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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第五章:界境の綻び

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第百八話「煙々羅の記憶」

煙が、門をくぐった。


それが最初の印象だった。夕刻前の薄明のなか、開け放した表門の向こうから、灰白色のもやがゆるゆると敷地に入ってきた。風はなかった。にもかかわらず、その靄は方向を持っていた——庭の中央へ向かって、迷いなく流れてくる。


我は縁側から庭を見ていた。


前脚を揃えて座ったまま、その靄の動きを追う。敵意はない。悪意も感じない。だが何かを持っている——時間の重みとでも言うべき、古いものが滲んでいた。


もやが庭の中ほどで止まった。


白砂の上に、ゆっくりと形が生まれた。煙が集まり、薄く重なり、人の輪郭を作る。老爺ろうやの姿だった。ただし体の縁が定まらず、絶えず煙が溶け出しては戻る。顔の造作は分かるが、目鼻の細部は霞んで見えない。煙々えんえんら——煙が長い年月をかけて意思を持ち、形を得た存在。


「久しいのう」


低い、しかし柔らかな声だった。


我に向けて言っているのかどうか、判断が難しかった。我の周囲に向けて言っているようでもあり、あるいはこの屋敷そのものに話しかけているようでもあった。


廊下の奥から足音がした。


真白ましろが庭に出てきた。庭師の仕事が終わった頃合いを見て散策していたのかもしれない。庭に立つ靄の姿を見て、真白は立ち止まった。


「……どなたですか」


「怖くはないよ」と老爺の形をした煙が言った。「ただ通りがかっただけじゃ。この屋敷の気が懐かしゅうてな」


「懐かしい?」


「昔ここに来たことがある。ずいぶん昔のことじゃが」


真白が我を見た。我は白砂の向こうの老爺を見ている。尻尾を一度だけ動かした——危険ではない、という合図のつもりだった。真白がそれを読んでくれたかどうかは分からないが、彼女は足を進めて縁側の端に腰を下ろした。


「この屋敷に、来たことが?」


「藤原の家が、今の北山にお屋敷を建てたのはいつじゃったかな。百年と少し前かの」


「……それほど前から、あなたは」


「煙はな、長生きじゃ」と老爺は言った。「人の家のかまどの煙から生まれてな、都中を漂いながら、色々なものを見てきた」


我は縁側から庭へと降りた。白砂を踏む肉球の感触。老爺の形をした煙の前に、三歩ほどの距離で座る。


煙々羅の目——あると思しき場所——が、我の方へ向いた。


「おや」と老爺が言った。「この猫は、普通の猫ではないな」


「よく言われます」と真白が言った。穏やかに、だが確かな誇りを持って。


「ふむ。気の形が違う。猫の気でありながら、猫の気でない。二枚重ねの気——いや、もっと正確に言えば、別の器に入れた水のようなものか」


我は動かなかった。ただ老爺を見上げていた。


この老爺は、危険ではないと先ほど判断した。その判断は変えない。しかし——こうも透けて見られると、尻尾の一本も立てたくなる。我は辛うじてそれを堪えた。あからさまな反応は、情報を与える。


「百年前、この屋敷に来たとき——」と老爺が言った。「界境かいきょうが、少しだけ揺れていた」


真白の気配が変わった。我には分かる。姫が身を乗り出している。


「今と同じように?」


「似ておるが、同じではない。あのときは、揺れたかと思えば静まった。波が来て、引いていくように。じゃが今回はどうも——」


老爺の輪郭が、少しだけ揺れた。煙が広がり、また集まる。


「引かぬような気がしての。それが気になって、足を向けた」


我は喉の奥でごく微かな振動を起こした。


金のかなのり——鈴声れいせい。相手の気の波を確かめる、診察のような使い方。老爺の内部に残っている記憶の層を測る。百年分の観測。都を漂い続けた目。それは陰陽寮の測定盤とも、妖怪の直感とも異なる種類の情報だった。


「百年前の揺れは、何が原因でしたか」


真白の問いに、老爺は少し間を置いた。


「はっきりとは分からぬよ。界境というものは、いつもひっそりと揺れておる。人には見えぬだけでな。じゃがあのときは、揺れ方が荒かった。北の方角から、何かが押してくるような感じじゃった」


「北……」


「今も北西から来ておるだろう? あそこは昔から、界境が薄い場所じゃ」


我の耳が、ぴくりと動いた。


北西——我が何度も気を向けた方角。真白も夕暮れ時にそこからの変化を感じると言った。陰陽寮が裂け目を確認した三点のうちの一つ。そしてこの老爺も、百年前にそこから何かが来たと言っている。


「百年前は、どうなったのですか」と真白が重ねて問うた。


「静まった、と言うたじゃろ。ただ——」


老爺の形が、今度はより大きく揺れた。煙が風もないのにざわめく。


「静まる前に、ひとつだけ変わったことがあった。界境の揺れが激しかった時期に、都のあちこちで妖怪が落ち着かなくなった。普段は出ない場所に出た。普段は来ない屋敷に来た。みな何かを避けるように動いておった」


