第百七話「安倍晴元の来訪」
縁側の端に陽だまりがあった。
初秋の光はまだ力を残していたが、その熱はすでに夏の頃とは質が違う。白砂の庭を照らす光は斜めに傾き、松の影が細く長く伸びていた。我はその影の境目に前脚を揃えて座り、北西の空気を測っていた。昨夜から気の流れが微かに変わっている。揺れというほどでもない、されど静止とも言いがたい——あの方角は常に、我に何かを問うてくる。
尻尾の先が一度だけ動いた。
廊下の奥から足音がふたつ聞こえてきたのは、そのときだった。
実俊の足音は我にはもう馴染みのものだ。急かず遅からず、理詰めの人間らしく均等な間隔を刻む。だがその後ろに続く足音が、まったく異なる性質を持っていた。音が少ない。体格のある人間が歩いているはずなのに、廊下の板がほとんど鳴らない。重さを気の中に均した歩き方——陰陽道の熟練者に特有の、重心の制御だ。
「こちらでございます、長官」
実俊の声に、我の耳がぴくりと立つ。
真白は母君の様子を見に奥へ入っていた。その間に来客があったとすれば、まずは実俊が案内する形になるのは自然だ。真澄の気配も、屋敷の隅のどこかに薄く漂っている。この来訪を、おそらく彼は先に察知していた。
「広い屋敷だ。落ち着いた気を持っている」
老いた声だった。渋みというより、時間そのものが声に沈殿したような、密度のある響き。
縁側に現れた人物を、我は正面から見た。
安倍晴元(あべ の はるもと)——陰陽寮の長官。実俊の師にして、都の気の乱れを正式に調査すると告げた人物。齢は六十を超えているだろうか、白い眉が濃く、目は細い。だがその奥にある視線の鋭さは、眉の白さとはまるで釣り合っていない。若い。眼だけが、時間の重さを全く受けていない。
その眼が、真っ直ぐ我を見た。
「おや」
一言だった。それだけだった。
されど我には、その「おや」の中に含まれた情報量が、実俊の長い報告書一枚分に相当すると分かった。驚きではない。確認でもない。むしろ——答え合わせ、とでも言うべき間合い。
我は動かなかった。ただ座って、その視線を受け続けた。
猫として自然な振る舞いをするなら、今ここで興味なさそうに欠伸でもすべきところだ。あるいは顔を背けて毛繕いを始めるか。だが我の毛並みはひとつも動かず、尻尾さえ静止した。理の使い手が相手のとき——特に、こちらの構造を読み取ろうとする目を持つ者が相手のとき——我は無意識に、魔力を最小限に抑える。
晴元が縁側に腰を下ろした。正式な来訪とは思えぬ無遠慮さだったが、実俊はそれを咎めなかった。師のこういう気まぐれに慣れているのかもしれぬ。
「藤原殿の黒猫か」
「左様です。ずいぶん前からこちらに」
「人を見る目をしているな」
実俊が少し言葉に詰まった気配があった。
「猫ではございますが——確かに、この猫は」
「実俊。お前が言葉に詰まるのは珍しい」
晴元は我から視線を外さずに言った。
「この一月、お前が陰陽寮の禁書庫に連夜籠もり、古の術式を漁っていたことは承知しておる。理屈一辺倒であったお前が、泥を啜るような思いで実戦の法を学び直したのは、その猫への対抗心か。あるいは、姫君を守らんとする執念か」
実俊がわずかに肩を揺らし、深く頭を下げた。
「……我が未熟を知ったまででございます」
手には折り畳んだ文書らしき紙が一枚。縁側の板の上にそれを置き、ただ我を見ている。学者が珍しい鉱石を前にするような目、ではなかった。もっと慎重だ——こちらが何者であるかを、言葉にする前にすでに考えている者の目だ。
我の喉の奥で、ごく微かな振動が起きた。
鈴声——金の理。音の波が、相手の気の輪郭を読み取ろうとする。術と呼べるほど大きなものではない、ただの試み。しかし晴元の気の輪郭は読みにくかった。長年の修練で内側を整えた人間というものは、こういう壁を持つ。澄んだ水は底まで見えるようで、実は光を散らして深さを隠す。
「界境の裂け目ですが」
実俊が話を引き戻そうとした。
「うむ。それは屋敷の者にも伝えておかねばならん。が——」
晴元が初めて我から目を離し、庭の松を眺めた。
「まず聞いておきたいことがある。この猫は、いつ頃からここにいる」
「三年ほど前かと。姫君が野良として拾われ——」
「三年」
短く繰り返してから、晴元はもう一度我を見た。
「飢えていたと、聞いた」
実俊が答えた覚えがないはずの情報だ。では誰かから——あるいは晴元自身が何らかの形で調べていた。我は前脚の位置をわずかに動かした。座り直す、という猫としてごく自然な動作。だが内心では、この老人の情報収集の範囲を測っていた。
