第百十三話「実俊の葛藤」
実俊が来たのは、昼を過ぎてからだった。
前触れもなく、ただ文机の前に座っている真白の部屋の前に立って、「少し、よろしいですか」と言った。声が、わずかに固かった。
我は縁側の端で前脚を揃えたまま、その様子を眺めていた。陰陽師見習いというのは、常日頃から己の感情に蓋をすることを習いとしているらしい。それは理解できる。理を扱う者が、乱れた心で術を用いれば、狙いを外す。感情を制御するのは、術者の基本だ。
だがこの男の今日の固さは、術者の平静とは少し違う。肩に、余分な力が入っていた。
真白は文机から顔を上げ、「どうぞ」と答えた。実俊は敷居を越えて部屋に入り、定位置のように真白の斜め向かいに座った。
「実は、陰陽寮で少し調べたことがあって」
書き出しは、いつも通りの口調だった。左の袖から折り畳んだ紙を取り出し、広げる。星辰の配置と方位を示す図のようだった。
「北西の気の変動が、三日に一度の割合で規則的に出ている。ただの乱れではなく、周期がある。これは——意志を持つものが起こす動きに近い」
真白が身を乗り出した。
「意志、というのは」
「ここだけの話ですが、陰陽寮の長老のひとりが、百年前にも似た周期が記録されていると言っていました。そのときは、南の山でひとつの大きな怨念が固まって消えた。今回は、怨念の集合ではないかもしれませんが、何かが動こうとしているのは確かです」
実俊は紙の一点を指先で叩いた。
「そこで、です。真白殿——」
そこで止まった。
珍しいことだった。この男は、言葉が詰まる質ではない。論理を積み重ねて結論に至る道筋を、常に整えてから口を開く。詰まるとすれば、それは論理の外にあるものに触れたときだ。
我は尾の先を一度だけ動かして、先を待った。
「真白殿が、言霊の理論を学びたいと——真澄殿から聞きました」
令嬢は、少し目を丸くした。
「真澄殿がそうおっしゃったのですか」
「いえ、屋敷に参ったとき、廊下でたまたま。教えてくれる者がいるならば、と探していると言っておられました。それで」
実俊は、そこでもう一度止まった。今度は短かった。
「私でよければ、と思いまして」
どういう風の吹き回しか、と我は内心で呟いた。
陰陽師として当然の判断という顔をしているが、そうではない。姫の言霊の力が界境の異変に関係しているとすれば、その力を整えることは防衛上の意味を持つ——それはこの男が最も得意とする「論理的帰結」だ。しかし今、この男の肩に入った余分な力は、そういう計算から来るものではなかった。
少し間を置いてから、頷いた。
「ありがとうございます。ぜひ、お願いします」
「では、いくつか確認させてください。詩を詠まれるとき、何かが変わると感じた経験はありますか」
問いが始まった。実俊の口調は、すぐに本来の調子を取り戻した。整理された問いを、順に並べて積み上げていく。令嬢はひとつひとつに、丁寧に答えた。
「子どもの頃、母が体調の悪いとき、そばで歌を詠んでいたら、少し楽になったと言ってくれたことがあって。偶然だと思っていたのですが」
「それは偶然ではないはずです。言霊の感応素質がある者は、詞の振動が気の流れに作用する。陰陽の理で言えば、木の気を整える働きに近い」
実俊は手の中の紙に、何かを書き足しながら言葉を続けた。
「大事なのは、音の高さではなくて意志です。何のために詠むか、誰に届けたいか——それが波の形を決める」
我は、ふむ、と思った。
理論としては正しい。アルメラ時代の言語魔導学と、基本構造は同じだ。ただこの男は、実俊自身の言葉でそれを語っている。誰かから教わった言葉ではなく、観察と思索から組み上げた自分の言葉で。
それは、見事と言っていいかもしれなかった。
縁側の外で、秋の風が枯れかけた萩を揺らした。我は後脚で軽く耳の後ろを掻いてから、また前を向いた。
問答は、小半刻ほど続いた。
実俊が問い、真白が答え、実俊がそれを理論の枠に嵌めて返す。真白の言葉は次第に柔らかくなり、実俊の声も、最初の固さが薄れていった。
だがそれは完全には消えなかった。
