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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第五章:界境の綻び

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第百一話「異変の兆候」

ふきが、朝から三度も同じ場所を箒で掃いていた。


意図してそうしているわけではない。手が動いているのに、目が庭を向いていない。白砂の上を穂先がこすれる音だけが、秋の朝の空気に繰り返し刷られていく。我が縁側の端から観察していると、四度目の往復でようやく本人が気づいたらしく、箒を持ったまましばらく立ち止まった。


何かが引っかかっている。ただ、それが何かを言葉にできていない。


人間というのは、理が乱れると身体に出る。玄丸くろまろはその法則を、この屋敷でずいぶん学んだ。


前夜の宴の気配がまだ残っているかと言えば、そうではなかった。河童が帰り、野槌のづちが草の跡を残して消え、一反木綿いったんもめんが空に溶けた。残ったのは、笑い声の記憶と、縁側の板に染みた月見酒のにおいだけだ。屋敷は元の静けさに戻っている。


戻っている、はずだった。


我は前脚を舐めながら、北西の方角へ意識を向けた。昨日も、一昨日も、その前も、同じことをしている。土のことわりを通じて地の気を読むたびに、同じ感触が返ってくる。欠けている、というよりは、薄くなっている、と言った方が正確か。布地が一カ所だけ、長年の摩擦で繊維がほつれているような——そういう感触。


それが、少しずつ広がっている。


「玄丸。今日は外に出るの?」


真白ましろ几帳きちょうの向こうから声を出した。外に出るかどうかを問うているのではなく、話しかけたいだけだと、この半年あまりで我は知っている。我は尾を一度だけ揺らした。


「おおうめさんが、秋茄子の煮物を作るって言っていたわ。今夜は実俊さねとしさんも来るってふみが届いたから、多めに用意するって」


真白が几帳の端から顔を出した。秋の朝の光が横から差して、その顔の輪郭がほんの少し柔らかく見える。我は舐めかけた前脚をそのままにして、彼女を見た。


真名井実俊(まない の さねとし)が来る。


それ自体は別に構わない。あの陰陽師見習いが何かを持ち込む場合、大抵は陰陽寮おんみょうりょうで拾ってきた不審な情報だ。それがあの男の役割だと、我は整理している。


しかし、今日に限っては、少し聞きたいことがある。


その日の昼前、真澄ますみくりやから戻ってくる際に、我は石畳の縁に腰を下ろして彼の足音を待った。真澄は我を見るとわずかに歩みを緩め、しかし何も言わずに通り過ぎようとした。


我は尾で石畳を一度叩いた。


真澄が立ち止まった。


「……何かございますか」


視線を合わせた。北西を示すように、我は顔をそちらに向けた。真澄は黙って同じ方角を見た。しばらく、風が庭木の枝を鳴らす音だけが続いた。


「気の流れに、ずれがございます」


低く、短く、彼は言った。


「先月より、明らかに。どこか一点が薄くなっているような——我が目には、霞のように見えますでござろう。何者かの仕業か、あるいは自然の摩耗か、それは判じかねます」


それだけ言って、真澄は歩いていった。


観測が一致した。


我は石畳の端で前脚を組み、目を細めた。真澄の感知と我の感知が同じ場所を指しているなら、これは我の思い過ごしではない。界境かいきょうの側で何かが起きている。まだ小さく、まだ遠い。されど「まだ」というのは、逆を言えば「いずれ」でもある。


春の先に影がある——かつてくだんが告げた言葉が、胸の奥でわずかに熱を持った。


あの予言の意味を、我は今も誰にも告げていない。告げる必要のある時が来るとすれば、それはもう少し先のことだろう。今は、見続けることだ。


夕刻、実俊が訪ねてきたのは、茜色が庭の向こうへ半分沈んだ頃だった。彼は几帳の前に座るなり、文箱ふみばこから紙片を取り出して真白の前に広げた。


「陰陽寮の観測記録です。先月からのものを並べると、方角は北西——特定の地点から、地の気の乱れが検知されています。小さな数値ですが、継続しているのが問題です」


真白が紙片を覗き込んだ。


「これは……都の中ですか?」


「境界の外に近い地点です。ただ、私の師匠は、今のところ様子見でいいと言っています。過去にも季節の変わり目に同様の乱れがあったと。ただ——」


実俊は言葉を切った。


「私には、今回は少し違う気がして。記録の数字の動き方が、過去の事例とは異なります。一定ではなく、だんだん広がっている」


我は部屋の隅から彼を見ていた。実俊が師の意見と自分の観測を切り分けて話しているのは、珍しいことだ。この男は普段、陰陽師としての判断基準に徹する。そこから外れることを、経験が浅いがゆえに避けてきた。


それが今、自分の目で見たものを優先して口にしている。


悪くない。


「実俊さん、怖い話ですか?」


真白が聞いた。


「まだ、そこまでは言えません。ただ、気をつけておいた方がいいと思って」


「わかりました。教えてくれてありがとう」


真白は紙片を折り返した。その手つきが、怯えよりも確かめようとする意志に近く見えた。我はそれを見ながら、後脚を伸ばした。


夜になると、点しともしびが廊下に灯りを入れた。わずかに揺れながら廊下を渡る光を見ていると、その炎が北西の方を向くたびに、ほんの少し細くなることに気づいた。


炎が、気の流れを読んでいる。


我は縁側の板の上に伏せて、目を細めた。


何かが始まりつつある。それが何であるかは、まだわからない。蕗が箒を持て余した朝から、実俊が記録の異変を語った夕刻まで——この一日の間に、都のどこかで小さな何かが、少しずつ形を整えようとしていた。


それを察しているのは、今のところ、我と真澄と実俊の三者だけだ。


真白には、まだ何も見えていない。


そのことが、今は好都合なのか、あるいはそうではないのか。我には判断できなかった。尾が一度ゆっくりと揺れ、それきり動かなくなった。

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