第百八話「煙々羅の記憶」
煙が、門をくぐった。
それが最初の印象だった。夕刻前の薄明のなか、開け放した表門の向こうから、灰白色の靄がゆるゆると敷地に入ってきた。風はなかった。にもかかわらず、その靄は方向を持っていた——庭の中央へ向かって、迷いなく流れてくる。
我は縁側から庭を見ていた。
前脚を揃えて座ったまま、その靄の動きを追う。敵意はない。悪意も感じない。だが何かを持っている——時間の重みとでも言うべき、古いものが滲んでいた。
靄が庭の中ほどで止まった。
白砂の上に、ゆっくりと形が生まれた。煙が集まり、薄く重なり、人の輪郭を作る。老爺の姿だった。ただし体の縁が定まらず、絶えず煙が溶け出しては戻る。顔の造作は分かるが、目鼻の細部は霞んで見えない。煙々羅——煙が長い年月をかけて意思を持ち、形を得た存在。
「久しいのう」
低い、しかし柔らかな声だった。
我に向けて言っているのかどうか、判断が難しかった。我の周囲に向けて言っているようでもあり、あるいはこの屋敷そのものに話しかけているようでもあった。
廊下の奥から足音がした。
真白が庭に出てきた。庭師の仕事が終わった頃合いを見て散策していたのかもしれない。庭に立つ靄の姿を見て、真白は立ち止まった。
「……どなたですか」
「怖くはないよ」と老爺の形をした煙が言った。「ただ通りがかっただけじゃ。この屋敷の気が懐かしゅうてな」
「懐かしい?」
「昔ここに来たことがある。ずいぶん昔のことじゃが」
真白が我を見た。我は白砂の向こうの老爺を見ている。尻尾を一度だけ動かした——危険ではない、という合図のつもりだった。真白がそれを読んでくれたかどうかは分からないが、彼女は足を進めて縁側の端に腰を下ろした。
「この屋敷に、来たことが?」
「藤原の家が、今の北山にお屋敷を建てたのはいつじゃったかな。百年と少し前かの」
「……それほど前から、あなたは」
「煙はな、長生きじゃ」と老爺は言った。「人の家の竈の煙から生まれてな、都中を漂いながら、色々なものを見てきた」
我は縁側から庭へと降りた。白砂を踏む肉球の感触。老爺の形をした煙の前に、三歩ほどの距離で座る。
煙々羅の目——あると思しき場所——が、我の方へ向いた。
「おや」と老爺が言った。「この猫は、普通の猫ではないな」
「よく言われます」と真白が言った。穏やかに、だが確かな誇りを持って。
「ふむ。気の形が違う。猫の気でありながら、猫の気でない。二枚重ねの気——いや、もっと正確に言えば、別の器に入れた水のようなものか」
我は動かなかった。ただ老爺を見上げていた。
この老爺は、危険ではないと先ほど判断した。その判断は変えない。しかし——こうも透けて見られると、尻尾の一本も立てたくなる。我は辛うじてそれを堪えた。あからさまな反応は、情報を与える。
「百年前、この屋敷に来たとき——」と老爺が言った。「界境が、少しだけ揺れていた」
真白の気配が変わった。我には分かる。姫が身を乗り出している。
「今と同じように?」
「似ておるが、同じではない。あのときは、揺れたかと思えば静まった。波が来て、引いていくように。じゃが今回はどうも——」
老爺の輪郭が、少しだけ揺れた。煙が広がり、また集まる。
「引かぬような気がしての。それが気になって、足を向けた」
我は喉の奥でごく微かな振動を起こした。
金の理——鈴声。相手の気の波を確かめる、診察のような使い方。老爺の内部に残っている記憶の層を測る。百年分の観測。都を漂い続けた目。それは陰陽寮の測定盤とも、妖怪の直感とも異なる種類の情報だった。
「百年前の揺れは、何が原因でしたか」
真白の問いに、老爺は少し間を置いた。
「はっきりとは分からぬよ。界境というものは、いつもひっそりと揺れておる。人には見えぬだけでな。じゃがあのときは、揺れ方が荒かった。北の方角から、何かが押してくるような感じじゃった」
「北……」
「今も北西から来ておるだろう? あそこは昔から、界境が薄い場所じゃ」
我の耳が、ぴくりと動いた。
北西——我が何度も気を向けた方角。真白も夕暮れ時にそこからの変化を感じると言った。陰陽寮が裂け目を確認した三点のうちの一つ。そしてこの老爺も、百年前にそこから何かが来たと言っている。
「百年前は、どうなったのですか」と真白が重ねて問うた。
「静まった、と言うたじゃろ。ただ——」
老爺の形が、今度はより大きく揺れた。煙が風もないのにざわめく。
「静まる前に、ひとつだけ変わったことがあった。界境の揺れが激しかった時期に、都のあちこちで妖怪が落ち着かなくなった。普段は出ない場所に出た。普段は来ない屋敷に来た。みな何かを避けるように動いておった」
我は老爺の言葉を、噛み砕きながら聞いた。
今も同じことが起きている——そう言っているに等しい。ぬえが訴えた不安。火車の来訪と警告。ぬらりひょんの情報網が屋敷に向けられていること。そして煙々羅がこうして足を向けたこと。
