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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第五章:界境の綻び

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第百十一話「目目連の監視」

「この障子、どこかおかしくない?」


真白ましろの声が、廊下の向こうから聞こえてきた。


我は縁側で丸まっていたが、片耳だけ立てて声の方向を測った。廊下の突き当たり、渡り廊下と母屋をつなぐあたりに古い障子がある。普段は誰も気に留めないような、桟の黒ずんだ古い建具だ。


真白の言葉に続いて、足音が近づいてきた。


「どうなさいましたか」と葛上真澄(かずらがみ の ますみ)の声。


「障子の和紙に、模様が浮かんでいる気がして。光の加減かしら」


我はのっそりと立ち上がり、廊下へと歩いた。


渡り廊下の古障子は、確かに変だった。


和紙の全面にわたって、薄い円形の影がいくつも散らばっている。最初は紙の痛みか、あるいはかびの類かと見えたが、近づくにつれてその輪郭が妙に整っていることが分かった。ひとつひとつの円が、まるで眼球がんきゅうの形に似ている。瞳孔どうこうのような中心の暗い点を持ち、その周囲を薄い輪が縁取っていた。


数えると、二十を超えるほどある。


「……これ、昨日はなかったわ」


真白が小声で言った。


真澄は黙って障子を見つめた。我もその場に腰を下ろし、障子全体を観察する。


気配がある。


弱い。脅威ではない。だがたしかに、この障子の向こう側——あるいは和紙そのものの内側から、何かの意識が滲んでいた。じっと、こちらを窺うような意識だ。


我が尾を立てて近づくと、影の一つが僅かに動いた。


滑るように位置をずらし、また静止する。


我と同じ速度で、こちらを追う。


「動いた」と真白が息をのんだ。


「姫君、下がってください」と真澄が前へ出たが、我は尻尾で制するように横に振った。敵意はない。この気配は、敵のそれとは根本的に異なる。昨夜の魔物が発する、理を吸い込もうとする虚の圧力とは全く別の——観察する意志だ。


こちらを、見ている。


それだけだ。


我は和紙に顔を近づけた。影の一つが玄丸の目の高さに移動し、また静止した。


「……まこと、物見のもののみのあやかしか」


内心でそう整理した瞬間、障子の桟の継ぎ目から、細い声が聞こえた。


「あんた、ちゃんと見えてるね」


声は年老いた爺のようでもあり、乾いた紙が擦れるようでもあった。方向は定まらず、障子全体から染み出すように響く。


真白が「声がした」と呟いた。


「そう。見えてる」と真澄が静かに返した。「姫君にも聞こえましたか?」


「ええ。確かに」


真澄は我の傍らに膝をついた。


目目連もくもくれん殿。この屋敷に何か御用でございますか」


しばらく間があった。


「……知ってるか、おまえら」


声は再び障子の紙から染み出した。


「三日前から、この辺りの空気が変わった。北西の方角から何かが押してくる。普通の妖怪ようかいの動きじゃない。形がない。匂いもない。あるのは、吸い込もうとする動きだけだ」


真澄の目が細くなった。


「ご存知でございましたか」


「見てたからね。ここからずっと」


声の主——目目連もくもくれんは、淡々と続けた。


「この屋敷、面白い場所だ。妖怪が出入りして、人間の娘が言霊ことだまを持って、黒猫が変な気を放っている。普通じゃない。だから、しばらく前から見ていた」


我は障子に向かって鼻を近づけ、気配の中心を探った。意識の核は、どうやら一番左上の影に宿っているようだった。他の影は、そこから伸びた視覚の端末のようなものか。


「あなたは、都の様子を見張っているの?」と真白が聞いた。


「見るのが好きなんだ。ずっと昔から、いろんなものを見てきた。川が変わるのも、人が行き来するのも、妖怪が増えたり減ったりするのも。見ていれば、流れが分かる」


「今の流れは、どう見えますか」と真澄。


答えが来るまで、少し間があった。


「良くない」


簡潔だった。


「北西から来るあれは、何かを目指している。目指しているというより——引き寄せられている。この辺りの何かに。二日続けて同じ方向から来て、同じ場所に近づいた。偶然じゃない。あれはここを知っている」


真白の顔が引き締まった。


「ぬらりひょん(ぬらりひょん)殿の話でも、北西のことは出ていました。煙々えんえんら殿の記憶にも、百年前に北西から何かが押してきたと。……やはり、場所の問題なのでしょうか」


「屋敷の場所というより、屋敷の中にあるものの問題だろうね」


目目連の声が、初めて少し温度を持った。


「娘の言霊が、特別に強い。それは見れば分かる。あの力は、ことわりの振動として外に滲んでいる。妖怪ならば気づく。……あれも、気づいたのかもしれない」


真白が我を見た。我は視線を受け止め、また障子に向き直った。


目目連の観察は、正確だ。我が昨夜から考えていたことと、方向が一致している。真白の言霊感応が外に漏れ出る理の振動として、永劫炉えいごうろ残滓ざんしを引き寄せている——その可能性は、今も消えていない。


