表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第五章:界境の綻び

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
110/142

第百九話「異界の魔物」

真夜中を少し過ぎた頃、屋敷の気が裂けた。


裂けた、というのは我の感覚だ。正確には——それまで均一に張っていた気の膜に、急に薄い箇所が生じた。指で布を突いたときのように、そこだけが沈み込む感触。我は縁側の奥で丸まっていたが、毛並みが一斉に逆立つのを止められなかった。


起き上がった。


庭の北西の隅——松の根元に近い白砂の上——に、それはいた。


形を持っていた。だがその形が、我の知っているいかなる妖怪とも異なっていた。妖怪というものは長い年月をかけて人の傍らで育まれる。その気には必ず、人の感情の残滓が混じっている——恐れ、懐かしさ、愛着、あるいは怨み。だがそれには、そういったものが何もなかった。


ただの力だった。


形は人に近かった。立っている。腕がある。だがその輪郭は、真夜中の空気に滲んで定まらない。色がない。煙々えんえんらの老爺が灰白色だったのとは違う——あれは煙という素材を持っていた。これは色そのものが欠落している。黒というより、光が届かない場所だった。


我の喉が鳴った。


鈴声れいせいではなく、もっと原初的な、獣の警戒音。猫の本能が、体の主導権をほとんど奪いかけた。我はそれを力で押さえつけながら、結界座けっかいざの準備を始めた。土の理——屋敷を守る層を、今より厚く。


魔力が足裏から白砂へ流れる。


庭の土が、微かに変わった。感じ取れるかどうかは人間には難しいだろうが、我には分かる。砂の粒が気を帯び、境界の意識を持ち始める。この屋敷の内側に、もう一枚、見えない膜が張られた。


それが仕上がる前に、廊下で音がした。


「玄丸」


真白ましろの声だった。夜着のまま、行燈あんどんを手に廊下に立っている。我が動いた気配を感じ取って目を覚ましたのか——あるいは彼女自身の言霊感応が、異変を先に察知したのか。


我は振り返らなかった。庭から目を離すわけにはいかない。尻尾だけを一度、鋭く立てた。来るな、という意味で。


真白が息を呑む音が聞こえた。


彼女も庭の北西の隅を見た。見えているかどうかは分からない。だが感じているはずだ——空気の質が、そこだけ違う。


「……何か、いる」


低く、抑えた声だった。


次の瞬間、廊下の奥から真澄ますみが現れた。足音がなかった。影から直接出てきたように見えた。その手には、細い木刀に似た護符が巻かれた何かが握られている。


真澄が庭の隅を見た。一秒の間があった。


「姫君、奥へ」


「でも——」


「今すぐ、でございます」


真白が下がった。行燈の光が廊下の奥へ遠ざかる。庭が、より深い暗闇になった。


我と真澄が、並んで庭の北西を見ていた。


それは動かなかった。ただそこにいた。我の結界座の膜を感じているのかもしれない——触れようとして、触れられない壁を確かめるように、その場で揺れていた。揺れ方が、虫のそれに似ていた。壁に当たっては引き、引いてはまた当たる。


「見たことがない……不気味な気配だ」と真澄が低く言った。


我も同じ結論に至っていた。


都に出る妖怪は、我がこれまでに遭遇したものも含め、すべて「ここで生まれたもの」だった。土地の気から育ったか、人の感情から生まれたか、あるいは長い年月をかけて器に魂が宿ったか。いずれも、この世界の素材でできている。


目の前のそれは、違う。


素材が違う。根拠のある確信だった——我はアルメラ魔導帝国の時代に、異界の気というものを理論として知っていた。界境かいきょうの向こうには、別の理が流れている。その理で構成された存在が、境界を越えてこちら側に出ると、こういう「色のなさ」を持つ。


記憶の片隅が、疼いた。


駄目だ。今は過去を引き出している場合ではない。


我は金のかなのりを、先ほどより少し強く使った。喉の奥から、人間には聞こえない高さの振動を放つ。それを向こうへ当てて、返ってくる波形を読む——診察の延長。


返ってきたものが、不快だった。


波が、吸い込まれた。形のない暗闇に触れた振動が、そのまま消えた。金の理は通じない。音の波を、向こうは持っていない。あるいは、音という概念そのものが向こうの理に存在しないのかもしれない。


土の理の結界は有効だった。今のところ。


されどそれがいつまで保つかは、分からない。


「動く気配はない」と真澄が言った。「しかし、じわじわと膜を押している」


我も感じていた。結界座の層が、北西の隅のその一点で、ゆっくりと圧迫されている。力任せではなく——水が低いところへ流れるように、自然な圧力として。


厄介な性質だ。


強い力に対して結界を張るのは、大きな魔力を使えばよい。だがこの種の圧力——重力のように常に存在し続けるもの——には、消耗戦になる。押し続けられれば、こちらが先に尽きる。


