第百五話「ぬえの不安」
鳴き声だった。
鳥のような、しかし鳥ではない。獣に近い、けれど獣とも呼び難い。夜が深まるにつれて屋敷の北側から流れてくるその音は、耳に届くたびに形を変えた。高くなり、低くなり、ある瞬間には風の唸りと見分けがつかなくなる。
我は縁側に腹這いになったまま、尻尾だけをゆるりと動かした。
秋虫の声は昨夜より確かに薄い。代わりに、あの声が庭の闇の縁を這っている。
人間どもはまだ聞こえていないのか、それとも気づいていても眠れているのか——どちらであれ、我には関係ない。問題は、あの声の質だ。恐れではない。怒りでもない。訴えに近い何かが、音の芯に混じっている。
真白が几帳の向こうで寝返りを打つ気配がした。
彼女の眠りはここ数夜、浅い。我が縁側に陣を敷いて外の気を測るのも、それが理由の一つだ。真白の言霊感応は、界境の揺れをどこかで拾っている。本人が気づかぬうちに、体が反応している。
我も同じだ。北西から来る気の欠けは、昨夜より指一本ぶん広がっている。
鳴き声が、庭木の向こうで止まった。
代わりに、何かが降りてきた。
屋根からではない。空から、というより——境から、と表現するのが正確だろう。我は前足を揃えて座り直し、夜の庭を見据えた。
大きな木の影の下に、それはいた。
頭は猿の形をしている。胴は狸か狐か、毛の色が夜に溶けてはっきりしない。尾は蛇のように細く長く、先端が地を這っている。足は虎に似て、爪が白砂に沈んでいた。
ぬえ(鵺)だ。
我の知る妖怪図鑑の中でも、なかなか厄介な位置にある存在だ。複数の獣を継ぎ合わせたような姿ゆえに、人間には不吉の象徴として恐れられてきた。しかし恐れられることと、悪であることは別の話だ——我は既にその区別を、様々な妖怪との交流で学んでいる。
ぬえは庭の中心で、頭をゆっくりと巡らせた。
北を向く。東を向く。それから南。視線が一周するたびに、その猿に似た顔が歪む。怒りではない。不安だ。
訴えるような鳴き声の理由が、我には見えてきた。
「夜分に失礼いたします」
障子の向こうから声がした。葛上真澄(かずらがみ の ますみ)だ。
我が視線を向けると、真澄はすでに縁側に膝をつき、庭のぬえを静かに眺めていた。この男は気配を殺すのが上手い。気づいた時にはもうそこにいる。
「……来るでござろうとは、思っておりましたが」
真澄の声はいつにも増して低かった。ぬえに向けた言葉だが、我に確認するような間があった。
ぬえは真澄を見た。それから我を見た。
もう一度鳴いた——短く、今度は問いかけるような音だった。
真澄が立ち上がり、草履を履いて庭に降りた。我も縁側から飛び降りる。
三者が白砂の上に揃う。秋の夜気が首筋を撫でた。
ぬえは口を開いた。人の言葉ではない。しかし言葉ではないものを通して、伝わってくるものがある。我の内側で、かつて修めた理の感覚がそれを翻訳する。
乱れている、という。
場所ではなく、在り方が。空と地の間に張られた境目が、ほつれ始めている。自分の棲み処がその境目に近い——だから誰より先に感じた、と。
「界境が、動いておりますでござろう」
真澄が、低い声で言った。ぬえの発するものを、彼もまた半妖の感覚で受け取っている。
我は前足で白砂を一度押した。
そうだ、という返答だ。真澄は一瞬我を見てから、ぬえに向き直った。
「貴殿が感じた乱れの方角は」
ぬえが顔を北西に向けた。
我の尻尾が止まる。北西——件の予言が指していた方角でもある。火車が告げた三点のひとつでもある。そして我が数夜前から気の欠けを確認している、まさにその方向だ。
この屋敷には、情報が集まってくる。
それ自体は悪いことではない。むしろ好ましい。知ることと備えることは等価だ——しかし、知らせに来る者たちの表情が、回を追うごとに切迫してきている。
ぬえはもう一度鳴いた。今度は長く、消え入るように。
その音の中に、我は確かに「怖い」という色を聞いた。複数の獣を体に宿した存在が、それでも怖いと訴えている。
我は砂の上に腰を下ろし、ぬえを正面から見た。
