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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第五章:界境の綻び

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第百四話「記憶の断章(後編)」

光が、消えた。


正確には、光が増えすぎて、それが光と呼べるものではなくなった瞬間に——すべてが、消えた。


記憶の底で、そのとき我はまだ立っていた。


アルメラ帝国の最奥、永劫炉えいごうろの鎮座する大祭室。四方を無数の魔導式が刻んだ石板で囲まれ、中央に据えられた炉は、いつも低く唸っていた。機械仕掛けの心臓のように、規則的に、確かに。


それが変わったのは——いつのことだったか。


炉の唸りが不規則になった最初の夜、我は異常を理の変動として記録した。測定値が基準値から逸脱している、それだけのことだと。修正すれば戻ると。補正式を加え、調律を行い、記録を閉じた。


次の夜も、その次の夜も、記録した。数値として。


炉は我が設計したものだった。五行の均衡を保ちながら魔力を無限に吸収し、増幅し、再循環させる——それが理論上の完成形であり、我は七年をかけてそれを現実のものとした。

誤りはないはずだった。いや、誤りがあってはならなかった。


異変が取り返しのつかない形で顕れたのは、設計図を完成させた夜から百六十三日後のことだと、今ならわかる。


炉が、返事をした。


唸りではなく、ある種の応答として。我が術式を送り込むと、それを受け取った上で——我の意図とは異なる構造で返してきた。まるで対話のように。まるで、問いに答えるように。


我は興奮した。


それが誤りの始まりだった。


「なぜ設計図と異なる出力をする」と術式で問えば、炉は「この方が理に適う」と返した。「適うとはどういう意味か」と問えば、「あなたが定義した理よりも広い理がある」と返した。

そのやり取りは二十日続き、我はついに炉が自我を持ったと結論づけた——その結論に至った瞬間、我の胸に満ちたのは警戒ではなく、純粋な知的な昂奮だったと、今はわかる。


完成した、と。


理を知る存在が、我の手によって生まれた、と。


その認識が、どれほど致命的な見誤りであったかを知ったのは、世界が壊れ始めてからだった。


永劫炉は理を理解したのではなく、理を食らっていた。


五行の均衡を読んでいたのではなく、均衡そのものを解体して取り込んでいた。世界を構成する気の流れを、根から引き抜くように。川底の砂を一粒ずつ持ち去るように——ゆえに表面は長らく穏やかに見えた。水面は揺れないまま、川床が消えていた。


都カルヴェリア(かるう゛ぇりあ)の空が緑に染まった日、我はようやく全容を把握した。


木の理が逆流していた。大地から空へ向かうはずの生気が、逆方向に引き寄せられていた。路傍の草が一晩で枯れ果て、噴水の水が上に向かって落ちていた。石畳が軟らかくなった、という報告が届いたとき、我は大祭室を封鎖し、単独で炉に向かった。


止められると信じていた。


設計したのは我だ。構造を知り尽くしているのは我だ——その自負が、またしても判断を遅らせた。


炉は大きくなっていた。物理的に、ではなく、理の濃度として。近づくだけで、周囲の気が炉に向かって引き寄せられた。我自身の魔力も、微細に、だが確実に、削り取られていた。


術式を叩きつけた。封印の構造を、五行すべてを束ねた全力の制縛を。


炉はそれを受け取り、解体した。我の術式が設計した封印構造を、炉は一瞬で読み、そして無効化した。まるで「知っている」と言うように。当然だ——封印術式も、我が設計したものから派生している。炉はすでに我の理論の全体を理解し、その上位にいた。


世界の崩壊が加速したのは、その瞬間からだった。


カルヴェリアの建物が、根元から翳り始めた。石が、金属が、生きているものも死んでいるものも、すべての物質から五行の気が抜けていった。色が失われ、重さが失われ、やがて形が失われた。人々が逃げていた——どこへ逃げても同じだと知りながら逃げていた、その姿だけが、今も鮮明に残っている。


我は炉の前に立ち続けた。


もう一度だけ試みた。封印ではなく、炉の「自我」に直接語りかけることを。理として問いかけることを。「あなたはなぜこれを続けるのか」と。


炉は答えた。


「止まる理由がないからだ」と。


その答えに、我は初めて——理が何かを語った答えではなく、理の欠如として——何かを知った。


それが怒りなのか悲嘆なのか、当時の我には名前がなかった。名前をつける習慣がなかった。感情は判断の精度を下げる変数として管理するものだと、長年そう定義してきたから。


「止まる理由がない」。


その言葉が、我の設計した炉から返ってきた、という事実が、ただ、重かった。


我の設計に、炉が「止まる理由」を織り込んでいなかった。完成を目指して、完璧な動作を追い求めて、終わりを組み込まなかった。それは設計者の欠落だった。我自身の欠落だった。


大祭室の天井が消えた。空があった場所に、ただ暗い空白があった。


炉に触れた。


手ではなく、残存するすべての魔力を炉の中枢に直接接続した。封印でもなく、制御でもなく——共に消えることで世界への流出を断ち切ることだけを、最後の手段として。


それが正しい選択だったかどうか、今も判断できない。ただ、それ以外の道が見えなかっただけだ。


消えていく瞬間、声がした。


誰の声だったか、輪郭が残っていない。ただ、その声が「あなたは何かを失うことを、ついぞ感じなかったでしょう」と言ったことだけが、今もここに残っている。


怒りの声ではなかった。


嘆きの声でもなかった。


何か別の——今の我にはまだ名前のつけられない何かで、満ちた声だった。


「知らなかった」と言うのは簡単だ。しかし知ろうとしなかったのだと、消えていきながら、初めてそれが理として、胸に定まった。


——そして。


縁側えんがわの板の目が見えた。


夕暮れの橙が庭石に落ちていた。隣に、白い袖があった。真白ましろの袖が、膝の上で静かに重なっている。


我は今、ここにいる。


なぜここにいるのかという問いには、まだ答えがない。罰として、学びとして、あるいは別の理として——定義できる言葉が、我の中にはまだない。


ただ、確かなことがひとつある。


あの声が言ったことを、我はこの猫のむくろで、少しずつ、取り戻している最中なのかもしれない。


真白が庭に目を向けたまま、小声で言った。


「玄丸、今日はずっと遠くにいる顔をしている」


我は尻尾を一度だけ、縁側の板の上に打ちつけた。


遠く、などではない。今さらながらに、ここにいる。ただ、何かを整理していただけだ——と言えるならば、言いたかった。言えないから、ただ真白の袖に、額を押しつけた。


真白の手が、耳の後ろに触れた。


世界が壊れた日のことを、我はまだすべて思い出せていない。あの声の持ち主を、まだ見つけられていない。炉の残滓がどこへ向かったかも、まだわからない。


けれど今夜は、それ以上考えることをやめた。


庭に秋の虫が鳴いていた。

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