表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第五章:界境の綻び

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
116/142

第百十五話「真澄の決意」

夜が深まるにつれて、真澄ますみの影が薄くなる。


これは比喩ではない。文字通り、夜の気配が濃くなるにつれ、この男の輪郭が周囲の暗がりに溶けていく。半妖はんようの血がなせることだ。昼間は他の人間と変わらない。ただ、夜の廊下に立つとき、行灯あんどんの明かりが届かない側の半分が、闇と同じ濃さになる。


我はそれを、以前から知っていた。


知っていて、気にしなかった。この屋敷にいる限り、真澄はこちら側にいる。それで十分だった。


だが今夜は、何かが違った。


深夜の渡り廊下わたりろうかを、家令かれいがひとり歩いていた。我ははりの上から見下ろしていた。巡回ではない。足の向きが違う。奥の小部屋へ向かう道筋だった。あそこには、真白ましろ母君ははぎみの療養のために使われなくなった薬棚がある。今は薬ではなく、あの男が管理する封印文書や古い結界の道具が収められていた。


真澄は小部屋に入り、扉を閉めた。


我は梁を伝って移動し、欄間らんまの隙間から中を覗いた。


灯りはない。真澄は暗闇の中で、棚の最奥から木箱を取り出していた。妖の血を持つ者は夜目が利く。その点では我と同じだ。


木箱を膝の上に置き、蓋を開けた。


中に何が入っているか、この距離では見えない。だが、気の質は分かった。古い。非常に古い。おそらく真澄が生まれる前——葛上かずらがみ一族がまだ一族として存在していた時代の何かだ。


「……やはり、これか」


真澄の声は低く、独り言の音量だった。


息を詰めた。


「葛上の血が界境かいきょうに触れるとき、封が開く——先祖の記録にはそう書いてあった。だが、まさか」


家令は木箱の中のものを指先で触れた。何かが微かに光った。気の光だ。その指先から妖の理が漏れた瞬間の色だった。


「……間違いない」


真澄は蓋を閉め、箱を膝の上に乗せたまま、しばらく動かなかった。


我は欄間から下を見続けた。


この男が何に気づいたのか、正確には分からない。だが、大方の見当はついた。葛上一族の血は、界境に関わる古い力だ。設定資料ではなく、我が気の流れを観察してきた結果としてそう判断している。北西から来る残滓ざんしの引きは、この屋敷の何かに向かっている——それを実俊さねとしが指摘し、目目連もくもくれんが裏付けた。だが今夜、真澄はその「何か」が自分の血だと悟ったらしかった。


引き寄せているのではない。


真澄の血は界境のほころびに反応する。その反応が、封の位置を示している。言い換えれば——この血を使えば、封が打てる。


「厄介なものだ」


真澄は、昼間に実俊へそう言っていた。体で感じることがある、と。


今夜、その感覚の意味を、古い記録と照合して確かめた。


我は、尻尾を静かに一度だけ動かした。


この男は今夜、己の立場を理解した。そして、おそらく決めた。真白のそばにいる。この屋敷を守る。そのために己の血を使う——その覚悟を、ひとり暗闇の中で固めた。


問題は、そのことを誰にも言わないつもりでいることだ。


真澄は木箱を棚に戻し、小部屋の扉を音もなく開けて廊下へ出た。我は梁の上で体を丸め、気配を消した。真澄は我の存在に気づかないまま、廊下を歩いて戻っていった。


夜の冷気の中で、影がまた薄くなった。廊下の曲がり角で、一瞬、影が人の形をやめた。それからすぐに戻った。


行灯の届かない場所で、真澄は自分が何者かをよく知っている。


梁の上で前脚を揃え、目を細めた。


北西の気が、また動いていた。三日周期より少し早い。周期が乱れてきている。圧力が高まっている証拠だ。我はそれを皮膚の下で確かめながら、真澄が戻った方向を見た。


この屋敷には、言葉を持たない者が二人いる。


我は声を出せない。真澄は語らない。


どちらも、抱えているものを表に出さないまま動く。


それが同じ理由からではないと、我は知っている。真澄が語らないのは、語る言葉がないからではなく、語ることで相手の負担になると計算しているからだ。この男はそういう考え方をする。情より理を先に置く——実俊に似ているようで、根本はまったく違う。実俊の理は人を守るための理だ。真澄の理は、己を消すための理だ。


気に入らなかった。


感情を「気に入る・気に入らない」で処理していることに、我は軽く驚いた。


かつてのアルメラであれば、従者が己の判断で動くことを「好む・好まない」で論じることはなかった。有能であるかどうか、それだけだった。だが今は違う。真澄が自分だけで決めることを——危険を引き受けて誰にも言わないことを——気に入らないと感じている。


それはつまり。


我はそこで考えを止めた。


続きは要らなかった。分かっている。分かった上で、どうするかだ。


真澄が秘密にするつもりなら、秘密にされる前に動けばいい。実俊が次に来たとき、真澄の様子を見せる。言葉にならない形で、気の変化を示す。実俊はあれで勘がいい。気づくだろう。


それで十分だ。


我は梁から静かに下り、廊下へ降りた。


月が雲に入り、渡り廊下が暗くなった。真澄の消えた方向に、かすかに血の気の残滓がある。古い力だ。千年単位で受け継がれてきた力の、末端の明かりのようなもの。


それが今夜、目覚めた。


我は一度だけ後ろを振り返り、古椿のある方角を確かめた。


あの木は眠っている。だが根は起きている。根はいつも起きている——そう言っていた。


ここの土も根も、お前の味方だ。


それだけは、今夜も変わっていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