「飢えた猫が、三年で屋敷の気を安定させる」
「……長官?」
「いや。陰陽師が言霊を使って整えても、三年でこの質の気にはならぬ。この庭の土は、何者かが丁寧に整え続けたものだ」
実俊が我を見た。困惑と、確信の両方を持った目だった。
晴元は縁側に置いた紙を開いた。
「実俊よ。北宋の術書に、こういう記録がある。かつて唐の時代、都に猫の姿をした霊が現れたことがある。言葉は持たぬが、その周囲の怨霊は静まり、疫病は収まった。正体は不明のままだったが、高僧がひとつだけ記録を残した」
我は動かなかった。
「なんと残したのですか」
「『これは猫にあらず。しかと名指さば、去るかもしれぬ』——と」
間があった。
庭の松が風に揺れた。その風の流れを、我の毛先が感じ取った。木の理の微かな脈動。北西からではなく、屋敷の内側から来る、おだやかな流れ。
廊下の向こうから、着物の衣擦れの音がした。
「晴元様」
真白の声だった。
我は首だけをそちらへ向けた。白い小袿に袖を通した真白が、廊下に立っていた。母君の様子を見てきた帰りだろう、その目にはまだ奥の座敷の静けさが残っている。
晴元が立ち上がり、深く頭を下げた。
「これは、藤原の姫君。このたびは突然お邪魔して、失礼を」
「いいえ。長官にお越しいただけるとは、光栄でございます」
真白は晴元を縁側へ招きながら、我の頭に手を置いた。いつもの手だ。温かく、少し乾いていて、何も言わずに我の存在を確かめる手。我はその手の下でじっとしていた。
晴元の視線が、真白の手と我の間を往復するのが分かった。
「姫君は、この猫をずっとそばに置かれているそうで」
「ええ。玄丸は——家族のようなものですから」
何気ない言葉だったはずだ。されど晴元の目の奥で何かが動いた。学者が答えに近づいたときの、あの静かな昂ぶり。
「お名前は、玄丸と」
「はい」
「よいお名前だ」
それだけ言って、晴元は庭へ目を戻した。
我の喉の奥で、また微かな振動があった。今度は鈴声ではなく——結界座の、土の理。術ではない。本能に近い、身を固める反応。この老人は、我が名を持つことを——単なる屋敷の猫に名があることを——どう受け取った。
言葉を選んでいる、と我には見えた。
「界境の件ですが」と晴元が改めて口を開いた。「昨日の測定で、裂け目の位置が少し動いた。北西の点が、わずかに東へ寄った」
実俊が手にしていた文書を開いた。
「それは——移動しているということですか?」
「あるいは、広がる方向が変わった。どちらとも言いきれぬが、固定された傷ではないということだ」
真澄が廊下に現れたのは、そのときだった。足音もなく、影のように。
「真澄」と真白が言った。
「……長官のご報告、伺っておりました」
晴元が真澄を見た。真澄が晴元を見た。その間に、我には読めない何かが行き来した。陰陽師の長官と、半妖の家令。互いの気の輪郭を確かめるような、一瞬の沈黙。
「お前の気配は、普通の家令ではないな」
「……過分なお言葉でございます」
晴元が小さく笑った。
「そうか」
それだけで、真澄への問いは閉じた。晴元という人は、確かめたことを必ずしも口に出すつもりがない。知ることと、語ることの間に、長い時間をかけて自分なりの距離を設けた人間だ——そう、我には見えた。
「裂け目の件は、陰陽寮として引き続き観測する。ただ」
晴元が再び我を見た。
「この屋敷には、なにゆえか界境の乱れが入ってこない。北西のすぐ近くにあるにもかかわらず」
「……」と実俊が黙った。
「不思議なことだ」
晴元は立ち上がり、庭に向かって軽く手を合わせた。それから我を最後にもう一度だけ見て——ただそれだけで、それ以上を口にしなかった。
「では今日のところはこれで。実俊、戻るぞ」
「は。——ご挨拶を」
真白が深く頭を下げた。真澄がその傍らに控えた。我は縁側の端に座ったまま、晴元の背中が廊下の角を曲がるまでを目で追った。
足音は、来たときと変わらず軽かった。重さを気の中に均した、修練の歩き方。
「不思議な方ね」
真白が呟いた。
我は答えなかった。尻尾の先が、一度だけ揺れた。
あの老人は、我の正体を問わなかった。それは知らないからではない——問うてしまえば我が「去るかもしれぬ」と、あの唐の記録の言葉を、晴元自身が信じているからだ。
まこと、食えぬ人間よ。
白砂の庭に影が伸びた。松の影が細く重なり、我の前脚の上まで届いた。
北西の風は、夕刻まで止まなかった。




