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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第五章:界境の綻び

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第百十二話「真白の覚悟」

秋雨が、庭の砂利を叩いていた。


軒下の深さまで水気が吹き込んでいて、縁側の板が端から少しずつ濡れている。我はその境目——乾いた板と濡れた板の境目——に腹を下ろし、その音を聞いていた。


雨の日は、気配が読みにくい。音が全方位から来るため、異質なものが混じっていても見落としやすい。北西の方角も、今日は雨に押し込まれて判然としない。


悪い条件だ。


我は前脚を揃え、目を細めて雨粒の軌跡を追った。


真白ましろが、部屋の中にいる。廊下を挟んだ向こうで、文机ふみづくえの前に座っているのが気配で分かる。朝から、あの場所を動いていない。


何か書いているのか、あるいは考えているのか——筆の音は今のところ聞こえてこなかった。


———


昼になっても雨は止まなかった。


うめが昼餉の膳を持ってきたとき、真白は「少し後で」と答えた。お梅は膳を置いて下がったが、廊下を戻る足音に迷いがあった。


我は廊下を歩き、部屋の前まで行って文机の方向を向いて座った。


障子越しに、気配が伝わる。


真白はこちらに気づいている。気配を察する能力が、この頃は鋭くなっている——言霊感応が研ぎ澄まされるにつれて、人の動きだけでなく、気の流れそのものを読む力が増してきているようだ。


「入ってきていいわよ、玄丸くろまろ


障子が少し開いていた。我は頭で押し広げて入り、文机の脇に腰を下ろした。


真白の前の紙には、何行か書かれていた。和歌ではない——言葉を並べているが、詩の形ではなく、何かを整理するように書き付けた文字が連なっていた。我が見ても、内容は人の文字を読む習慣のない猫の目には判然としない。だが真白の表情は、答えを探している者の顔だった。


「ねえ、玄丸」


真白は筆を置いて、我を見た。


「あなたは、この屋敷を守ってくれているでしょう」


我は動かなかった。


「北西から来るものを、結界で防いで。力を使って。……あなたが、魔法を使うたびに——少し、削れている気がするの。あなたの何かが」


雨音が続いている。


真白の目は、いつもより落ち着いていた。感情が高ぶっているのではなく、長い時間をかけて何かを見据えてきた、そういう目だった。


「気のせいかもしれない。でも、そう感じる。言霊の感応が強くなって、それまで分からなかったことが、少しずつ分かるようになってきた。あなたの気が——動くたびに揺れる。その揺れ方が、普通の猫と違う」


我は尾を一度だけ動かした。


「だから——わたしも、何かしなければならないと思って」


真白は文机の上の紙を見た。


「わたしの言霊が、役に立てるはずだと思うの。橋姫はしひめのときも、口無しくちなしおんなのときも、あなたと合わせることで力になれた。それは偶然じゃない、とこの頃は確信している。……でも、北西から来るものは、それまでと違う。どう使えばいいのか、まだ分からなくて」


筆が、紙の上に静かに置かれた。


「真名井実俊(まない の さねとし)殿に、教わろうと思っているの。言霊の理論を。陰陽の術と言霊がどう絡むか——実俊殿なら知っているかもしれない。あなたと真澄ますみが守ってくれている間に、わたしはわたしにできることを身につけなければ」


我は真白を見た。


この娘は、どこで変わったのだろう。以前は——転生して間もない頃のこの娘は、もう少し柔らかく、少し頼りない、貴族の令嬢らしい気配を持っていた。それが今は、同じ穏やかさの中に、骨が通っている。


言霊の力を、道具として使おうとしている。


「あなたが傷つくのを、見ていたくないの」


真白の声が、低くなった。


「猫だから分からない、なんて思ってない。あなたがこの屋敷を——わたしたちを、守ってくれているのは見えている。だから、わたしも隣に立てるようになりたい。守られるだけじゃなくて」


雨が、少し強くなった。


我は前脚を一歩、真白の方へ寄せた。それだけだ。言葉はない。だが真白は、その一歩を見て、小さく息を吐いた。


「そう。……ありがとう」


何が「ありがとう」なのかは、人に説明できぬ。だが我と真白の間では、それで伝わった。


——まこと、言霊を持つ者の感応とは、かくも細やかなものか。


我は内心で、静かに整理する。


真白が実俊に教えを乞う。それは、理論的に言霊の使い方を体系化しようとする試みだ。実俊の陰陽の知識と、真白の言霊の素地が合わされば——あの夜、我が金の理で補助した結界の比ではない何かが、生まれるかもしれない。


ただし、それを実現するには時間が要る。


そして今、時間がどれほどあるか——北西の歪みが広がる速度を考えれば、楽観はできぬ。


「実俊殿を、次に来たときに呼んでもいいか聞いてみようと思って。……嫌?」


最後の問いは、我に向いていた。


我は目を細め、また一歩前へ出た。膝の上に顎を載せる形になった。重みを預けた。


柔らかい手が、我の頭に来た。


「嫌じゃないのね」


——嫌ではない。


ただ、真白が力を持つことは、ある種の危うさも孕む。力を持てば、使う場面が来る。使う場面が来れば、傷つく可能性が生まれる。


それでも——この娘が黙って守られているだけの存在でないことは、我はとうに知っていた。口無し女を救ったのも、橋姫の心を解いたのも、その言霊だ。我はその隣で、補助をしていたに過ぎない。


守るべき者が、共に戦う力を求めている。


それを止めることは、我にはできぬ。


「玄丸」


真白が我の名を呼んだ。雨音の中で、その声だけが静かに立った。


「一緒に、やっていけるかしら」


我は喉の奥で、低く鳴らした。


答えとしては不十分かもしれぬ。だが真白は微笑んだ。


「そうね。一緒にやっていきましょう」


雨が続いている。


文机の上の紙が、風でわずかに揺れた。真白の書き付けが、その上にある。整理した言葉の断片が、次の一手を探している。


我は膝から顎を上げ、北西の方角へ向いた。


気配はまだ、雨の向こうに潜んでいる。


だが、今日は一つだけ確かになったことがある。


真白は、止まらない。


それは我にとって、厄介でもあり——まこと、言いようのない心強さでもあった。いずれが先に来るかは、今日のところは棚に上げておく。


雨音の中、我はもう一度、静かに喉を鳴らした。

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