めた。
「入ってください」と真白が言い、真澄が静かに引き戸を開けた。
四人が部屋に揃う。茶碗を置く音が、妙に大きく聞こえた。
何も言わなかった。ただ茶を注いで下がろうとした瞬間、実俊が口を開いた。
「真澄殿。少し、聞かせてもらえますか」
止まった。
続けた。
「昨日から——いや、もう少し前から、あの方の立ち居に何か変わったものを感じています。陰陽の術で測れるような変化ではない。ただ、重心が変わった。何かを決めた者の重心に」
真澄はしばらく黙っていた。
「買いかぶりだ」
「そうは思えません」
また沈黙。我は毛繕いの手を止めずに、真澄の指先を見ていた。茶器を持つ指が、ほんの少し白くなっている。
真白が口を開いた。
「真澄。何か、知っているの」
命令ではない。ただ問うている。その声に言霊の波は乗っていないが、真白が声を向けると、空気が変わる。これは技法ではなく、長年ともに暮らしてきた者同士の間にある何かだ。理では測れない。
真澄は一度、目を閉じた。
「……先祖の記録に、ありました」
低く、淡々とした声だった。
「界境の封が解けるには、外からの力だけでは足りない。内側から呼応するものがなければ、裂け目はいつまでも縫えない。葛上の血には、その呼応の理が宿っている——と」
部屋が静まった。
実俊が一拍置いてから言った。
「つまり、真澄殿の血が、鍵だと」
「左様でございます」
「それは、御自身が——」
「そこから先は」と遮った。声は穏やかだった。「まだ確かなことは申せません。ただ、知っておいていただきたかった。皆様が動かれる前に」
皆様が動かれる前に。
その言葉の裏にあるものを、この部屋の誰もが察した。真澄は自分が先に動くつもりでいる。そして「先に動く」の意味が、我には昨夜の独白で透けて見えている。
気に入らない。
今度は内心でも繰り返さなかった。ただ体が動いた。
黒い毛並みを引きずるように、文机の脇から立ち上がり、家令の足元まで歩いた。そこに座り、顔を上げてその顔を見る。
その目に、驚きと——何か、困ったような色がある。
我は動かなかった。ただ見続けた。
一人で行かせるつもりはない。それが伝わるかどうかはわからない。されど、言葉の代わりに体を置くことしか、今の我にはできない。
「……」
真澄は何も言わなかった。やがて、ごく小さく息を吐いた。
実俊が立ち上がった。
「わかりました。であれば、順序を立てて考えましょう。真澄殿の血がどのように作用するのか、陰陽の記録と照らし合わせたい。ひとりで背負う必要はない」
「実俊殿に、御迷惑を——」
「真白殿を守るという点では、方向は同じでしょう。迷惑とは言いません」
真澄がわずかに目を伏せた。
真白が立った。我の背に、ほんの軽く、指先が触れた。
「みんなで、やりましょう」
飾り気のない言葉だった。言霊の技法でも、呪でもない。ただ、それだけのことが部屋の空気を変えた。
四者が揃い、互いの顔を見る。声高な宣言は何もなかった。誓いの言葉も交わされなかった。ただ、実俊が真白の隣に立ち、真澄が文机の角に背を向けて立ち、我が四者の中心あたりの床に座った。
この配置が崩れることなく、北西の気の乱れと向き合う——それだけのことが、言葉よりも先に決まった。
外では、秋の風が古椿の枝を揺らしていた。
椿の精は眠っている。されど根の温もりは続いている。土の下で、長い時間をかけて張り巡らされた根が、この屋敷の地を支えている。
我はその温もりを、足の裏で感じながら、尾をゆるく一度だけ払った。
気に入らなかったが——これならば、まだ目が届く。




