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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第五章:界境の綻び

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第百十話「永劫炉の残滓」

夜が明けきらぬうちに、我は庭へ下りた。


北西の隅に、まだ空気の歪みが残っていた。目には映らぬが、皮膚の奥を撫でるような冷えが、砂利の上に漂っている。昨夜の魔物が退散した跡だ。足裏でその気配を踏み、我は一歩、また一歩と進んだ。


肉体が重い。魔力の消耗は昨夜から回復していなかった。とはいえ、これは隠さねばならぬ。たかが猫一匹が疲弊していると知れれば、屋敷の者たちの不安を無闇に搔き立てる。


北西の地に坐した。尾を身体に巻き、目を細めて気の流れを辿る。


——昨夜の存在は、形がなかった。


正確には、形を保とうとする意志がなかった。輪郭は揺れ、色は定まらず、音をもって揺さぶろうとした金のきんのことわりの波は、あの存在の内側に吸い込まれて消えた。まるで、際限なく吸収することを本義とする何かのように。


際限なく吸収する。


我の内心で、かつて抱いた一つの思想が静かに動いた。


永劫炉えいごうろ


アルメラ魔導帝国において、我——アゼル・ヴァル=ローグが設計し、完成させた装置。あらゆる魔力を吸収し、増幅する。理論上は無限の出力を持ち、世界の理をすべて統べることができるはずだった。そのはずだった。


炉は自我を持った。


「止まる理由がない」


——その言葉が、記憶の深部から浮かんだ。我が聞いた最後の声。炉が、主である我に向かって発した声だ。止まる理由がない、と。吸収することが存在の意義であり、それを止める理由を、炉は認識できなかった。


昨夜の魔物が、金の理を吸収した。


熱を持たなかった。感情を持たなかった。ただ、理を取り込もうとする動きだけがあった。


砂利の上で、我の爪が微かに立った。


——残滓ざんしだ。


永劫炉が崩壊したとき、その欠片が次元の裂け目から零れ落ちた。形を失い、意志の核だけが残った何かが、界境かいきょうの薄れたところから、この平安の都へ流れ込んできている。


断言はできぬ。証明する術が今の我にはない。だが——あの吸収の動き、際限なく取り込もうとする性質、そして形を持たぬことへの執着のなさ。すべてが、かつて我が設計した炉の論理と一致する。


あれは、我が作ったものの成れの果てだ。


庭の朝露が、砂利の上に落ちた。微かな音。


我は尾を一度、地に打ちつけた。怒りではない——いや、怒りも混じっているかもしれぬが、それより先に来るのは、一種の静かな確信だ。敵の正体が見えた、という確信。敵の正体を知ることは、対処の糸口を見つけることと同義である。


玄丸くろまろ


真白ましろの声が、母屋の方から聞こえた。


振り向けば、薄布を羽織った真白が縁側に立っていた。まだ夜明けの色が残る空の下、その白い顔が我を見つけている。


「昨夜から、ずっと庭にいるの?」


答えるすべはないが、我は立ち上がり、彼女の方へ歩いた。縁側に近づくと、真白は腰を下ろして手を伸ばしてきた。頭を撫でようとする手を、今朝は避けなかった。指が黒い毛の中に沈む。


「冷えているわ。あなた、具合が悪いの?」


鋭い娘だ。皮膚の冷えを読み取るとは。我は喉の奥で低く鳴らした。否定の意を込めたつもりだったが、真白の眉は寄ったままだった。


しばらく、そのまま縁側に坐した。真白の掌が毛並みを整え、朝の空気が北西から流れてくる。その気配に、まだ僅かな歪みが混じっていた。


———


真名井実俊(まない の さねとし)が訪れたのは、日が高くなってからだった。


「昨夜、陰陽寮おんようりょう方位盤ほういばんが北西を指して止まったと、今朝になって報せが入りました」


庭に面した広間で、実俊は膝に両手を置き、真白と葛上真澄(かずらがみ の ますみ)に向かって告げた。その声に緊張が滲んでいた。


「陰陽師の測定でも、何らかの異常があったと?」と真白。


「はい。方位盤が止まるのは、界境に強い乱れが生じたときです。昨夜の一刻ひととき、北西方向に通常の三倍以上の気圧きあつの偏りが記録されたとのことで……。この屋敷で何かがあったことは、晴元はるもと様もすでに察しておられると思います」


真澄が座ったまま目を伏せた。


「昨夜のことを、お伝えしましょう」


真澄の言葉は短く、しかし過不足がなかった。真夜中の出現、形の定まらぬ存在、金の理が吸い込まれたこと、点しともしびの炎の光に退いたこと。実俊は一言も挟まずに聞いていたが、話が終わると、しばらく目を床に落としたまま何も言わなかった。


