第百二話「火車の警告」
「猫よ」
声ではなかった。
音にするなら、燃えた骨が風に散る際の、あの乾いた軋りに近い。それが夜の庭を渡ってきた時、我は縁側の端で目を覚ました。
月はない夜だった。秋の曇天が星をすべて隠し、庭は白砂の反射だけで辛うじて形を保っていた。草木は揺れていない。それなのに、空気が動いていた。燃えるものの、しかし炎とは呼べない何かが、北の梢の向こうから近づいてくる。
我は静かに四肢を揃え、庭を向いた。
来るとわかった瞬間には、もう目の前に在った。
火車——正確に呼ぶなら、そういう名の存在だ。車輪の形をした炎の塊、という先入観で描くなら間違いになる。目の前にいるのは、炎をまとった大きな猫の形——いや、かつて猫であったものの残骸に、死の気が凝り固まって生まれた何かだ。毛並みの代わりに業火が揺れ、爪の先が黒く炭化している。瞳孔は縦に細く、我と同じ形をしている。
その目が、我を見ていた。
我は微動だにしなかった。土の理を薄く展開して屋敷の気配を遮断し、真白たちの眠りを守った。体の内側で気を静め、この来訪者が何を持ってきたかを測る。
敵意はない。
正確に言えば、我への敵意がない。それ以外への敵意については判断がつかないが、今夜この庭に降りてきた目的は、少なくとも害意ではないと読んだ。
「久しぶりに見た。高位の理を持つ猫を」
軋る声が続いた。それは言語というより、意図が直接届く類のものだった。
「お前のことは聞いている。この屋敷が節点になりつつあると、網の者から」
ぬらりひょんの情報網か。あるいは別の経路か。いずれにしても、我の存在はすでに相応の範囲に知られている。それは百も承知だった。
我は尾を一度だけ動かした。続きを促す仕草だ。
「伝えに来た」
火車は車輪を持たない。ただ、地から少し浮いて静止している。その周囲の白砂が、熱で微かに乾いていく。
「異界からの気が、増えている。今はまだ小さい。それぞれ一匹、二匹程度の気配だ。しかし、我らの側でその数を正確に数えられなくなってきた。境の膜が薄い場所が増えて、どこから入ってきているかが判然としない」
土の理で感じていた「薄くなる感触」が、別の角度から裏付けられた。
「お前に伝えれば、何かできるかもしれない。あるいはできないかもしれない。どちらでもよい。我らは死を扱う者ゆえ、知っていることを持ったまま去るのを好まない」
火車が言うには、都の外れで三か所、境の膜が他より薄い場所がある。北西、それから東の山の手前、もう一か所は南の川沿い。特に北西は、一月前と比べてすでに体感が違う。
「まだ何も出てきていない。ただ、何かが近づいてきているような気はしている。そういう時の空気を、我らは知っている」
我は庭石の上に腰を下ろし、その話を最後まで聞いた。
火車は長居をしない。用が済めば去る——そういう性質の存在だと知っている。死と境を扱う者は、人間の住まいに留まることを嫌う。それは忌避ではなく、一種の礼儀だ。
「一つ聞いてよいか」
我は問えない。問えないが、視線で伝えた。
火車はその意図を読んだ。
「お前が何者かは知らない。ただ、その理の使い方は、普通の妖怪のものではない。古い魔導の匂いがする。どこの出かは知らないが——だからこそ、こちらの言葉が届くと判断した」
それだけ言って、火車は北の空へ戻っていった。炎が遠ざかるにつれ、白砂が冷えていく。最後に残ったのは、一筋の焦げ跡だった。縁石のすぐ手前、三寸ほどの浅い線。踏み荒らしたわけではなく、降り立った証だ。
我は土の理の薄い展開を解いた。屋敷の気配が戻ってくる。わらべ(座敷童子)の寝息、点し火の揺れ、真澄が廊下の端で目を開けた気配。
真澄は気づいていた。
声はかけてこなかった。ただ、しばらくして廊下の気配が静かになったから、彼は自分の間合いで判断して眠りに戻ったのだろう。
北西、東の山麓、南の川沿い。三か所。
我はその座標を頭の中で固定した。どこから来て、どこへ向かっているのか。それがわかるまでは、動かない方がいい。土の理で網を張れる範囲は限られているが、三点の方角を意識して張り続けることはできる。
縁側に戻り、我は前脚を折りたたんで伏せた。
火車が情報を持ってくる、というのは本来ありえないことだ。あの存在は死者を運ぶ。人の世と冥との境を渡る。情報の使者を務める理由など、通常はない。
しかしあの目は、恐れではなく、何かもっと実際的な危機感を持っていた。
自分たちの住み処が脅かされているとしたら——死を扱う存在であっても、それは困る。界境が乱れれば、死の通り道も乱れる。そういう理屈だろう。
我は目を細めた。
今夜知ったことを、どこまで誰に話すか。実俊には話せる。真澄はすでに感知している。真白には——まだ早い。異変の規模と性質が判明してから、でなければ彼女の言霊を動かす根拠にならない。
問題は速度だ。
火車が「まだ何も出てきていない」と言ったのは今夜の時点での話だ。それがいつまで続くかは、誰にもわからない。
庭の焦げ跡が、夜露に少しずつ薄められていく。明朝、蕗がそれを見つけたとしても、落ちた枝が焦げただけだと思うだろう。真白も特に問わないかもしれない。
それでいい。今はそれでいい。
我は目を閉じた。しかし眠らなかった。北西の方角に意識を薄く向けたまま、夜が明けるのを待った。
【妖怪図鑑】
■火車
【分類】冥界妖怪・炎属
【危険度】★★★★☆(高)
【レア度】★★★★☆(稀)
【出現場所】葬列の道、火葬場の近く、死者の多く出た場所の周辺
【特徴】
死者の体、特に葬儀の最中の遺体を奪い去るとされる妖怪。姿は炎をまとった巨大な猫——あるいは、猫のような形をした業火の塊——として描かれることが多い。音もなく近づき、一瞬で遺体を持ち去る。悪行の多かった者の遺体を奪うという説もあるが、選別の基準は人間には判じがたい。
人の世の死と冥界の境に生きる存在であり、界境の変動を人間より敏感に察知する。普段は生者の前に姿を現さないが、境の乱れが大きくなると稀に情報を持って来ることがある。
【得意技】
・炎による移動:火の気を纏い、地上を浮いて高速移動する
・冥感知:死者の気と界境の状態を遠距離から読む
・気配消去:生者に察知されずに近づく(高位の理を持つ者には通じない)
【弱点】
・長時間の生者の空間への滞在を好まない
・生の気が強い場所では力が弱まる
・情報を持ってきた相手には基本的に害を与えない(礼義を重んじる性質)
【生態】
単独行動が基本。群れを成さない。死者の出た場所を渡り歩き、冥界と現世の境界を維持する役割を担っているとも言われる。人間からは忌まわしい存在として恐れられるが、界境の秩序を保つ上では必要な存在だと、古い陰陽の記録には記されている。
【玄丸の評価】
「火車が情報の使者を務めた——これは珍しいことだ。自分たちの領域が脅かされているからこそ、わざわざ足を運んでくる。死を扱う者でさえ動く、ということは、異界の気の増大がすでに冥界側にも影響を与えているということだろう。あの瞳孔の形が我と同じだったことは、少し複雑な心地がした。別の話だと、理解はしているのだが」