「あなたは、これからも見ていてくれるの?」


真白が問いかけると、また間があった。


「そのつもりで来た」


「お名前を、聞かせてもらえますか」


「目目連だ。古い障子に目が宿ったもの。怖がらないかい?」


「いいえ」と真白は即座に言った。「目があるということは、見ているということでしょう。見ていてくれる方は——ありがたい」


沈黙が少し長くなった。


和紙の影が、静かに再配置された。散らばっていた眼の影が、かすかに一点へ向けて傾く。全部の目が、今は真白を見ていた。


「……変な娘だ」と声が言った。「妖怪を前にして、礼を言う人間がいるとは思わなかった」


「妖怪の皆さんには、いつもお世話になっていますから」


「屋敷の評判は聞いていたよ。ぬらりひょんの口を通じて。妖怪の駆け込み寺だとか何とか」


真白が少し笑った。


「そんなつもりはないのですが、いつの間にかそうなってしまって」


「良いことだ」と目目連は言った。「妖怪が安心できる場所が減っている。都が変わるにつれて、居場所がなくなる。ここみたいな屋敷は、少ない」


我は床の上で前脚を揃え、目目連の気配を落ち着いて測り続けた。悪意はない。脅威もない。これは確かだ。ただ、長年にわたって都の気の流れを観察してきた存在——その情報は、今の状況においては貴重だ。


「目目連殿」と真澄が言った。「北西の異変について、これからも気づいたことがあればお知らせいただけますか。われわれだけでは、全方角を見張ることができません」


「それが目的で来たんだ」


声は澄んでいた。


「ぬらりひょんから話を聞いた。この屋敷の黒猫と、家令が昨夜の魔物を退けたと。それなら信頼できる。わたしは見ることしかできないが、見た分は教えよう。妖怪の数が減っているのは——あの北西から来るものに、気の強い妖怪が近づかなくなっているからだ。怖がって逃げている」


「それは……どの辺りの妖怪が?」


「川沿いと、東の森のへり。以前、火車かしゃが言っていた三点と重なる」


真澄が低く「やはり」と呟いた。


「広がっているな。範囲が」


「少しずつ、な。昨日と一昨日では、じわりと東へ寄った気がする」


我は尾の先を一度だけ動かした。


拡大している。


昨夜の魔物との遭遇は、単発の出来事ではなかった。北西の界境かいきょうの歪みは広がりを持ち、妖怪たちが感知する範囲にまで気の変容が及んでいる。陰陽寮が記録した三点の界境の薄れも、連動している可能性がある。


——永劫炉の残滓は、まだ外から押し続けている。


「分かりました」と真白が言った。静かだが、揺れのない声だった。「目目連殿。この障子は、どうかそのままにしていてください。ここを拠点にしていただいて構わない。見ていてもらえるなら、心強いです」


「……そうするよ」


影が、また僅かに動いた。緊張が解けたような、ゆるやかな再配置だった。


「一つだけ聞かせてくれ。あの黒猫は、何だ」


真白が我を見た。我は障子に向かって、一度だけ目を閉じ、また開いた。


「そうか」と目目連は言った。「そういうことか。なら、頼む。あれを止められるとしたら——」


そこで声は途切れた。


続きを言わずに止まった。我も促さなかった。目目連が何を言いかけたのかは、分かる。だが今はまだ、その言葉を全部聞いてしまう必要はない。


廊下に静寂が戻った。


真白が我の頭の上に手を置いた。


「目目連殿も、都を守ろうとしてくれているのね」


「見ることしかできない。それだけだ」


「十分です」


その言葉に、障子の影がまた少しだけ揺れた。今度は、穏やかな揺れに見えた。


我は廊下の真ん中に腰を下ろし、北西の方角へ顔を向けた。目目連の目が、我の視線の先を一緒に追った。


目が増えた。


それだけのことだが——孤立無援では、なくなった。


この都には、見ることで守ろうとする存在がいる。


まこと、平安へいあんことわりとは、奇妙に豊かである。我が捨ててきた世界には、およそなかったものが、ここには確かにある。


喉の奥で、細く鳴らした。自分でも気づかぬほどの、小さな音だった。

【妖怪図鑑】


目目連もくもくれん

【分類】付喪妖怪(建具系)

【危険度】★☆☆☆☆(低)

【レア度】★★★☆☆(やや珍しい)

【出現場所】古い障子・ふすま・板戸。特に長年使われてきた建具に宿りやすい。人の出入りが多く、気の流れを観察しやすい場所を好む。


【特徴】

古い障子の和紙に、無数の目が宿った妖怪。一枚の障子に数十の目を持つこともある。目はそれぞれ独立して動き、広い範囲を同時に見渡すことができる。視覚に特化した存在であり、攻撃的な能力は持たない。長年同じ場所に留まることで、その地域の気の流れや妖怪の動向を把握している。


【得意なこと】

・広範囲の同時観察

・気の流れや変化の感知

・長期にわたる記憶の保持(その場所で起きたことを覚えている)


【弱点】

・光が強すぎると目が眩んで感知能力が落ちる

・動くことができない(建具に宿る性質上、移動は不可能)

・見ることはできるが、直接干渉する手段を持たない


【生態】

建具が捨てられたり燃やされたりすると消滅する。長く使われた障子ほど、宿る目の数が増える傾向がある。基本的に人間に対して干渉しようとしないが、何か伝えたいことがある場合は、声を発することもある。


【玄丸の評価】

「これほど広範囲を同時に視る能力は、我の陽眼ようがんでも及ばぬ。観察に特化した存在、とはつまり、情報の塊だ。敵意がないならば、今の状況において得難い協力者となる。人間が見逃す細部を拾い上げる目——それは、理を分析する上でも重要な素材だ。ただし、この妖怪が全部を見ていたとすれば……真白がいつ我の頭を撫でていたかも、把握されているということになる。それは少々、落ち着かぬ」


【豆知識】

目目連が宿る障子は、夜になると目が光ることがあり、これを「燭台の代わりに使える」と重宝する物好きな人間もいたという。ただし、見られているという感覚が苦手な者には向かない。目目連自身は人間の日常にさほど関心を持たないが、気の流れや妖怪の動向には敏感で、都の「今の状態」を知りたい者には、話しかけてみる価値がある。

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