逃げない、という姿勢だ。猫がある対象に対して腹を見せず、しかし丸くなって座る——それは戦いではなく、共に在ることを選ぶ時の形だ。
ぬえの蛇尾が、わずかに動いた。
真澄が袖の中から小さな器を取り出した。油でも入っているのか、ほのかに香りがする。彼は黙ってそれを白砂の上に置き、一歩退いた。
「お疲れでございましょう。少しお休みください」
言葉数の少ない男が、珍しく一文余分に添えた。
ぬえは器の匂いを嗅ぎ、それから我をもう一度見た。
我は目を細めた。
敵ではない、という猫の言語だ。
ぬえが砂の上に四肢を畳んで伏せた。
その拍子に蛇の尾が我の前足の近くを掠めたが、我は動じない。複数の理を体に内包した存在の気配というものは独特で、我がアルメラで扱っていた理の感覚とどこか重なる部分がある。世界の複数の要素を同時に束ねている——それは不安定に見えて、実はひとつの完成した形だ。
夜が、少しだけ柔らかくなった気がした。
翌朝、真白が縁側に出てきた時、ぬえの姿はすでにない。代わりに白砂の上に、器だけが残っていた。中は空になっていた。
「なんの器?」と真白が器を拾い上げた。
真澄が縁側から答えた。
「夜に客がございました」
真白は器を見て、それから庭を見た。何かを感じ取るように、しばらく北西の方向に目を向けていた。
「また来るかしら」
「……来るでござろう」
真澄の返答はいつもより短かった。我は縁側で毛づくろいを始め、それ以上の会話を聞かぬふりをした。
ぬえはまた来る。界境のほつれが続く限り、あの訴えを持つ者は増えるだろう。
しかし今夜は、一つの不安が行き場を見つけた。
それで十分だ——などと言うつもりは毛頭ないが、まあ、悪い夜ではなかった。
我は前足の毛を丁寧に舐め、秋の朝の光に目を細めた。
【妖怪図鑑】
■ぬえ(鵺)
【分類】複合妖怪・境界型
【危険度】★★★☆☆(中)
【レア度】★★★★☆(希少)
【出現場所】山と里の境目、夜の竹林、界境が薄れた場所
【特徴】
頭は猿、胴は狸か狐、足は虎、尾は蛇——複数の獣の要素を一体に宿した異形の妖怪。姿の奇妙さゆえ、古来より不吉の前兆として恐れられてきた。平安の昔、帝の御所に現れて人々を震え上がらせたという記録もある。しかし人を害する悪意を持つわけではなく、境界に敏感な性質ゆえに、世の乱れをいち早く察知する。その鳴き声は時に風の音に紛れ、聞いた者の心に根拠のない不安を植え付ける。
【得意技】
・境界感知:界境の乱れや気の変化を、他の妖怪より早く感じ取る
・声の重層:複数の獣の声を同時に発し、周囲の空気を変える
・気配消し:夜の闇に体を溶かすように身を隠す
【弱点】
・複数の理を体に宿す分、ひとつの属性の術には過剰に反応する
・安心できる場所が少なく、長くは留まらない
・境界そのものが安定すると、自然と遠ざかっていく
【生態】
単独行動が基本。縄張りを持たず、境界や狭間を移動しながら暮らす。人間の集落に近づくのは珍しく、それ自体が何らかの異変の兆しとされる。妖怪の中でも孤立しやすい性質だが、信頼した相手には長く付き合う義理堅さも持つ。
【玄丸の評価】
「複数の理を一身に束ねるとは、なかなか器用なことだ。我ならば各属性を分離して制御するところを、あ奴は混在させたまま存在している。非効率に見えるが、それこそがぬえの完成形なのかもしれぬ。不安を訴えに来た、ということはまだ正気がある証拠だ。界境の乱れに気づいているのは、我だけではないらしい。しばらく注意しておくとしよう」
【遭遇時の対処法】
不意に鳴き声を聞いても、慌てて追い払おうとしないこと。ぬえが現れる時は、大抵すでに何かが乱れている。追い払った後の状況の方が問題になる。静かに気配を読み、何を感じて来たのかを確かめるのが賢明だ。
【豆知識】
ぬえの声を聞いた者は理由のない憂鬱に囚われるという。これはぬえが悪意を持って呪うのではなく、ぬえ自身が感じている不安が音に乗り移るためだと考えられる。つまりぬえの鳴き声は、呪いではなく悲鳴の一種だ。