我は老爺の言葉を、噛み砕きながら聞いた。


今も同じことが起きている——そう言っているに等しい。ぬえが訴えた不安。火車かしゃの来訪と警告。ぬらりひょんの情報網が屋敷に向けられていること。そして煙々羅がこうして足を向けたこと。


妖怪たちは、我より早く変化を察知している。


「あなたは今も、都を漂っているのですか」と真白が訊いた。


「そうじゃ。竈の煙が上がる場所があれば、そこを住処にしておる。じゃが最近は、煙の上がる場所が少なくなった気がしての」


「……都が変わっているのですね」


「人の暮らしは変わる。我らも変わる。じゃが界境の在り方だけは、なかなか変わらぬ」


老爺が、再び我を見た。


「その猫が、ここにおるのは——偶然ではないだろうな」


我は目を細めた。


答えない。答えられない。答える口を、この肉体は持たない。されどこの老爺は、答えを求めて言っているわけでもない。老木が幹に手を当てて年輪を読むように、ただ確かめている。


廊下に提灯ちょうちんの光が灯った。


点しともしびが、するすると廊下の柱を移動してきた。老爺の姿を見て、一度止まってから——光を少し揺らした。挨拶のようなものかもしれない。老爺も気づいたらしく、煙の輪郭がわずかに和らいだ。


「この屋敷には、色々おるのう」


「気づいたら、こうなっていました」と真白が少し苦笑いで言った。


「よい屋敷じゃ。昔もそうじゃったが、今もそうじゃ」


老爺の形が、ゆっくりと薄くなり始めた。夕刻の空気に煙が溶けていく。


「もし以前の界境の揺れについて、もう少し詳しく——」


「また来るよ」と老爺は言った。「煙には帰る場所がないのでな、また通りかかる」


それだけを残して、老爺の形は霧散した。


白砂の上には何も残らなかった。煙の匂いだけが、しばらく庭に漂っていた。


真白が我の隣に座り、庭を眺めた。


「百年前も、同じようなことがあったのね」


我は白砂の先を見ていた。北西の空は、夕焼けの始まりで薄く赤みを帯びていた。


百年前の揺れと今の揺れが、同じ原因から来ているとは限らない。されど同じ方角から来ているとすれば——永劫炉えいごうろの残滓が、百年かけてようやくここまで届いた、ということになる。あるいは、界境の薄い場所を縫って、もっと遠い昔から種が撒かれていた。


そこまで考えて、我は思考を止めた。


今日のところは、まだ分からぬことが多すぎる。


分かることだけを数える。煙々羅は百年前から都を見ている。そして今回の揺れを「引かない」と感じている。妖怪たちの動きは、测定盤より早く変化を捉えている。昨日来た晴元は、屋敷の気が保たれていることを指摘した。


守られている。この場所は、何かによって。


我は前脚を揃え直した。


真白の手が、我の背に軽く触れた。その温かさを感じながら、我は庭の白砂へ目を戻した。松の影が伸びきって、北西の方角を指している。


煙の匂いは、夜が来るまで残っていた。

【妖怪図鑑】


■煙々えんえんら

【分類】煙妖怪・付喪神近縁種

【危険度】★☆☆☆☆(低)

【レア度】★★★★☆(希少)

【出現場所】竈のある家屋の周辺、古い都の路地、煙の多い場所


【特徴】

長年にわたって竈や篝火かがりびから立ち上った煙が意思を持ち、人の形を取るようになった存在。明確な実体を持たず、常に輪郭が揺れて定まらない。体を持たないため、壁や門を難なく通り抜ける。危害を加える性質は持たず、ただ漂い、見聞きしたことを記憶する。


【得意技】

・記憶の保持:長い年月にわたって観察した出来事を、煙の中に保存している

・気の読み取り:煙が空気に溶けるように、周囲の気の流れを敏感に感じ取る

遍在へんざい:煙として都中に広がり、様々な場所の気配を同時に察知できる


【弱点】

・強風には弱く、形を保てなくなる

・水気の多い場所では密度が薄れ、言葉を発しにくくなる

・非常に古い存在のため、気まぐれで現れる時期が読めない


【生態】

特定の住処を持たず、竈の煙が上がる場所を転々とする。百年以上生きているものも珍しくなく、都の歴史を断片的に記憶している。人を怖がらせる意思はないが、突然現れるため誤解されることが多い。他の妖怪とは淡白な付き合いをする傾向があり、深くは関わらないが、気になる場所には何度でも訪れる。


【玄丸の評価】

「長命であることと、賢明であることは別の話だ。されど、あの老爺が百年かけて集めた観察の量は侮れぬ。陰陽寮の書庫にも記されていない時代の記録を、煙の中に持っている。次に来たとき、もう少し問いを引き出せればよいが——何しろ気まぐれなのが難点だ」


【遭遇時の対処法】

慌てず、煙を払おうとしないこと。火で脅かすと怒り、煙が増える。穏やかに話しかければ、過去の記憶を語ってくれることがある。ただし問いへの答えは遠回りで、核心に触れるまでに忍耐が要る。


【豆知識】

煙々羅は特定の一匹というわけではなく、各地の竈から別々に生まれた個体が複数いるとされる。しかし長命のものはそれぞれが広い範囲を漂うため、出会った煙々羅が同一個体かどうかを確かめる手立ては、今のところない。

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