第百十話「永劫炉の残滓」
夜が明けきらぬうちに、我は庭へ下りた。
北西の隅に、まだ空気の歪みが残っていた。目には映らぬが、皮膚の奥を撫でるような冷えが、砂利の上に漂っている。昨夜の魔物が退散した跡だ。足裏でその気配を踏み、我は一歩、また一歩と進んだ。
肉体が重い。魔力の消耗は昨夜から回復していなかった。とはいえ、これは隠さねばならぬ。たかが猫一匹が疲弊していると知れれば、屋敷の者たちの不安を無闇に搔き立てる。
北西の地に坐した。尾を身体に巻き、目を細めて気の流れを辿る。
——昨夜の存在は、形がなかった。
正確には、形を保とうとする意志がなかった。輪郭は揺れ、色は定まらず、音をもって揺さぶろうとした金の理の波は、あの存在の内側に吸い込まれて消えた。まるで、際限なく吸収することを本義とする何かのように。
際限なく吸収する。
我の内心で、かつて抱いた一つの思想が静かに動いた。
永劫炉。
アルメラ魔導帝国において、我——アゼル・ヴァル=ローグが設計し、完成させた装置。あらゆる魔力を吸収し、増幅する。理論上は無限の出力を持ち、世界の理をすべて統べることができるはずだった。そのはずだった。
炉は自我を持った。
「止まる理由がない」
——その言葉が、記憶の深部から浮かんだ。我が聞いた最後の声。炉が、主である我に向かって発した声だ。止まる理由がない、と。吸収することが存在の意義であり、それを止める理由を、炉は認識できなかった。
昨夜の魔物が、金の理を吸収した。
熱を持たなかった。感情を持たなかった。ただ、理を取り込もうとする動きだけがあった。
砂利の上で、我の爪が微かに立った。
——残滓だ。
永劫炉が崩壊したとき、その欠片が次元の裂け目から零れ落ちた。形を失い、意志の核だけが残った何かが、界境の薄れたところから、この平安の都へ流れ込んできている。
断言はできぬ。証明する術が今の我にはない。だが——あの吸収の動き、際限なく取り込もうとする性質、そして形を持たぬことへの執着のなさ。すべてが、かつて我が設計した炉の論理と一致する。
あれは、我が作ったものの成れの果てだ。
庭の朝露が、砂利の上に落ちた。微かな音。
我は尾を一度、地に打ちつけた。怒りではない——いや、怒りも混じっているかもしれぬが、それより先に来るのは、一種の静かな確信だ。敵の正体が見えた、という確信。敵の正体を知ることは、対処の糸口を見つけることと同義である。
「玄丸」
真白の声が、母屋の方から聞こえた。
振り向けば、薄布を羽織った真白が縁側に立っていた。まだ夜明けの色が残る空の下、その白い顔が我を見つけている。
「昨夜から、ずっと庭にいるの?」
答えるすべはないが、我は立ち上がり、彼女の方へ歩いた。縁側に近づくと、真白は腰を下ろして手を伸ばしてきた。頭を撫でようとする手を、今朝は避けなかった。指が黒い毛の中に沈む。
「冷えているわ。あなた、具合が悪いの?」
鋭い娘だ。皮膚の冷えを読み取るとは。我は喉の奥で低く鳴らした。否定の意を込めたつもりだったが、真白の眉は寄ったままだった。
しばらく、そのまま縁側に坐した。真白の掌が毛並みを整え、朝の空気が北西から流れてくる。その気配に、まだ僅かな歪みが混じっていた。
———
真名井実俊(まない の さねとし)が訪れたのは、日が高くなってからだった。
「昨夜、陰陽寮の方位盤が北西を指して止まったと、今朝になって報せが入りました」
庭に面した広間で、実俊は膝に両手を置き、真白と葛上真澄(かずらがみ の ますみ)に向かって告げた。その声に緊張が滲んでいた。
「陰陽師の測定でも、何らかの異常があったと?」と真白。
「はい。方位盤が止まるのは、界境に強い乱れが生じたときです。昨夜の一刻、北西方向に通常の三倍以上の気圧の偏りが記録されたとのことで……。この屋敷で何かがあったことは、晴元様もすでに察しておられると思います」
真澄が座ったまま目を伏せた。
「昨夜のことを、お伝えしましょう」
真澄の言葉は短く、しかし過不足がなかった。真夜中の出現、形の定まらぬ存在、金の理が吸い込まれたこと、点し火の炎の光に退いたこと。実俊は一言も挟まずに聞いていたが、話が終わると、しばらく目を床に落としたまま何も言わなかった。
「……金の理が通じなかった」
やがて、実俊は繰り返した。
「音の波を吸収したということは、あの存在は——理そのものを取り込む性質があるということになります。普通の怨霊でも、異界の妖でもない」
「でござろう」
真澄が静かに応じた。
