第百九話「異界の魔物」
真夜中を少し過ぎた頃、屋敷の気が裂けた。
裂けた、というのは我の感覚だ。正確には——それまで均一に張っていた気の膜に、急に薄い箇所が生じた。指で布を突いたときのように、そこだけが沈み込む感触。我は縁側の奥で丸まっていたが、毛並みが一斉に逆立つのを止められなかった。
起き上がった。
庭の北西の隅——松の根元に近い白砂の上——に、それはいた。
形を持っていた。だがその形が、我の知っているいかなる妖怪とも異なっていた。妖怪というものは長い年月をかけて人の傍らで育まれる。その気には必ず、人の感情の残滓が混じっている——恐れ、懐かしさ、愛着、あるいは怨み。だがそれには、そういったものが何もなかった。
ただの力だった。
形は人に近かった。立っている。腕がある。だがその輪郭は、真夜中の空気に滲んで定まらない。色がない。煙々羅の老爺が灰白色だったのとは違う——あれは煙という素材を持っていた。これは色そのものが欠落している。黒というより、光が届かない場所だった。
我の喉が鳴った。
鈴声ではなく、もっと原初的な、獣の警戒音。猫の本能が、体の主導権をほとんど奪いかけた。我はそれを力で押さえつけながら、結界座の準備を始めた。土の理——屋敷を守る層を、今より厚く。
魔力が足裏から白砂へ流れる。
庭の土が、微かに変わった。感じ取れるかどうかは人間には難しいだろうが、我には分かる。砂の粒が気を帯び、境界の意識を持ち始める。この屋敷の内側に、もう一枚、見えない膜が張られた。
それが仕上がる前に、廊下で音がした。
「玄丸」
真白の声だった。夜着のまま、行燈を手に廊下に立っている。我が動いた気配を感じ取って目を覚ましたのか——あるいは彼女自身の言霊感応が、異変を先に察知したのか。
我は振り返らなかった。庭から目を離すわけにはいかない。尻尾だけを一度、鋭く立てた。来るな、という意味で。
真白が息を呑む音が聞こえた。
彼女も庭の北西の隅を見た。見えているかどうかは分からない。だが感じているはずだ——空気の質が、そこだけ違う。
「……何か、いる」
低く、抑えた声だった。
次の瞬間、廊下の奥から真澄が現れた。足音がなかった。影から直接出てきたように見えた。その手には、細い木刀に似た護符が巻かれた何かが握られている。
真澄が庭の隅を見た。一秒の間があった。
「姫君、奥へ」
「でも——」
「今すぐ、でございます」
真白が下がった。行燈の光が廊下の奥へ遠ざかる。庭が、より深い暗闇になった。
我と真澄が、並んで庭の北西を見ていた。
それは動かなかった。ただそこにいた。我の結界座の膜を感じているのかもしれない——触れようとして、触れられない壁を確かめるように、その場で揺れていた。揺れ方が、虫のそれに似ていた。壁に当たっては引き、引いてはまた当たる。
「見たことがない……不気味な気配だ」と真澄が低く言った。
我も同じ結論に至っていた。
都に出る妖怪は、我がこれまでに遭遇したものも含め、すべて「ここで生まれたもの」だった。土地の気から育ったか、人の感情から生まれたか、あるいは長い年月をかけて器に魂が宿ったか。いずれも、この世界の素材でできている。
目の前のそれは、違う。
素材が違う。根拠のある確信だった——我はアルメラ魔導帝国の時代に、異界の気というものを理論として知っていた。界境の向こうには、別の理が流れている。その理で構成された存在が、境界を越えてこちら側に出ると、こういう「色のなさ」を持つ。
記憶の片隅が、疼いた。
駄目だ。今は過去を引き出している場合ではない。
我は金の理を、先ほどより少し強く使った。喉の奥から、人間には聞こえない高さの振動を放つ。それを向こうへ当てて、返ってくる波形を読む——診察の延長。
返ってきたものが、不快だった。
波が、吸い込まれた。形のない暗闇に触れた振動が、そのまま消えた。金の理は通じない。音の波を、向こうは持っていない。あるいは、音という概念そのものが向こうの理に存在しないのかもしれない。
土の理の結界は有効だった。今のところ。
されどそれがいつまで保つかは、分からない。
「動く気配はない」と真澄が言った。「しかし、じわじわと膜を押している」
我も感じていた。結界座の層が、北西の隅のその一点で、ゆっくりと圧迫されている。力任せではなく——水が低いところへ流れるように、自然な圧力として。
厄介な性質だ。
強い力に対して結界を張るのは、大きな魔力を使えばよい。だがこの種の圧力——重力のように常に存在し続けるもの——には、消耗戦になる。押し続けられれば、こちらが先に尽きる。
我は土の理の層を、もう一段厚くした。
足裏が熱を持った。魔力の消費が、猫の肉体にとって無視できない量になっている。
そのとき、廊下の奥から小さな光が来た。
