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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第五章:界境の綻び

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第百十四話「古椿の励まし」

庭の奥に、一本の椿つばきがある。


幹の周りが大人の両腕でも抱えきれないほど太く、樹皮は灰色がかって苔が這っている。屋敷の者たちは「古木ふるき」と呼んで、それ以上のことは言わない。いつからそこにあるのか、誰も知らないのだ。


秋が深まるにつれて、その木だけが妙だった。


周囲の草木がすっかり枯れ色に変わり、はぎ桔梗ききょうもとうに花を終えた中で、古椿の葉はつやを保ったまま深緑に輝いていた。花はまだない。椿の花は冬から春にかけて咲く。それでも、その木の足元だけは、あたりより気温が一、二分高い気がした。


我がその変化に気づいたのは、実俊さねとしの訪問から数日後のことだった。


朝の見廻りとして庭を一周する習慣は、この屋敷に来てから自然に身についたものだ。かつてアルメラで魔導宮の防衛状態を毎朝点検していたことと、構造としては変わらない。規模は比べるまでもないが。


古椿の根元に差しかかったとき、足が止まった。


地面から、かすかな温もりが上がっていた。土の気ではない。もっと古い、深いところから来るものだ。木のことわり——それも、長い年月をかけて蓄積された種類の。


我は鼻を地面に近づけ、匂いを確かめた。腐葉土と苔の下に、何か別のものが混じっている。


尻尾の先が、自然に立った。


「……気づいたか、黒猫」


声は、上から来た。


低く、乾いた声だった。老人とも女ともつかない。我は顔を上げた。古椿の幹の中ほど——人の背丈より少し高いあたりに、何かがいた。


木のこぶが、顔に見えた。いや、瘤が顔に似ているのではなく、木の中から顔が浮かび上がっていた。目に見えるところはそれだけで、手も足もない。ただ、木の肌の中に老いた顔が宿っていた。


「久しぶりに目が覚めた。百年ぶりかもしれぬ」


我は尻尾を静かに下ろした。敵意はない。気の性質も、ただ古い——それだけだった。


精霊の類だろう、と判断した。妖怪とも違う。この木そのものが長い時間をかけて意識を持ったもの。アルメラで言えば「古域精こいきせい」に近い存在だ。特定の場所に深く根を張り、そこから動けない代わりに、その土地の記憶をすべて知っている。


「お前は何だ」と顔が言った。問いの形だったが、本当に聞きたいわけではないような言い方だった。


我は前脚で耳の後ろを一度掻いた。答えを期待されていないなら、こちらも答えない。


「ふん。黙るか。賢い」


顔は、くぼんだ目の部分を細めた。


「この屋敷に、妙な者が増えた。目が増えた。灯りが増えた。風の気配も変わった。……そして北西から、嫌な引きがある」


我は耳を前に向けた。


「知っているのか」

「百年前にも、あった」


顔はそれだけ言って、少し間を置いた。


「北の山の向こうから、理が乱れた。そのとき、この庭の木が三本枯れた。土の気が一冬、濁った。——今度もそういうことか」


我は尻尾を、ゆっくりと一度振った。


肯定だと、伝わったかどうか分からない。だが、顔は続けた。


「怖いか」


問われたとき、少し考えた。


怖いか。

怖い、という感情がどういうものかを、アルメラ時代の我は正確に知らなかった。あのころ我を怖いと思う者はいても、我が怖いと思う相手はいなかった。だが今は違う。北西の空気が動くとき、我の皮膚の下に走る感覚を何と呼ぶかと問われれば——怖い、が一番近い言葉かもしれなかった。


ただし、それを顔に出す理由はない。


我は前脚を揃えて、端然と座った。


「そういう顔をするか」と顔が言った。「なかなか、な」


木の皮の中で、何かが動いた。音というより、振動だった。低く、長い、木が軋む音に似た何か。


笑っているのかもしれなかった。


「聞かせてやろう、黒猫。我はこの庭で千年近く生きた。嵐で幹が折れたことがある。根が腐りかけたこともある。百年前には、さっき言ったように土が濁った。それでも、春になれば花が咲いた」