実俊は話しながら、ときおり手の中の紙に視線を落とした。真白の顔を見ているより、紙を見ている時間の方が長かった。それが何を意味するか、この男自身は気づいていないかもしれないが、我には分かった。
視線の置き場所を、どこかで制御していた。
真白への想いは、ある。それはとうの昔から明らかだ。だがこの場において、その想いをどこへ持っていけばいいか——陰陽師としての己と、それ以外の己の間で、まだ答えが出ていない。だから視線を、紙に逃がす。
まこと、理詰めの男は、感情の処理にも理詰めを使おうとして詰まる。
告白の返答は、まだもらえていない。真白は保留のままだ。その状態で、こうして教師として来ることを選んだ。それが賢いのか、あるいは余計に自分を追い込んでいるのかは、外から見ている我には判断がつかない。ただ、来ることを選んだのは確かだ。
整理しきれていなくても、動く。
我は少し前脚を動かして、座る位置を変えた。縁側の陽だまりが、わずかに西に傾いていた。
「では今日は、ここまでにしましょうか」
実俊が紙をまとめながら言った。
「次は、実際に詞を声に出して試してみましょう。声の高さと気の揺れの関係を、一緒に確認したい。——できれば、玄丸殿にも近くにいてもらえると」
我は、その言葉に耳を立てた。
実俊は我のことを見ていた。真白に向かって言いながら、一瞬だけ我に視線を寄越した。
「言霊の実験を行うとき、この猫がそばにいると気の反応が違う気がして。以前から気になっていたんですが」
真白が、くすりと笑った。
「玄丸がいると、安心しますものね」
「そういう感覚的な話ではなくて——いや、まあ。そういうことでも、あるかもしれません」
実俊は、少し口元を緩めた。珍しいことだった。この男が、論理の外を認めた瞬間だった。
「よろしくお願いします、玄丸殿」
呼びかけに対して、我は何もしなかった。
何もしないのが返答であるとこの男が理解するまで、少し間があった。それから、実俊は小さく頷いた。
「了解、ということにします」
腑に落ちた顔をしていた。以前ならば「猫に了解は分からない」と言ったかもしれない。だが今は、受け取り方を変えていた。
人は変わる。
かつて我が仕えさせていた者たちも、そうだった。最初は我の論理に圧倒されて黙っていた者が、いつの間にか反論を持ってくるようになる。それを煩わしいと思う日もあったが——今となっては、それが彼らを彼らたらしめていたのだと分かる。
実俊は立ち上がり、礼をして部屋を出た。
廊下を歩く足音が遠ざかり、やがて玄関のあたりで真澄の声がした。
「御用は済みましたか」
「ええ。次回の段取りも決まりました。——真澄殿、ひとつ聞かせてください」
実俊の声は、庭に出てからも少し聞こえた。
「北西の気の変動について、何か体で感じることはありますか」
「……三日前あたりから、夜中に目が覚めることがございます。気のせいかもしれませぬが」
「気のせいではないと思います。感応のある者は、論理より先に体が反応する」
少しの間があった。
「厄介なものでございますな」と真澄が言った。
「そうですね」と実俊が答えた。
二人の声はそれきり遠くなった。
真白は文机の前に戻り、さっきまで広げていた紙を手に取って眺めた。実俊が書き残していったものだった。問答の内容を、図と文字で整理したものらしかった。
「丁寧な方ね」
独り言のように言って、姫は紙を机の端に置いた。
我は縁側から部屋の中へ入り、その傍らに腰を下ろした。
秋の午後の光が、部屋の中に長く伸びていた。遠くから、わらべの笑い声が聞こえた。厨のあたりだろう。日常の音は、まだここにある。
ただ、北西の空気は——我の皮膚の下で、低く、静かに、動き続けていた。
それをこの場の誰も知らない。知らせる理由も、今はない。知らせれば動揺する者が出て、動揺した心は言霊を乱す。乱れた言霊は、使えない。
だから黙っている。
真白が我の頭に手を乗せた。
軽い、温かい重さだった。我は目を細めて、それを受け取った。受け取るだけでいい場面というのが、この世にはある。それを学んだのは、アルメラにいたころではなかった。




