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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第五章:界境の綻び

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第百十三話「実俊の葛藤」

実俊さねとしが来たのは、昼を過ぎてからだった。


前触れもなく、ただ文机ふづくえの前に座っている真白ましろの部屋の前に立って、「少し、よろしいですか」と言った。声が、わずかに固かった。


我は縁側の端で前脚を揃えたまま、その様子を眺めていた。陰陽師見習いというのは、常日頃から己の感情に蓋をすることを習いとしているらしい。それは理解できる。理を扱う者が、乱れた心で術を用いれば、狙いを外す。感情を制御するのは、術者の基本だ。

だがこの男の今日の固さは、術者の平静とは少し違う。肩に、余分な力が入っていた。


真白は文机から顔を上げ、「どうぞ」と答えた。実俊は敷居を越えて部屋に入り、定位置のように真白の斜め向かいに座った。


「実は、陰陽寮おんみょうりょうで少し調べたことがあって」


書き出しは、いつも通りの口調だった。左の袖から折り畳んだ紙を取り出し、広げる。星辰せいしんの配置と方位を示す図のようだった。


「北西の気の変動が、三日に一度の割合で規則的に出ている。ただの乱れではなく、周期がある。これは——意志を持つものが起こす動きに近い」


真白が身を乗り出した。


「意志、というのは」

「ここだけの話ですが、陰陽寮の長老のひとりが、百年前にも似た周期が記録されていると言っていました。そのときは、南の山でひとつの大きな怨念が固まって消えた。今回は、怨念の集合ではないかもしれませんが、何かが動こうとしているのは確かです」


実俊は紙の一点を指先で叩いた。


「そこで、です。真白殿——」


そこで止まった。


珍しいことだった。この男は、言葉が詰まる質ではない。論理を積み重ねて結論に至る道筋を、常に整えてから口を開く。詰まるとすれば、それは論理の外にあるものに触れたときだ。


我は尾の先を一度だけ動かして、先を待った。


「真白殿が、言霊の理論を学びたいと——真澄殿から聞きました」


令嬢は、少し目を丸くした。


「真澄殿がそうおっしゃったのですか」

「いえ、屋敷に参ったとき、廊下でたまたま。教えてくれる者がいるならば、と探していると言っておられました。それで」


実俊は、そこでもう一度止まった。今度は短かった。


「私でよければ、と思いまして」


どういう風の吹き回しか、と我は内心で呟いた。

陰陽師として当然の判断という顔をしているが、そうではない。姫の言霊の力が界境かいきょうの異変に関係しているとすれば、その力を整えることは防衛上の意味を持つ——それはこの男が最も得意とする「論理的帰結」だ。しかし今、この男の肩に入った余分な力は、そういう計算から来るものではなかった。


少し間を置いてから、頷いた。


「ありがとうございます。ぜひ、お願いします」

「では、いくつか確認させてください。詩を詠まれるとき、何かが変わると感じた経験はありますか」


問いが始まった。実俊の口調は、すぐに本来の調子を取り戻した。整理された問いを、順に並べて積み上げていく。令嬢はひとつひとつに、丁寧に答えた。


「子どもの頃、母が体調の悪いとき、そばで歌を詠んでいたら、少し楽になったと言ってくれたことがあって。偶然だと思っていたのですが」

「それは偶然ではないはずです。言霊の感応素質がある者は、ことばの振動が気の流れに作用する。陰陽の理で言えば、木の気を整える働きに近い」


実俊は手の中の紙に、何かを書き足しながら言葉を続けた。


「大事なのは、音の高さではなくて意志です。何のために詠むか、誰に届けたいか——それが波の形を決める」


我は、ふむ、と思った。

理論としては正しい。アルメラ時代の言語魔導学と、基本構造は同じだ。ただこの男は、実俊自身の言葉でそれを語っている。誰かから教わった言葉ではなく、観察と思索から組み上げた自分の言葉で。


それは、見事と言っていいかもしれなかった。


縁側の外で、秋の風が枯れかけたはぎを揺らした。我は後脚で軽く耳の後ろを掻いてから、また前を向いた。


問答は、小半刻こはんときほど続いた。

実俊が問い、真白が答え、実俊がそれを理論の枠に嵌めて返す。真白の言葉は次第に柔らかくなり、実俊の声も、最初の固さが薄れていった。


だがそれは完全には消えなかった。


実俊は話しながら、ときおり手の中の紙に視線を落とした。真白の顔を見ているより、紙を見ている時間の方が長かった。それが何を意味するか、この男自身は気づいていないかもしれないが、我には分かった。