我は土の理の層を、もう一段厚くした。


足裏が熱を持った。魔力の消費が、猫の肉体にとって無視できない量になっている。


そのとき、廊下の奥から小さな光が来た。


点しともしびだった。提灯ちょうちんの体を揺らしながら、真澄の肩の高さほどで止まった。庭の暗闇を、橙色の光で少し照らす。向こうの存在が、その光に——


ひるんだ。


一瞬だった。体が揺れ、後退するような動きが見えた。


我は目を細めた。


火のひのり——光と熱。点し火の放つ炎の波長が、あの存在に何らかの作用をしている。普通の妖怪は炎を苦手とするものも多いが、この反応は少し違う。苦手というより——光そのものに、向こうの素材が干渉される。


有用な情報だ。


真澄が護符の巻かれた棒を、庭へ向けて掲げた。静かな動作だったが、その気が鋭く絞られた。


「……退きなさい」


言葉は穏やかだった。しかし気の圧力は穏やかではない。半妖はんようの血が持つ、人とも妖ともつかない特殊な気の質——それが護符と合わさって、屋敷の結界をひとまわり強化した。


向こうが、再び動いた。


後退だった。来た方向へ——北西の隅へ、形が薄れていく。溶けるように、あるいは霧が晴れるように、輪郭が崩れて消えた。


白砂の上に、何も残らなかった。


我は結界座を少しずつ緩めた。一気に解くと反動がある。土の理を段階的に降ろしながら、庭の気を確かめる。北西の隅の空気は、まだ少し歪んでいた。完全に消えたわけではない——あの向こうへ戻っただけだ。


点し火が、小さく光を揺らした。


「助かった」と真澄が言った。提灯の方に向けて、頭を下げるように首を傾ける。点し火が照れたように光を揺らした。


廊下の奥から、足音が来た。


「……行った?」


真白が戻ってきていた。行燈を手に、庭の隅を見ている。その目に、恐れよりも何かを測るような光があった。


「ひとまずは、でございます」と真澄が言った。「ただ、また来るかもしれません」


真白が我を見た。


我は庭を向いたまま、毛並みを整えるように体を一度震わせた。魔力の消費で肉体が重い。されど今それを悟られるのは得策ではない。我はできるだけ平静に、前脚を揃えて座り直した。


「玄丸、怪我は——猫に怪我って聞くのも変だけど」


我は真白の方へ首だけを向けた。目が合う。何も言えない。言葉がない。ただその目で、問題ない、と伝えようとした。


真白が小さく頷いた。伝わったかどうかは分からない。されど彼女は深く息を吐いて、縁側の柱に体を預けた。


「初めて見た。あれは——今まで出会ったものとは、違う」


「違うものでございます」と真澄が答えた。「この都で生まれたものでは、ない」


真白の目が、静かに細くなった。


「では、どこから」


真澄が答えなかった。


我も、今はまだ答えを持っていない。いや——持っていないのではなく、今の段階で口にすべき答えではない。この感触、この素材の違い、火の理への反応。すべてが、ある方向を指している。されどそれを確かめるには、もう少し時間が要る。


北西の空気が、まだかすかに歪んでいた。


真白が行燈の火を見つめていた。炎が、夜風もないのに少し揺れた。


点し火が廊下の柱に戻り、静かに光っていた。


夜が、長かった。

【妖怪図鑑】


■異界の侵入者いかいのしんにゅうしゃ

【分類】不明(界境外来種・推定)

【危険度】★★★☆☆(中〜高・詳細不明)

【レア度】★★★★★(極めて希少——あるいは未知)

【出現場所】界境の裂け目近辺、気の薄い場所


【特徴】

妖怪としての共通した特徴——土地の気、人の感情の残滓、長年の年月による成熟——をいずれも持たない。形は人に近いが輪郭が定まらず、色を持たない。光の届かない場所のような暗さを帯びている。音の波が通じない。接触してくる際の動き方は、意思というより自然な圧力に近い。


【得意技】

・気の圧迫:結界に対して力任せではなく、水が低い方へ流れるような継続的な圧力をかける

・波の吸収:金の理(音の波動)を吸収し、情報を遮断する


【弱点】

・炎の光(火の理)に対して何らかの干渉が生じる——詳細は観察中

・土の理による結界は、現時点では有効


【生態】

詳細不明。都で育った妖怪のような「文脈」を持たず、感情の痕跡もない。界境の裂け目から流入したと考えられるが、自発的に動いているのか、あるいは何かに引き寄せられているのかも判然としない。


【玄丸の評価】

「名前がない。正確には——この世界の言葉で名づけられるものが、まだない。名のないものは扱いにくい。陰陽の理は名によって形を定めるのに、その前提が崩れている。これがひとつだけとは思えぬ。観察を続ける必要がある」


【遭遇時の対処法】

単独での接触は避けること。金の理は通じない。炎の光が有効な可能性があるが、詳細は未検証。土の理による結界は現時点で抑止効果あり。気配を感じた場合は速やかに屋敷の者か陰陽師に知らせること。


【豆知識】

都の古い記録には「界外のもの(かいがいのもの)」という記述が断片的に存在するが、具体的な形状や性質は伝わっていない。煙々羅が語った「百年前の界境の揺れ」のときにも、同様の存在が出現していた可能性がある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