点し火だった。提灯の体を揺らしながら、真澄の肩の高さほどで止まった。庭の暗闇を、橙色の光で少し照らす。向こうの存在が、その光に——
ひるんだ。
一瞬だった。体が揺れ、後退するような動きが見えた。
我は目を細めた。
火の理——光と熱。点し火の放つ炎の波長が、あの存在に何らかの作用をしている。普通の妖怪は炎を苦手とするものも多いが、この反応は少し違う。苦手というより——光そのものに、向こうの素材が干渉される。
有用な情報だ。
真澄が護符の巻かれた棒を、庭へ向けて掲げた。静かな動作だったが、その気が鋭く絞られた。
「……退きなさい」
言葉は穏やかだった。しかし気の圧力は穏やかではない。半妖の血が持つ、人とも妖ともつかない特殊な気の質——それが護符と合わさって、屋敷の結界をひとまわり強化した。
向こうが、再び動いた。
後退だった。来た方向へ——北西の隅へ、形が薄れていく。溶けるように、あるいは霧が晴れるように、輪郭が崩れて消えた。
白砂の上に、何も残らなかった。
我は結界座を少しずつ緩めた。一気に解くと反動がある。土の理を段階的に降ろしながら、庭の気を確かめる。北西の隅の空気は、まだ少し歪んでいた。完全に消えたわけではない——あの向こうへ戻っただけだ。
点し火が、小さく光を揺らした。
「助かった」と真澄が言った。提灯の方に向けて、頭を下げるように首を傾ける。点し火が照れたように光を揺らした。
廊下の奥から、足音が来た。
「……行った?」
真白が戻ってきていた。行燈を手に、庭の隅を見ている。その目に、恐れよりも何かを測るような光があった。
「ひとまずは、でございます」と真澄が言った。「ただ、また来るかもしれません」
真白が我を見た。
我は庭を向いたまま、毛並みを整えるように体を一度震わせた。魔力の消費で肉体が重い。されど今それを悟られるのは得策ではない。我はできるだけ平静に、前脚を揃えて座り直した。
「玄丸、怪我は——猫に怪我って聞くのも変だけど」
我は真白の方へ首だけを向けた。目が合う。何も言えない。言葉がない。ただその目で、問題ない、と伝えようとした。
真白が小さく頷いた。伝わったかどうかは分からない。されど彼女は深く息を吐いて、縁側の柱に体を預けた。
「初めて見た。あれは——今まで出会ったものとは、違う」
「違うものでございます」と真澄が答えた。「この都で生まれたものでは、ない」
真白の目が、静かに細くなった。
「では、どこから」
真澄が答えなかった。
我も、今はまだ答えを持っていない。いや——持っていないのではなく、今の段階で口にすべき答えではない。この感触、この素材の違い、火の理への反応。すべてが、ある方向を指している。されどそれを確かめるには、もう少し時間が要る。
北西の空気が、まだかすかに歪んでいた。
真白が行燈の火を見つめていた。炎が、夜風もないのに少し揺れた。
点し火が廊下の柱に戻り、静かに光っていた。
夜が、長かった。
【妖怪図鑑】
■異界の侵入者
【分類】不明(界境外来種・推定)
【危険度】★★★☆☆(中〜高・詳細不明)
【レア度】★★★★★(極めて希少——あるいは未知)
【出現場所】界境の裂け目近辺、気の薄い場所
【特徴】
妖怪としての共通した特徴——土地の気、人の感情の残滓、長年の年月による成熟——をいずれも持たない。形は人に近いが輪郭が定まらず、色を持たない。光の届かない場所のような暗さを帯びている。音の波が通じない。接触してくる際の動き方は、意思というより自然な圧力に近い。
【得意技】
・気の圧迫:結界に対して力任せではなく、水が低い方へ流れるような継続的な圧力をかける
・波の吸収:金の理(音の波動)を吸収し、情報を遮断する
【弱点】
・炎の光(火の理)に対して何らかの干渉が生じる——詳細は観察中
・土の理による結界は、現時点では有効
【生態】
詳細不明。都で育った妖怪のような「文脈」を持たず、感情の痕跡もない。界境の裂け目から流入したと考えられるが、自発的に動いているのか、あるいは何かに引き寄せられているのかも判然としない。
【玄丸の評価】
「名前がない。正確には——この世界の言葉で名づけられるものが、まだない。名のないものは扱いにくい。陰陽の理は名によって形を定めるのに、その前提が崩れている。これがひとつだけとは思えぬ。観察を続ける必要がある」
【遭遇時の対処法】
単独での接触は避けること。金の理は通じない。炎の光が有効な可能性があるが、詳細は未検証。土の理による結界は現時点で抑止効果あり。気配を感じた場合は速やかに屋敷の者か陰陽師に知らせること。
【豆知識】
都の古い記録には「界外のもの(かいがいのもの)」という記述が断片的に存在するが、具体的な形状や性質は伝わっていない。煙々羅が語った「百年前の界境の揺れ」のときにも、同様の存在が出現していた可能性がある。




