第百六話「陰陽寮の警告」
実俊が走ってきた。
陰陽師見習いの歩き方ではない。袴の裾を乱し、草履が砂利を蹴り上げ、門をくぐる前に名を呼ぶ声が届いた。我は縁側で丸まっていた体を起こし、耳を立てた。
「真白殿、いらっしゃいますか」
真白が几帳の向こうから顔を出した。実俊の来訪は珍しくないが、この声の質は見たことがない。何かが変わっている。
「実俊殿、どうされましたか」
「陰陽寮から、急ぎの報せがございました。中でお話しできますか」
我は縁側から庭に降り、実俊の後ろをついて回廊に入った。
余計なことをするな、という視線を実俊が投げてきたが、我は気にしない。この男は我が聞いていても構わないと知っているはずだ——というより今は、我が聞かないことの方が問題になる。
座敷に通された実俊は、真白の前に文書を広げた。
陰陽寮の書式だ。墨の色が新しく、今朝書かれたものだとわかる。我は文机の端に前足をかけて覗き込んだ。実俊が不服そうに我を一瞥したが、追い払いはしなかった。
「昨夜、陰陽寮の測定盤が異常を示しました」
実俊の声は抑えられているが、端に緊張が滲んでいる。
「都の北西——加茂の川上あたり、それから東の山麓と南の川沿い。三方向で気の流れが同時に乱れた記録が出ています。ただの気の揺れなら一箇所で収まるはずですが、今回は三点が——」
実俊は言葉を選ぶように一呼吸置いた。
「ほぼ同時刻に、それぞれ独立した形で反応しております」
真白が静かに文書を見ている。
我の尻尾が一度、床を打った。
三点——火車が告げた座標と、ほぼ一致する。我が北西に気の欠けを確認したのとも。ぬえが訴えに来たのとも。それらがすべて、陰陽寮の記録という人間の言葉で裏書きされた。
「安倍様が、正式な調査を始めると」
「安倍晴元(あべ の はるもと)様が直接?」
真白の声にわずかな緊張が混じった。
「はい。陰陽寮長官が自ら動かれるのは、相当の規模でないと——」
実俊は言いかけて止めた。言葉の先を呑み込んだのか、それとも声に出すことで現実が確定するのを避けたのか。どちらでも、我には関係ない。重要なのは次の言葉だ。
「裂け目が、生じております」
静かな声だった。却ってそれが、室内の空気を変えた。
真白が手を膝の上で重ねた。実俊は文書から目を離さないままでいる。
「界境に?」
「はい。今のところ、手のひら一枚ほどの薄さだと陰陽寮の記録にあります。しかし昨夜だけで、先月の記録より二割ほど拡大した」
裂け目。
我は前足を文机から下ろし、室の中央に座り直した。
この言葉は以前にも考えてきた。北西の気の欠けを初めて感じた時から、その可能性は我の中にあった。しかし可能性と事実の間には、距離がある。今その距離が、実俊の持ち込んだ文書一枚で埋まった。
手のひら一枚——人間の基準で言えば小さい。しかし界境の裂け目というものは、始まりが小さいほど厄介だ。見えにくい。気づきにくい。気づいた時には既に深く、広く、根を張っている。アルメラで我が目撃してきた界の乱れは、すべてそうだった。
「何か、できることはありますか」
真白が実俊に問うた。
実俊は首を振った。
「陰陽寮として正式に動いています。今は観測を続けながら、拡大の速度を測ることが先決だと。無闇に手を入れると、逆に広がる恐れがある——安倍様が、慎重に進めるよう指示を出されたと聞きました」
それは正しい判断だ、と我は内心で認めた。
界境の乱れに対して力で押し込もうとすれば、別の箇所が歪む。水袋を握り締めるようなものだ。一点を抑えても、余った圧力は逃げ場を探す。陰陽寮長官が慎重論を取るなら、経験則から学んでいる。
実俊が真白を見た。
「真白殿が感じていた——空気の変化というか、近づいてくるような感じというのは——」
真白は少し考えてから答えた。
「まだ続いています。最近は夜より、夕暮れ時の方が強い気がして」
夕暮れ時。昼と夜の境目だ。境界が緩む時間帯に、真白の言霊感応が鋭くなっている。これは悪化の指標だ——と同時に、真白がそれを言語化できるようになっていることも意味する。以前なら「なんとなく」で終わっていたものが、今は「夕暮れ時」という具体的な感覚まで絞れている。
実俊が文書を巻き直しながら言った。
「真白殿、もし急な変化を感じた時は、すぐに知らせてください。陰陽寮の測定盤より、貴女の感応の方が早い可能性がある」
真白が頷いた。
実俊が帰ったあと、座敷に二人と一匹が残った。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)はいつの間にか廊下の端に立っていた。実俊が話している間、彼は室の外で聞いていたのだろう。
「真澄殿、どう思われますか」
真白が問うと、真澄はしばらく無言だった。
「……拡大の速度が問題でござろう」
答えだけを置いて、それ以上は言わなかった。
我は真澄の顔を見た。この男の寡黙には種類がある。言葉にならないから黙っている場合と、言葉にしない方がよいと判断して黙っている場合と。今は後者だ。真澄の半妖の感覚は、既に我と似たものを捉えているはずだ。
拡大の速度——それが全てだ。
ぬえが来た。火車が来た。北西の気の欠けが広がっている。そして今、陰陽寮が正式に動き始めた。
点が線になりかけている。
我は立ち上がり、縁側に出た。秋の夕暮れが庭を橙に染めている。北西の空の色が、他の方角より微妙に濁っている——気のせいかもしれない。しかし我の毛並みが、その方向に向かってわずかに逆立った。
気のせいではない。
真白が後ろで言った。
「玄丸、あなたも感じているのね」
我は振り返らず、尻尾を一度だけ立てた。
それが答えだと、真白は知っている。
夕暮れの風が庭を渡った。梢が揺れ、楓の葉が一枚落ちた。落ちた葉は北西へ向かって転がり、白砂の縁で止まった。
真白がその葉を見つめていた。
「急がなければいけないのかしら——それとも、急いではいけないのかしら」
どちらだ。
我は自問した。答えは出ない。出せない。急けば壊れ、遅ければ広がる。界境の裂け目とは、そういうものだ。アルメラでも同じだった——そしてアルメラは、間に合わなかった。
しかし今は、あの時とは違う。
あの時の我は一人だった。
我は縁側に腹這いになり、目を細めた。
真白の裳裾が視界の端に映る。廊下の奥では真澄が壁を背にして立っている。実俊はいないが、彼の持ってきた文書には今夜も陰陽寮が観測を続けているという意味がある。
点が線になりかけている。
だが線はまだ、円になっていない。
今夜はここまでだ——と我は決めた。焦りは理の精度を落とす。それだけは、あの大陸の果てから持ち越してきた教訓だ。
北西の空が暗くなるより先に、真白が行燈に火を入れた。温かな光が座敷に広がり、我の毛並みが落ち着いた。
廊下の端で、点し火がひとつ、ふわりと灯った。いつの間に来ていたのか、提灯お化けが静かに輝いている。
我は目を向け、それからまた前方に戻した。
灯りがある。
それでよい。




