第百話「妖怪たちの宴」
招いた覚えは、なかった。
朝のうちから庭の気配がざわついていた。玄丸は縁側の端に腹ばいになり、その揺れを一つ一つ数えた。水路の方から湿った気が流れ込んでくる。北の竹藪の陰に何かが潜んでいる。東の塀の上に、細長い影がちらついている。
人間にはわからぬだろうが、我にはわかる。
この屋敷に、今日、何かが起きる。
「玄丸、耳が立ってるよ」
わらべ(座敷童子)が厨から顔を出し、嬉しそうに言った。子供の姿をした座敷童子は、昨晩から落ち着きがなく、今朝も夜明け前から厨を出入りしていた。何かを察知しているのか、あるいはただ騒がしいのが好きなだけなのか、この童の場合は判断が難しい。
玄丸は尾の先だけ動かして応じた。
厨では、お梅と蕗が昨日から動き通しだった。二人が何の気配を嗅ぎ取ったのかといえば、それは真白からの一言だったらしい。
「今夜、皆さんにお越しいただこうと思って」
真白がそう言ったのは、三日前の夕暮れだった。「皆さん」が誰を指すのか、最初は蕗にも分からなかったようだが、真白が「お梅さん、川魚は多めに。山芋も。豆腐はあの小さな方が好きだから」と言い始めたあたりで、蕗はようやく悟ったらしい。腕を組み、天を仰ぎ、それから「承知しました」と言った。お梅はすでに包丁を握っていた。
まったく、この屋敷の人間どもは順応が早い。
これを長所と呼ぶべきか、感覚が鈍いと呼ぶべきか。
我としては、どちらとも判断しかねる。
河童が来たのは、昼過ぎだった。
二体連れ立って、水路から庭の南側へ上がってきた。頭の皿には水をたっぷり載せ、手には魚の束を持っている。大きさからすると川鯉と鮎が混じっていた。蕗が慌てて受け取りに出て、頭を下げる。河童の一方は嬉しそうに皿を傾け、もう一方は玄丸を見つけた瞬間、ぽんと腹を一つ叩いた。
挨拶、だろう。あの腹の音が挨拶だということは、もう学んだ。
玄丸は瞬きを一つ返した。
河童たちが庭石の近くに腰を下ろすと、北の竹藪の気配がそろそろと動き始めた。細長い何かが、竹の間をかいくぐって近づいてくる。玄丸は顔を向けた。
野槌だった。
胴が太く、頭と尾が尖った、槌に似た形の蛇妖怪。以前、雨乞いに来た時は切迫した様子だったが、今日はそれと違う。転がるような動きでのそのそと庭に入ってきて、大きな石の陰で止まった。動かない。ただ、いる。
我が水の理で小雨を降らせた件の恩人、とでも言うべき間柄か。
恩人、というには妙な形をしているが。
河童の一体が野槌を見て、何か低く言った。野槌は動かなかった。河童は気にした様子もなく、川魚の尾を囓り始めた。
一反木綿が来たのは、日が傾いてからだった。
白く長い布の体が夕空にたなびいて、どこから来たのかも分からぬまま、庭の柿の木にするりと巻きついた。かつて都に迷い込んで、玄丸が星を読んで方角を教えてやった相手だ。九州への道は見つかったのか見つからなかったのか、結局のところ確認できていないが、こうして戻ってきたということは、まだ近くにいたということだろう。
あるいは、帰り道の途中でまた迷ったか。
柿の木の上から、一反木綿が庭全体を見下ろしている。食べる口がないのに参加しているその姿は、なんというか、高みの見物とでもいう他ない。
「あの方は、食べないの?」と真白が玄丸の隣に立って見上げた。
玄丸は首を振った。ゆっくり横へ、一度だけ。
「じゃあ、ずっとあそこにいてもらおうかな。灯り担当の点し火と、高さ担当で」
灯り担当、という言葉が、玄丸には少し引っかかった。命名が早すぎる。この娘は、妖怪に役割を与えるのが妙に上手い。役割があると、居場所ができる。居場所ができると、屋敷を出ていかなくなる。
——気づいていてやっているのか、気づかずにやっているのか。
そのどちらでも、結果は同じなのだが。
真白が縁側を離れて、また膳の準備に戻っていく。玄丸はその後ろ姿を一瞬目で追い、それから柿の木を見上げた。一反木綿が布の端を静かに揺らした。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が盆を持って縁側に出てきた頃、庭はすでに相当な賑わいになっていた。