顔の目の部分が、空を向いた。


「何度でも、咲いた」


その言葉は、説教ではなかった。自慢でもなかった。ただ、起きたことを述べているだけだった。千年の事実を、千年分の重さで言った。


我は動かなかった。


尻尾も、耳も、動かさなかった。


北西の気が、またわずかに動いた——気がした。皮膚の下の感覚は正確だ。三日に一度の周期で、少しずつ東へ寄ってきている。実俊が言った通りだった。


それでも、この木は咲く。咲き続ける。


そのことの意味を、少し考えた。


アルメラで永劫炉えいごうろを作ったとき、我は「完璧な理の世界」を目指していた。乱れを消し、揺れを封じ、すべてを整えた状態で固定すること。それが理想だと思っていた。だが永劫炉は止まらなかった。完璧に整えようとする力そのものが、世界を食い尽くした。


この木は、整えない。


嵐に折れ、根が腐り、土が濁っても、ただ春を待って咲く。繰り返す。それだけだ。


それが、何かを正している。


「名を聞いてもよいか」


我が問いかけることはできない。だが、問いかけたかった。聞けないまま座っていると、顔が先に言った。


「名はない。ここにいるだけのものに、名は要らぬ」


そう言って、顔はゆっくりと木の肌に戻り始めた。


「黒猫。お前が何者かは知らぬ。だが、この庭にいる間は——ここの土も根も、お前の味方だ」


最後の言葉だけ、少し違う響きがあった。


顔は完全に消えた。木の瘤だけが残り、それも普通の瘤にしか見えなくなった。気の温もりは消えていない。ただ静かになった。眠ったのだろう。次に目覚めるのがいつかは、この木にしか分からない。


立ち上がり、庭を戻り始めた。


縁側の端で、真白ましろが外を眺めていた。我が庭から上がってくると、「どこにいたの」と声をかけた。我は答えず、真白の膝の横に腰を下ろした。


「椿の方?」


どうして分かったのか。姫の言霊感応ことだまかんのうは、最近ますます鋭くなっている。


「あの木、好きよ。昔からずっとそこにあるみたいで」


真白は古椿の方を見た。秋の光の中で、葉が艶を放っていた。


我は視線を庭の端から北西の空へ動かした。雲が薄く、青が深かった。その奥に何があるかを、空は教えない。


教えないが——春になれば、あの木は花を咲かせる。


それだけのことが、今は少し、重かった。

【妖怪図鑑】


■古椿のふるつばきのせい


【分類】樹木精霊(木霊の上位種)


【危険度】★☆☆☆☆(低・ほぼ無害)


【レア度】★★★★★(極めて稀)


【出現場所】樹齢数百年を超える古木。特に椿・楠・杉の大木に宿ることが多い。


【特徴】

妖怪とは異なる存在で、長い年月をかけて意識を持った木の精霊。木のこぶふしの中から顔を出すことで知られるが、手足はなく、その木から離れることはできない。動けない代わりに、その土地の変化を長年にわたって記憶しており、数百年単位の歴史を語ることができる。基本的に人間にもほかの妖怪にも干渉せず、自ら話しかけてくることは極めて少ない。話しかけてきた場合は、よほどのことがあると考えてよい。


【得意技】

・土地の記憶:その場所で起きた出来事を百年・千年単位で記憶している

・根の感知:地中を通じて、庭や土地全体の気の変動を察知できる

・木の温もり:強い意志が宿るとき、周囲の気温がわずかに上がる


【弱点】

・その木が倒れれば消滅する

・移動ができないため、外からの脅威に対して何もできない


【生態】

長期間眠っており、何か大きな変化があるときだけ目覚める。人間の目には「気のせい」や「木の形が顔に見えた」程度にしか映らないことが多い。話すときは短く、余分なことを言わない。感謝も怒りも薄く、ただ在ることを常とする。


【玄丸の評価】

「名もなく、動かず、ただ咲く——それが千年の答えか。我が永劫炉に込めた論理よりも、よほど堅固な理を持っている。教わったとは言いたくないが、考えさせられた。それだけは認める」


【遭遇時の対処法】

話しかけてきたなら、静かに聞くこと。反論も質問も最小限にとどめるのが礼儀とされる。木を傷つける行為は厳禁。その木の持ち主や管理者は、精霊が目覚めている間、できる限り木の周囲を静かに保つべきである。


【豆知識】

椿は「冬に咲く花」として古くから特別視されてきた。寒さの中で花を開く性質が、不屈の象徴として扱われることが多い。また、花が散るとき花びらが一枚ずつ落ちるのではなく、花ごとぽとりと落ちるため、武家や修行の場では縁起が悪いとされた時代もある。しかし精霊の宿った古椿はそういった人間の解釈を超えた存在であり、ただ繰り返し咲くことによって、その土地を静かに守り続けている。

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