第九十九話「百々目鬼の悲しみ」
秋の日暮れは、急ぎ足で来る。
庭の白砂がまだ明るさを保っているうちに、空の端はもう橙から紫へと変わっており、そのさかい目のあたりに雲が一枚、薄く溶けかかっていた。玄丸は縁側の端に座り、その雲を眺めながら後ろ脚で耳の付け根を掻いた。毛の奥に入り込んだ秋の乾いた埃が、やや鬱陶しい。
屋敷の内では、真白が燈台の火を点しに回っている気配がした。点し火が廊下を漂いながら手伝いに出ていることは、その揺れ方のむらで分かった。
――あの提灯め、役には立つが、灯りの向きが安定しない。
内心でそう評しつつも、玄丸の尾はゆるくひと振りだけ動いた。屋敷に住まう者の増えた日々を、このところ我は存外、厭うていないらしい。それが多少、癪ではあるが。
門のあたりで何かが止まった。
足音ではない。重さのある、しかし地を踏まない何かが、ためらいながら佇んでいる。その気配の密度が、ただの野良や虫と異なることは、鼻よりも先に皮膚が教えた。
玄丸は耳を立て、腹の毛が砂にふれる高さまで姿勢を落として、視線だけを門へ向けた。
来る気がないわけでもない。かといって入る踏ん切りもついていない。その揺れがしばらく続いたのち、ようやく影がひとつ、門柱の内側に滑り込んだ。
大きさは人ほどだった。
しかし、腕が違う。袖のない姿でさらされた両の腕の表面に、目が――目が、びっしりと並んでいた。大小さまざまな、まぶたのある目。どれもが開いており、あちこちを見ている。庭の白砂を、松の梢を、縁側を、玄丸を。それぞれが別の方を向いているというのに、どの目も等しく怯えたような濡れ方をしていた。
百々目鬼、と玄丸の内で名が浮かんだ。古い記憶の底にあった分類が、ごく静かに照合される。
妖の類の中でも、特に人里との距離を測りかねている存在だ。人に見られることを恐れながら、自分もまた多くを見てしまう。見ることと見られることが同時に苦痛である、という構造は、実に不合理で、そして理解できる。
「……すみません」
声は低く、しかし丁寧に整えられていた。顔の部分には目はなく、人に近い相貌をしている。その口が、かすかに開いたまま次の言葉を探している。
縁側を横切ってきた真白が、燈台を持ったまま庭の方を向いた。
「あら」
驚きの色はあったが、声には恐れがなかった。このところ訪れる者の種類が多岐にわたっているためか、それとも元よりそういう器の持ち主であるのか。玄丸には判断がつきかねるが、恐らく両方だろうと踏んでいる。
「いらっしゃいませ。冷えてきましたね、中へどうぞ」
百々目鬼は、腕の目をいくつか真白の方へ向けた。その目の動きが、逡巡そのものだった。
「……こんな腕で、お邪魔してよいものかと」
「腕は腕ですから」
真白は燈台を廊下の柱のそばに置き、縁側に座った。百々目鬼が屋敷の中まで入ることを望まないと、その佇まいから見て取ったらしい。土の上に立ったまま、妖は口を閉じた。
玄丸は縁側の端に腹をつけ、静かに二者の間の空気を計った。
「何を見ているのですか、たくさんの目で」
真白が問うと、百々目鬼の腕の目がいくつか、また別の方向に散った。
「見たくないものも、見えてしまうんです」
その声の質が、少しだけ変わった。低い場所から出てくる音だった。
「人の悲しみが。怒りが。隠そうとしているものが。見たいわけじゃない。けれど目は勝手に拾ってしまう。それで……どうしたらいいか」
「見えてしまった分は、どこへ行くんですか」
「どこへも行きません。全部、ここに」
腕を持ち上げようとして、百々目鬼は途中で止めた。目が何十も、じっと動かなくなった。そこに溜まっているのだと、言葉にしなくても分かった。
玄丸は目を細めた。
見ることで傷つく、という在り方を、我はさほど理解に苦しまない。異世界の魔導王だった頃、世界の理を読み続けた我は、読み取れてしまうがゆえに重かった。知識は力であると同時に、荷だった。ならばこの妖の抱えているものも、力の形をした重さだと言える。
ただし。
解決の方向が「見ないようにする」であれば、それは根から間違っている。目が生まれついてのものであるなら、問いを立てるべきは見ること自体ではなく、見た後の置き場だ。
真白が少し考えてから、口を開いた。
「私も、言葉を聞くと、その奥の気持ちが響いてきてしまうことがあります」
百々目鬼の腕の目が、一斉に真白へ向いた。
