第百三話「記憶の断章(前編)」
熱かった。
眠りの中ではなく、覚醒した状態でそれが来た。縁側の板に伏せていた体が、内側から温度を持ち始めるあの感触——毛並みの奥で何かが共鳴する、水の理の働きに似ているが、水ではない。もっと古く、もっと深いところからくる何かだ。
火車が去ってから三日が経っていた。
北西の気の欠けは変わらない。変わらないまま、少しずつ広がっている。我はその速度を毎朝測るようになっていた。土の理を地に薄く流し、境の状態を確かめる。今朝もそれをした。そうしながら、前脚の付け根から熱が上がってきた。
水の理が勝手に動いている。
記憶の蓋が、少し緩んでいる。
それは義務でも意図でもなかった。境の乱れに呼応するように、封印されていた前世の記憶の端が、薄く光を持ち始めていた。我は目を閉じた。押さえることもできた。しかし押さえる必要があるかどうかを、この三日間ずっと測っていた。
今は、見た方がいいかもしれない。
目を閉じると、光が来た。
────
空が高かった。
平安の都の空ではない。もっと乾いた、大気の薄い高地の空だ。石と金属で組まれた尖塔が幾本も並び、その頂きから細い光の筋が天へ向かって伸びている。魔力の放出路——理の出口として設計された構造物だ。その形をアゼル(アゼル・ヴァル=ローグ)は自ら設計した。
アルメラ魔導帝国の都、カルヴェリア。
石畳の大通りに、人々の行き来があった。魔法具を持ち歩く商人、陣式を組んだ訓練兵、帝国が管理する理の記録を抱えた書記官たち。全員が何らかの形で理と関わって生きている都だった。農耕にも建築にも治療にも、理の技法が組み込まれていた。それが誇りだった。人間が理を制御することで、世界はより精緻に、より美しく動くと、アゼルは本気で信じていた。
その頃の我には、疑う理由がなかった。
記憶の中の自分は若くない。壮年期のアゼル——黒髪に白が混じり始め、目の色だけが暗紫色のまま変わらない——が、高い石造りの台座の上に立っている。眼下には帝国の主要な理術師たちが整列していた。定例の観測報告の席だったと思う。細部は曖昧だが、空気の張り詰め方は覚えている。
全員が我を見ていた。万象の王と呼ばれる者を。
それが重荷だったかと言えば、そうではなかった。あの頃の我は、重さを重さとして感じる回路を持っていなかった。持つ必要がないと判断していた。世界の理を統合し、その均衡を維持することが我の役割だと整理していた。それ以上でも以下でもない、ただの職能だ。
感情は邪魔だった。
正確に言えば、感情を邪魔だと分類していた。理の分析を歪める変数として処理していた。臣下が傷ついても、城下で何かが滅びても、その事象を理の構造の問題として捉え直すことが習慣になっていた。
かつてそれを指摘した者がいた。名は——
記憶の端がぼやけた。人の顔は残っていない。残っているのは声の高さと、白い手と、「あなたは何も失いたくないのではなく、失うことを感じたくないのでしょう」という言葉だけだ。
我はその時、何と答えたか。
答えなかった、と思う。
────
縁側に戻った時、点し火が廊下の端で揺れていた。我を見て、炎が少しだけ大きくなった。心配しているのか、それとも単に気配に反応しているだけか、今の我には判断がつかなかった。
毛繕いをした。後頭部から耳の後ろにかけて、前脚で順番に整える。これは習慣だが、今は整える以外に何もできることがないという事実を隠す動作でもある。
アルメラ帝国は美しかった。
それは偽りではない。帝国は現実として精緻で、人々は理の恩恵を享受して生きていた。飢えは管理され、疫病は術式で対処され、争いは理の法で裁かれた。完璧ではなかったが、目指していた方向は間違っていなかったと、今でも思う。
ただ、我が間違えた。
いや、正確には——我が間違えることを、誰も止めなかった。止めようとした者はいたかもしれないが、我は理の論理で全て封じた。感情による反論は証拠にならないと切り捨て、直観による警告は数値化されるまで受け付けなかった。
永劫炉の構想が生まれたのは、そういう思考の積み重ねの果てだった。
世界の理を完全に安定させるための装置——すべての波動を収束させ、乱れを吸収し、均衡を永続させる仕組み。理論的には完璧だった。設計図を書き終えた夜に、我は自分の生涯で最も美しいものを作ったと感じた。
感じた、という事実に、今の我は引っかかる。
あの時に感じたのは何だったのか。誇りか、達成か、それとも安堵か。何かが完結したような静けさだった。それが既に、何かを見落としていた証だったのかもしれない。
完結などしていなかった。
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「玄丸?」
真白の声が来た。
縁側の外から、彼女が我を見ていた。
「今日、ずっと動かないわね。どこか悪いの?」
我は顔を上げた。真白の表情に心配の色がある。それを読み取る回路は、平安の都で一年かけて作った。あの頃の我には、この種の表情を正確に読む手段がなかった。
今はある。
我は尾を一度だけ動かした。問題ない、という意味で使ってきた仕草だ。
真白は少し眉を寄せた。納得していない顔だが、それ以上は問わなかった。代わりに縁側の端に腰を下ろして、庭を眺め始めた。秋の午後の光が、白砂の上で静かに伸びている。
「今日は変な感じがするの」
真白が言った。独り言のように、でも我に向けて。
「何かが近づいてくるような。でも形はなくて。気のせいかしら」
言霊感応の素質が、拾い始めている。
界境の変動を、真白の感覚が捉え始めているのかもしれない。まだ言語化できない段階だが、それがあるとないとでは、今後の対処に大きな差が出る。
ただ今は、何も言えない。
我は真白の隣に移動して、彼女の膝の横に前脚を置いた。完全に乗るのではなく、触れる程度の距離に留まる。真白が手を伸ばして、耳の後ろを軽く撫でた。
「ありがとう、玄丸」
何に礼を言っているのかは不明だった。しかし礼が返ってくる場所に自分がいる、ということを、我は確認した。
アルメラの都で、誰かに礼を言われた記憶は薄い。礼を必要としない関係しか作らなかったから、当然だ。臣下は敬意を示し、我はそれを受けた。それだけだった。
今の我は、礼を受けることができる。
その差が何を意味するかを分析する前に、日が西に傾き始めた。秋の暮れは早い。光が白砂の色を金に変えていく。真白が息を吸って、小さく呟いた。
「きれいな夕焼けね」
我は庭を見た。
まこと、きれいだった。
アルメラの空も高かったが、それとは別の美しさがある。理で設計された景観ではなく、理で制御もされていない、ただそこにある光だ。そういうものが美しいと思えるようになったのは、この肉体を得てからだ。
前世で見落としていたものが、ここにある。
それが何かを、まだ全部は言語化できない。されど夕暮れの光の中で真白の隣に座っていると、あの頃に欠けていたものの輪郭が、少しずつ見えてくるような気がした。
気がした、ではない。
確かに見えている。