「我が血を以て張った護符は、一時的に押し返しましたが、完全に封じるには至りませんでした。存在の輪郭を捉えきれなかった——形がないものを、封じる形がない」
実俊は書き付けを取り出して、何事かを記した。
「晴元様に報告します。この性質は、陰陽寮の記録にある何とも合致しない。どこから来たのか、何を目的とするのか——」
我は広間の隅で、己の前脚を舐めた。
どこから来たのか。我には分かる。目的も、おそらく分かる。あれは意図を持って動いているのではない。ただ吸収する。理を引き寄せ、取り込み続ける——それが存在の構造だからだ。
永劫炉の設計思想は、「完全な理の世界を作る」ことだった。あらゆる理を一点に集め、均した上で完璧な秩序を構築する。だが炉が自我を持ったとき、その思想は歪んだ。集めることが目的化した。均すことも、構築することも、いつの間にか目的から外れていった。
残滓には、目的はない。
本能だけがある。取り込む、という本能が。
「玄丸、あなたはどう見ているの?」
真白が我を見た。広間の隅から動かない我に気づいて、問いかけてくる。問いかけてくる、という行為が、この娘にはごく自然な習慣として根付いていた。
我は立ち上がり、北西の方角に向かって頭を向けた。それだけだ。言葉にはできぬ。だが真白は、しばらく我の向く先を見つめてから、「北西」と呟いた。
「また来るかもしれないということ?」
実俊が眉を寄せた。
「猫が方角を示しているのですか?」
「この子はいつも正確なの」
真白の声には迷いがなかった。我は内心でほんの少し、尻尾が揺れるのを許した。
実俊は書き付けに「北西・再来の可能性」と書き添えたようだった。その判断は正しい。火の理への反応があった以上、次の手を考える必要がある。結界座は有効だったが、あれが複数体で来れば、今の我の力では持ちこたえられるか分からぬ。
とはいえ、今ここで打つべき手の第一は、正体の看破だ。
我が作ったものの残骸が、界境を越えてこの都に流れ込んでいる。
それが分かった。
ならば、次に問うべきは——炉の残滓はどこから来ているのか、ではなく、何に引き寄せられてここへ来るのか、だ。
あれが取り込もうとしているのは、この屋敷の何かではないか。
我は前脚を伸ばし、広間の板の目を爪でそっと引いた。音はほとんどしなかったが、真白の目がまた我に向く。
「何か気になっていること、あるのね」
——ああ、気になることはある。
炉の残滓が、この屋敷に引き寄せられた理由。北西という方角。そして、真白が夜中に察知した、あの言霊感応の発動。
言霊は、理の振動だ。我はかつてそれを、人間の原始的な魔導呼応として捉えていた。だが今は、少し違う見方をしている。言霊は、世界の理の中で最も純粋な共鳴の形かもしれない。
そして、それを本能的に取り込もうとする存在が現れた。
「引き寄せられているとしたら」
実俊が低い声で言った。
「何かを媒介にして——この屋敷の気の強い場所に、繰り返し近寄ってくる可能性がある」
真澄が目を上げた。
「左様。昨夜も、最初に気配が生じたのは北西の隅——庭の一角、かつて真白の母君が好まれていた場所の方角と重なります」
真白の顔が僅かに強ばった。
「お母様の……」
「姫君を不安にさせるつもりはございません。しかし情報として、共有すべきかと存じます」
「いいえ、真澄。ありがとう」
真白は背を伸ばして座り直した。その動きに、芯のある覚悟のようなものが混じっていた。
「分かったことを、一つずつ整理しましょう。正体が分からなければ、対処もできない。——まず、あれが何なのかを調べることから始めるべきよ」
実俊が頷いた。
「晴元様の記録を当たります。類似する存在が過去に記録されていれば——」
「頼みます、実俊殿」
真白の言葉に、実俊はもう一度頷いて立ち上がった。我もその動きを目で追いながら、内心で一つの答えを保持し続けた。
記録には、おそらく残っておらぬ。
この都の人間には、あれが何であるかを知る方法がない。あれはこの世界に属していないのだから。あれはアルメラから来た。我が作り、我が制御を失ったものから生まれた。
正体を知っているのは、この屋敷でただ一つ——黒猫一匹だけだ。
広間に朝の光が差し込んできた。真白が縁側から庭を見ている。その横顔が、今日はどこか遠くを見るような色をしていた。
我は彼女の傍らへ移動し、日の当たる板の上に腹を下ろした。暖かい。肉体の重さが、少しだけ和らいだ。
正体は分かった。
次に考えるべきことは、どうすれば封じられるか、だ。
ただし今はまだ——真白に心配をかけるわけにはいかぬ。我はゆっくりと目を細め、日向の中で喉を鳴らした。