「人が明るく話していても、その下に疲れがあると分かってしまう。それが辛くて、どう返せばいいか分からなくなることが、ある」
「……あなたも」
「だから、聞こえてしまった分は、なるべく自分の中で静かに置くようにしています。返そうとすると、かえって重くなるから。置いて、一緒にいる、ということが、時々できるような気がして」
百々目鬼は黙った。
腕の目がひとつ、またひとつと、真白の顔から外れた方向へ向き直っていった。松の影へ。砂の白さへ。日が暮れてもまだわずかに残る空の色へ。散っていく目の動きが、先刻より少しだけ、柔らかかった。
玄丸は前脚の上に顎を落とした。
置く、か。
真白の言い方は、我の分析とは別の経路を通っている。同じ場所に辿り着いているかどうかも分からぬ。だが、あの妖の腕の目が、わずかに力を抜いたのは見えた。理論の正否とは関係のない場所で、何かが少し、動いたらしい。
「あの猫は」
百々目鬼が玄丸の方を見た。腕の目が三つほど、この方向に向いている。
「ずっとこちらを見ていますね」
真白が振り向き、玄丸を見て、小さく笑った。
「くろまろは、よく見ています。何を考えているかは、分からないけれど」
玄丸は瞬きをひとつした。それ以上は何もしなかった。
百々目鬼の腕の目の幾つかが、玄丸をしばらく見続けた後、また別の方向に流れた。見られていることへの緊張が、向こうから来なかった。目と目が合っても、何も起きなかった。それが、この妖にとって珍しいことだったのかもしれない。腕の表面がわずかに、弛んだように見えた。
夜が本格的に下りてきた頃、百々目鬼は礼を言って門の外へ出た。来た時よりも少しだけ足取りに重さがなかった。
玄丸は見送ってから、縁側に戻り、毛づくろいを始めた。
見ることと見られることが、同時に苦痛である妖が、この屋敷に来た。そして見られながら、特に傷つかずに帰った。
原因の分析に意味はない。我がただそこに居り、目を逸らさなかった。それだけのことだ。されど、それだけのことが、時として荷を軽くする。この屋敷で過ごす日々の中で、我はそれを何度か、見ている。
尾が一度、弧を描いて止まった。
初秋の夜風が、庭の松をかすかに揺らして、また凪いだ。
【妖怪図鑑】
■百々目鬼
【分類】異形妖怪
【危険度】★☆☆☆☆(低)
【レア度】★★★☆☆(やや珍しい)
【出現場所】人里の境目、夜道、廃屋の近く
【特徴】
人に近い姿をしているが、両腕の表面に無数の目が生えている。目の数は個体によって異なり、数十から百を超えるものまでいるという。それぞれの目は独立して動き、意志とは無関係にさまざまなものを見てしまう。人の感情や隠された意図を敏感に拾ってしまうため、人の多い場所にいることが苦手で、単独で行動することが多い。
【得意技】
・多視点観察:無数の目で、あらゆる方向の細部を同時に把握する。暗がりの中でも視力は衰えない。
・気の読み取り:見るだけで相手の内側の揺らぎを感知する。意図していなくても働く。
【弱点】
・見えすぎることによる疲弊。多くを知覚しすぎて身動きが取れなくなることがある。
・人に見られることへの過敏さ。目を向けられると腕が緊張する。
【生態】
基本的に臆病で、人に危害を加えない。夜明け前後に動き、昼間は物陰に潜むことが多い。見ることは本能であるため止められないが、見えてしまったものをどう扱うかに苦しむ個体が少なくない。一人でいることを好むが、本質的には孤独に慣れておらず、受け入れられる場所を探している節がある。
【玄丸の評価】
「見ることで積み重なっていく、というのは理解できる。問題は、その重さを降ろせる場所があるかどうかだ。見ることをやめろというのは、根の方向が違う。あの妖はそれを、今夜少し分かったかもしれぬ。あるいはまだ分からぬかもしれぬ。どちらでも、また来ればいい。この屋敷は、逃げていかぬゆえ」
【遭遇時の対処法】
目を逸らさず、しかし凝視もしない。普通に接するのが最善で、腕の目を特に話題にしないほうが相手の緊張が和らぐことが多い。急に動いたり声を荒げたりすると全ての目が一点集中して硬直するため注意。
【豆知識】
腕に生えた目は、もともとその者が生前に隠し持っていた銭の罰とも、ひたすら人を盗み見た業とも伝えられるが、実際のところは本人にも由来は分からないことが多いようだ。名の「百々(どど)」は数が多いことを指す古い言い回しで、百を超えるという意味ではないとも言われている。