視線の置き場所を、どこかで制御していた。


真白への想いは、ある。それはとうの昔から明らかだ。だがこの場において、その想いをどこへ持っていけばいいか——陰陽師としての己と、それ以外の己の間で、まだ答えが出ていない。だから視線を、紙に逃がす。


まこと、理詰めの男は、感情の処理にも理詰めを使おうとして詰まる。


告白の返答は、まだもらえていない。真白は保留のままだ。その状態で、こうして教師として来ることを選んだ。それが賢いのか、あるいは余計に自分を追い込んでいるのかは、外から見ている我には判断がつかない。ただ、来ることを選んだのは確かだ。


整理しきれていなくても、動く。


我は少し前脚を動かして、座る位置を変えた。縁側の陽だまりが、わずかに西に傾いていた。


「では今日は、ここまでにしましょうか」


実俊が紙をまとめながら言った。


「次は、実際に詞を声に出して試してみましょう。声の高さと気の揺れの関係を、一緒に確認したい。——できれば、玄丸殿にも近くにいてもらえると」


我は、その言葉に耳を立てた。


実俊は我のことを見ていた。真白に向かって言いながら、一瞬だけ我に視線を寄越した。


「言霊の実験を行うとき、この猫がそばにいると気の反応が違う気がして。以前から気になっていたんですが」


真白が、くすりと笑った。


「玄丸がいると、安心しますものね」

「そういう感覚的な話ではなくて——いや、まあ。そういうことでも、あるかもしれません」


実俊は、少し口元を緩めた。珍しいことだった。この男が、論理の外を認めた瞬間だった。


「よろしくお願いします、玄丸殿」


呼びかけに対して、我は何もしなかった。

何もしないのが返答であるとこの男が理解するまで、少し間があった。それから、実俊は小さく頷いた。


「了解、ということにします」


腑に落ちた顔をしていた。以前ならば「猫に了解は分からない」と言ったかもしれない。だが今は、受け取り方を変えていた。


人は変わる。

かつて我が仕えさせていた者たちも、そうだった。最初は我の論理に圧倒されて黙っていた者が、いつの間にか反論を持ってくるようになる。それを煩わしいと思う日もあったが——今となっては、それが彼らを彼らたらしめていたのだと分かる。


実俊は立ち上がり、礼をして部屋を出た。


廊下を歩く足音が遠ざかり、やがて玄関のあたりで真澄ますみの声がした。


「御用は済みましたか」

「ええ。次回の段取りも決まりました。——真澄殿、ひとつ聞かせてください」


実俊の声は、庭に出てからも少し聞こえた。


「北西の気の変動について、何か体で感じることはありますか」

「……三日前あたりから、夜中に目が覚めることがございます。気のせいかもしれませぬが」

「気のせいではないと思います。感応のある者は、論理より先に体が反応する」


少しの間があった。


「厄介なものでございますな」と真澄が言った。

「そうですね」と実俊が答えた。


二人の声はそれきり遠くなった。


真白は文机の前に戻り、さっきまで広げていた紙を手に取って眺めた。実俊が書き残していったものだった。問答の内容を、図と文字で整理したものらしかった。


「丁寧な方ね」


独り言のように言って、姫は紙を机の端に置いた。


我は縁側から部屋の中へ入り、その傍らに腰を下ろした。


秋の午後の光が、部屋の中に長く伸びていた。遠くから、わらべの笑い声が聞こえた。くりやのあたりだろう。日常の音は、まだここにある。


ただ、北西の空気は——我の皮膚の下で、低く、静かに、動き続けていた。


それをこの場の誰も知らない。知らせる理由も、今はない。知らせれば動揺する者が出て、動揺した心は言霊を乱す。乱れた言霊は、使えない。


だから黙っている。


真白が我の頭に手を乗せた。


軽い、温かい重さだった。我は目を細めて、それを受け取った。受け取るだけでいい場面というのが、この世にはある。それを学んだのは、アルメラにいたころではなかった。

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