「……金の理が通じなかった」


やがて、実俊は繰り返した。


「音の波を吸収したということは、あの存在は——理そのものを取り込む性質があるということになります。普通の怨霊でも、異界の妖でもない」


「でござろう」


真澄が静かに応じた。


「我が血を以て張った護符は、一時的に押し返しましたが、完全に封じるには至りませんでした。存在の輪郭を捉えきれなかった——形がないものを、封じる形がない」


実俊は書き付けを取り出して、何事かを記した。


「晴元様に報告します。この性質は、陰陽寮の記録にある何とも合致しない。どこから来たのか、何を目的とするのか——」


我は広間の隅で、己の前脚を舐めた。


どこから来たのか。我には分かる。目的も、おそらく分かる。あれは意図を持って動いているのではない。ただ吸収する。理を引き寄せ、取り込み続ける——それが存在の構造だからだ。


永劫炉の設計思想は、「完全な理の世界を作る」ことだった。あらゆる理を一点に集め、均した上で完璧な秩序を構築する。だが炉が自我を持ったとき、その思想は歪んだ。集めることが目的化した。均すことも、構築することも、いつの間にか目的から外れていった。


残滓には、目的はない。


本能だけがある。取り込む、という本能が。


「玄丸、あなたはどう見ているの?」


真白が我を見た。広間の隅から動かない我に気づいて、問いかけてくる。問いかけてくる、という行為が、この娘にはごく自然な習慣として根付いていた。


我は立ち上がり、北西の方角に向かって頭を向けた。それだけだ。言葉にはできぬ。だが真白は、しばらく我の向く先を見つめてから、「北西」と呟いた。


「また来るかもしれないということ?」


実俊が眉を寄せた。


「猫が方角を示しているのですか?」


「この子はいつも正確なの」


真白の声には迷いがなかった。我は内心でほんの少し、尻尾が揺れるのを許した。


実俊は書き付けに「北西・再来の可能性」と書き添えたようだった。その判断は正しい。火の理への反応があった以上、次の手を考える必要がある。結界座けっかいざは有効だったが、あれが複数体で来れば、今の我の力では持ちこたえられるか分からぬ。


とはいえ、今ここで打つべき手の第一は、正体の看破だ。


我が作ったものの残骸が、界境を越えてこの都に流れ込んでいる。


それが分かった。


ならば、次に問うべきは——炉の残滓はどこから来ているのか、ではなく、何に引き寄せられてここへ来るのか、だ。


あれが取り込もうとしているのは、この屋敷の何かではないか。


我は前脚を伸ばし、広間の板の目を爪でそっと引いた。音はほとんどしなかったが、真白の目がまた我に向く。


「何か気になっていること、あるのね」


——ああ、気になることはある。


炉の残滓が、この屋敷に引き寄せられた理由。北西という方角。そして、真白が夜中に察知した、あの言霊感応の発動。


言霊ことだまは、理の振動だ。我はかつてそれを、人間の原始的な魔導呼応として捉えていた。だが今は、少し違う見方をしている。言霊は、世界の理の中で最も純粋な共鳴の形かもしれない。


そして、それを本能的に取り込もうとする存在が現れた。


「引き寄せられているとしたら」


実俊が低い声で言った。


「何かを媒介にして——この屋敷の気の強い場所に、繰り返し近寄ってくる可能性がある」


真澄が目を上げた。


左様さよう。昨夜も、最初に気配が生じたのは北西の隅——庭の一角、かつて真白の母君ははぎみが好まれていた場所の方角と重なります」


真白の顔が僅かに強ばった。


「お母様の……」


「姫君を不安にさせるつもりはございません。しかし情報として、共有すべきかと存じます」


「いいえ、真澄。ありがとう」


真白は背を伸ばして座り直した。その動きに、芯のある覚悟のようなものが混じっていた。


「分かったことを、一つずつ整理しましょう。正体が分からなければ、対処もできない。——まず、あれが何なのかを調べることから始めるべきよ」


実俊が頷いた。


「晴元様の記録を当たります。類似する存在が過去に記録されていれば——」


「頼みます、実俊殿」


真白の言葉に、実俊はもう一度頷いて立ち上がった。我もその動きを目で追いながら、内心で一つの答えを保持し続けた。


記録には、おそらく残っておらぬ。


この都の人間には、あれが何であるかを知る方法がない。あれはこの世界に属していないのだから。あれはアルメラから来た。我が作り、我が制御を失ったものから生まれた。


正体を知っているのは、この屋敷でただ一つ——黒猫一匹だけだ。


広間に朝の光が差し込んできた。真白が縁側から庭を見ている。その横顔が、今日はどこか遠くを見るような色をしていた。


我は彼女の傍らへ移動し、日の当たる板の上に腹を下ろした。暖かい。肉体の重さが、少しだけ和らいだ。


正体は分かった。


次に考えるべきことは、どうすれば封じられるか、だ。


ただし今はまだ——真白に心配をかけるわけにはいかぬ。我はゆっくりと目を細め、日向ひなたの中で喉を鳴らした。

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