小豆洗い(あずきあらい)が水甕の傍に座り込んで、持参した小豆を一粒ずつ数えている。几帳面な性格ゆえ、これは宴が終わるまで続くだろう。河童たちは川魚を食べ終え、今度はお梅が出してきた山芋の練り物を興味深そうに眺めている。野槌は石の陰から動いていないが、その小さな目が庭の様子をゆっくりと追っていた。
真澄は盆の上の杯を一つ一つ置きながら、誰にも余分な言葉をかけなかった。杯が置かれた妖怪は、何となくそこが自分の場所だと理解する。それだけで、庭の秩序がほんのり整う。
「真澄どのは、段取りが上手いな」と実俊が言った。遅れて門をくぐってきた陰陽師見習いは、庭を見渡して一拍固まり、それから腹を決めたように廊下の端に腰を下ろしていた。
「慣れでございます」と真澄は言った。
「慣れ……」
実俊は庭を改めて眺め、河童と野槌と小豆洗いと一反木綿(柿の木の上)を順番に確認した。その目が「慣れていいものなのか」と問うていたが、口には出さなかった。
玄丸は実俊の隣に歩いていき、腰を下ろした。
実俊はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。「……俺も、少し慣れてきた気がする」
それが何に対する慣れなのかは、言わなかった。玄丸も問わなかった。問えないのだが、問う必要もなかった。
夜が来た。
点し火が壁際から離れ、庭の中ほどへ浮いていった。橙の光がゆっくり広がると、庭の輪郭が闇の中から浮かび上がった。石と草と妖怪たちの影が、揺れながらそこにある。
わらべが汁粉の椀を両手で持ち、縁側に走ってきた。
「ぬらりひょんどの、来ないの?」
玄丸は耳を動かした。
来ない、とは言えない。あの老練な妖怪の総大将が、招かれずに現れることはこれまでにも一度あった。今夜来るとすれば、招待状など必要としないだろうし、来ないとすれば、それもまた理由があってのことだ。
ふいに、庭の北の塀の上に、何かが現れた。
輪郭がはっきりしない。老人のような、煙のような、そこにいるのかいないのか判断できない存在。玄丸は目を細めた。陽眼を使うまでもなく、その気配には見覚えがある。
ぬらりひょんが、塀の上にいた。
座っている、というより、そこに溶け込んでいる。杯を持っているわけでも、膳があるわけでもない。ただ、高いところから庭を眺めている。
玄丸は視線を向けた。
ぬらりひょんは、それに気づいたのか気づいていないのか、長いひげをゆったり揺らした。それから、玄丸に向けて、わずかに頭を傾けた。
挨拶か、確認か。あるいは、もっと別の何かか。
我も、一度だけ頭を下げた。
猫が頭を下げる、というのは、そもそも奇妙な光景であろう。だが、相手が相手だ。礼を失するよりはいい。
「玄丸。こっち来て」
真白の声だった。
振り返ると、真白が縁側に座って、膝の上に手を置いていた。膝に来い、ということだろう。この娘は、玄丸に向けてそれを「命令」ではなく「誘い」の形で言う。声の高さが、命令の時と誘いの時とでは微妙に違う。この屋敷に来てから、そういうことが少しずつ分かるようになった。
我は魔導王だった。
万象を観測し、理を解析し、世界を統べた。
しかし、令嬢一人の声の高低に何かを読み取るようになったのは、この猫の生を得てからだ。
これを退化と呼ぶか、成長と呼ぶか。
——まこと、判断に迷う。
玄丸は縁側を上がり、真白の膝に乗った。
真白の手が、耳の後ろをひと撫でした。それだけだった。それ以上は何もなかった。ただ、庭の賑わいを二人で眺めた。
河童の一体が山芋の練り物を気に入ったらしく、蕗の裾を引いている。蕗は困り顔で、それでもお代わりをよそっている。小豆洗いはまだ小豆を数えている。野槌は石の陰から動いていない。一反木綿が枝の上でゆらりと揺れた。実俊が酒を口に運んでいる。真澄が盆を持ったまま、どこかに視線を向けて静止している。わらべが汁粉の二杯目を要求して、お梅に断られている。
点し火の橙の光が、全部を包んでいる。
「ねえ、玄丸」
真白が、庭を見たまま言った。
「この屋敷、最初の頃と変わったと思う?」
玄丸は喉の奥で低く鳴らした。答えの代わりに、鳴らした。
変わった。それは確かだ。あの頃のこの屋敷は、人間の令嬢と使用人が数人、静かに暮らしていた場所だった。妖怪が庭に来ることもなく、我が縁側で魔力の残滓を数えていた場所だった。
今は、何だ。