妖怪たちは、我より早く変化を察知している。
「あなたは今も、都を漂っているのですか」と真白が訊いた。
「そうじゃ。竈の煙が上がる場所があれば、そこを住処にしておる。じゃが最近は、煙の上がる場所が少なくなった気がしての」
「……都が変わっているのですね」
「人の暮らしは変わる。我らも変わる。じゃが界境の在り方だけは、なかなか変わらぬ」
老爺が、再び我を見た。
「その猫が、ここにおるのは——偶然ではないだろうな」
我は目を細めた。
答えない。答えられない。答える口を、この肉体は持たない。されどこの老爺は、答えを求めて言っているわけでもない。老木が幹に手を当てて年輪を読むように、ただ確かめている。
廊下に提灯の光が灯った。
点し火が、するすると廊下の柱を移動してきた。老爺の姿を見て、一度止まってから——光を少し揺らした。挨拶のようなものかもしれない。老爺も気づいたらしく、煙の輪郭がわずかに和らいだ。
「この屋敷には、色々おるのう」
「気づいたら、こうなっていました」と真白が少し苦笑いで言った。
「よい屋敷じゃ。昔もそうじゃったが、今もそうじゃ」
老爺の形が、ゆっくりと薄くなり始めた。夕刻の空気に煙が溶けていく。
「もし以前の界境の揺れについて、もう少し詳しく——」
「また来るよ」と老爺は言った。「煙には帰る場所がないのでな、また通りかかる」
それだけを残して、老爺の形は霧散した。
白砂の上には何も残らなかった。煙の匂いだけが、しばらく庭に漂っていた。
真白が我の隣に座り、庭を眺めた。
「百年前も、同じようなことがあったのね」
我は白砂の先を見ていた。北西の空は、夕焼けの始まりで薄く赤みを帯びていた。
百年前の揺れと今の揺れが、同じ原因から来ているとは限らない。されど同じ方角から来ているとすれば——永劫炉の残滓が、百年かけてようやくここまで届いた、ということになる。あるいは、界境の薄い場所を縫って、もっと遠い昔から種が撒かれていた。
そこまで考えて、我は思考を止めた。
今日のところは、まだ分からぬことが多すぎる。
分かることだけを数える。煙々羅は百年前から都を見ている。そして今回の揺れを「引かない」と感じている。妖怪たちの動きは、测定盤より早く変化を捉えている。昨日来た晴元は、屋敷の気が保たれていることを指摘した。
守られている。この場所は、何かによって。
我は前脚を揃え直した。
真白の手が、我の背に軽く触れた。その温かさを感じながら、我は庭の白砂へ目を戻した。松の影が伸びきって、北西の方角を指している。
煙の匂いは、夜が来るまで残っていた。
【妖怪図鑑】
■煙々羅
【分類】煙妖怪・付喪神近縁種
【危険度】★☆☆☆☆(低)
【レア度】★★★★☆(希少)
【出現場所】竈のある家屋の周辺、古い都の路地、煙の多い場所
【特徴】
長年にわたって竈や篝火から立ち上った煙が意思を持ち、人の形を取るようになった存在。明確な実体を持たず、常に輪郭が揺れて定まらない。体を持たないため、壁や門を難なく通り抜ける。危害を加える性質は持たず、ただ漂い、見聞きしたことを記憶する。
【得意技】
・記憶の保持:長い年月にわたって観察した出来事を、煙の中に保存している
・気の読み取り:煙が空気に溶けるように、周囲の気の流れを敏感に感じ取る
・遍在:煙として都中に広がり、様々な場所の気配を同時に察知できる
【弱点】
・強風には弱く、形を保てなくなる
・水気の多い場所では密度が薄れ、言葉を発しにくくなる
・非常に古い存在のため、気まぐれで現れる時期が読めない
【生態】
特定の住処を持たず、竈の煙が上がる場所を転々とする。百年以上生きているものも珍しくなく、都の歴史を断片的に記憶している。人を怖がらせる意思はないが、突然現れるため誤解されることが多い。他の妖怪とは淡白な付き合いをする傾向があり、深くは関わらないが、気になる場所には何度でも訪れる。
【玄丸の評価】
「長命であることと、賢明であることは別の話だ。されど、あの老爺が百年かけて集めた観察の量は侮れぬ。陰陽寮の書庫にも記されていない時代の記録を、煙の中に持っている。次に来たとき、もう少し問いを引き出せればよいが——何しろ気まぐれなのが難点だ」
【遭遇時の対処法】
慌てず、煙を払おうとしないこと。火で脅かすと怒り、煙が増える。穏やかに話しかければ、過去の記憶を語ってくれることがある。ただし問いへの答えは遠回りで、核心に触れるまでに忍耐が要る。
【豆知識】
煙々羅は特定の一匹というわけではなく、各地の竈から別々に生まれた個体が複数いるとされる。しかし長命のものはそれぞれが広い範囲を漂うため、出会った煙々羅が同一個体かどうかを確かめる手立ては、今のところない。