河童が山芋を食べている。野槌が石の陰で眠りかけている。一反木綿が枝の上で月を眺めている。ぬらりひょんが塀の上から全体を見下ろしている。陰陽師見習いが酒を飲んでいる。半妖の家令が盆を持って立っている。点し火が橙に灯っている。
そして我は、令嬢の膝の上にいる。
これは、いったい何と呼べばいいのか。
理の観点からすれば、この屋敷はある種の「節点」になりつつある。人と妖が交差する場所。どちらでもないものが仮に留まれる場所。異界の理を宿した黒猫が、住まう場所。
だが、そういう分析は、今夜は少し後回しにしてもいい気がした。
真白が、玄丸の背を一度だけ撫でた。
「来てくれて、よかった」
誰に向けて言ったのか、玄丸には分からなかった。庭にいる全員に向けて言ったのかもしれないし、玄丸に向けて言ったのかもしれない。
我は、どちらでも構わないと判断した。
夜が深くなるにつれ、賑わいはそれぞれの形で落ち着いた。
河童たちは腹が満ちると、水路の方へ帰っていった。水の中に消える直前、一方が振り返り、腹をもう一度叩いた。また来る、という意味らしい。根拠はないが、たぶんそうだ。
野槌は石の陰でいつの間にか眠っていた。起こす者もなく、庭の隅でそのままにしてある。夜露が降りてきても、野槌は微動だにしない。石のように、ただそこにあった。
小豆洗いは小豆を全部数え終えたのか、立ち上がって一礼した。几帳面な礼だった。真白が「またいつでも」と言うと、小豆洗いはもう一度頭を下げて、水路の方へ歩いていった。
一反木綿は月が高くなった頃、枝からするりと離れ、空へ戻っていった。音もなく、言葉もなく。白い布がひらりと夜空に消えた。
ぬらりひょんは、いつ去ったのか誰も気づかなかった。塀を見ると、そこにはもう何もなかった。最初から誰もいなかったような、静かな塀だけがあった。
点し火がまだ灯り続けている。
わらべがお梅に寄りかかって、うとうとし始めた。お梅は呆れたように、しかし追い払わずにそのままにしている。蕗が膳を片付けながら、あくびを一つした。
実俊がそろそろ立つ気配を見せ、真澄が無言で羽織を持ってきた。
「……真澄どのは、気配りが細かい」
「慣れでございます」
「さっきも同じことを言っていたな」
「さようでございます」
実俊は何か言いかけて、やめた。軽く頭を下げて、門の方へ歩いていった。真澄はその背中を見送り、それからまた盆を持って縁側へ戻った。
玄丸は縁側の端に座り、庭を見渡した。
野槌がまだ寝ている。点し火がまだ灯っている。わらべがお梅の膝で眠っている。
静かだった。
宴が終わった後の静けさは、宴が始まる前の静けさとは違う。始まる前は、何かを待っている静けさだ。終わった後は、何かが満ちた静けさだ。
我は長い年月、世界の理を分析してきた。
五行の均衡を読み、気の流れを測り、波動の構造を解析した。
しかしこの静けさの「違い」を言語化できるほど、我の語彙は整っていない。
あるいは、語言など必要ないのかもしれない。
「玄丸」
真白が隣に来た。さっきと同じように、縁側に腰を下ろした。
月が、庭の池に映っている。
「今夜、楽しかった?」
楽しかった、という言葉が玄丸に適用できるかどうかは、難しい問いだ。我は魔導王の知性を持つ。「楽しい」という概念を分析することはできる。その状態を観測することもできる。だが、自分がその状態にあったかどうかを判定するのは、存外に難しい。
尾が、いつの間にか緩やかに揺れていた。
真白がそれを見て、少し笑った。
「そっか」
玄丸は前を向いた。
月明かりの中で、野槌が寝ている。点し火が揺れている。庭の草が夜露に濡れている。
来年も、この夜が来るかどうかは分からない。
世界の理というものは、常に一定ではない。北西の方角に感じる、あの「欠け」がどこへ向かうのかも、まだ見えていない。件が告げた言葉の意味も、春になるまでは明らかにならないだろう。
だが、それは今夜考えることではない。
今夜は、この庭がある。この灯りがある。この月がある。
そして、この膝が、そこにある。
玄丸は、目を細めた。
朝になると、野槌はいなかった。
いつ起き、いつ帰ったのか、誰も知らなかった。庭の石の陰に、体の形に押された草の跡だけが残っていた。
蕗が掃除をしながら、その跡を踏まないように避けていた。
理由は聞かなかった。蕗も言わなかった。
ただそれだけのことだった。




