昭和22年(1947)自分史を改ざんする男
昭和21年、中村の静かな家を、一人の男が訪ねてきた。
かつての面影はあるものの、すっかり香港の裏社会の空気を纏った男は、かつて満州で共に働き、戦争中に日本側では行方不明とされていたパクだった。彼は朝鮮系中国人の仲間と合流し、香港で裏ビジネスを成功させ、アジア全域をまたにかけて暗躍するチャイナ・マフィアの幹部の地位を手に入れた事を語った。
彼の表情には成功者の余裕だけでなく、いつ誰に今の地位を奪われてしまうか、わからないらしい立場にいる深い焦燥のようなものと影が張り付いていた。今の自分の自己紹介を終えると本題と切り出した。
「実に……言い出しづらい事なのですが」
パクは重々しく頭を下げ、鞄から一冊の小切手帳を取り出し、中村の目の前にそっと置いた。
「私は満州で生き延びたあと、這いつくばるようにして香港へ渡り、這い上がった。今では組織の中で出世して、それなりの立場にいる。……だが、私の過去には『大日本帝国軍人くずれ』という消し去りたい経歴があり、それを理由に蹴落とそうとする上辺だけ仲間という事になっている対立勢力がいる。いつまた奴等から、私の過去を暴くための身元照会をしに貴方のところに来るかもしれない」
パクにとって今や惨めな負け組な大日本帝国軍人として戦場を駆け抜けた過去は、過去の栄誉であった当時からすると今や考えられないほどの面子を潰される恥であり、現在の地位や組織内での立場を危うくする「黒歴史」でしかなかった。組織内や対立組織との蹴落とし合いの中で、何が原因で全てを失うか分からない恐怖から、自分の黒歴史を自らの手で消して回っているという。
「どうかお願いです、先生。もし今後、私に関する身元照会が来ることがあっても、『そんな人物は知らない』と聞き流してほしい。どんな組織名での身元照会が来たとしても。この小切手は、その口止め料だと思って受け取ってほしいんです」
小切手を差し出すパクを見つめ、中村は静かに息をついた。かつて満州の闇の中で、裏交渉の現場で危険におびえながらも共に助け合った若者の面影が、「過去を消したい」と怯える心を抱えながらも威厳を保つボスの中に潜んでいるように見えた。
中村は差し出された小切手に目を向けもしず、ただ穏やかに首を横に振った。
「小切手は受け取れないよ、パク。だが、君の不安も分からないわけではない。……ただ、照会が来ようが来まいが、私にできることは、あの激動の時代を共に生き抜いた者がどう生きたか、その真実を知っていることだけだ。まあ、座りなさい。せっかく遠くから来たんだ。昔話をしよう」
中村は湯を沸かし、古びた茶碗に注いだ。そして、パクがすでに忘れ去りたがっている、あの頃の満州の記憶、そして彼がかつて誇りを持って所属していた「会社」の軌跡を語り始めた。
「君は自分の過去を『黒歴史』だと言うがね、君たちが命がけで働いていたあの満州鉄道の関係会社――あの巨大な国策企業は、戦後、日本本土に戻って名前を変え再出発を果たしたんだよ」
中村は、かつて欧米の植民地主義や「員数主義」に振り回され、すべてを強制させられながらも、インフラや産業の復興を支えて事業継続を果たしたその会社の歩みを聞かせた。現場で泥にまみれ、理不尽な命令に耐えながらも鉄路を支えた者たちの血と汗が、巡り巡って日本を支える礎になるだろうと。
「会社も、そして君たちも、あの戦争の泥沼からはい上がり、それぞれの場所で必死に生き抜いてきた。軍需産業で働いた過去がどんなに苦いものであっても、君が掴んだ成功は、あの陰謀や謀略が渦巻く中で泥まみれになって働いた日々の延長線上にある。歴史は消そうとして消せるものではないし、恥じる必要もない。ただ、引き受けて生きていくしかないと思うがね?」
中村の静かな語り口に、パクは黙ってうなずき、差し出していた小切手をゆっくりと引っ込めた。彼の目は遠い過去の炭鉱の空を見つめるような静けさを取り戻していた。やがて夜が更け、パクは「ありがとう、先生」と言い残して中村の家を去っていった。それが二人の最後の別れとなった。
それから数年の歳月が流れた。
世間は高度成長期の狂騒の真っただ中にあり、日本中が浮かれていた。その折、新聞の経済面に、かつて中村が語った「上場企業となっていた元満鉄系の会社」に関する小さな、しかし衝撃的なニュースが載った。
『〇〇会社、上場廃止。香港に本社をおく外資系ファンドによる買収劇の末に消滅』
戦前からの長い歴史を持ち、戦後の復興を支え、一時は上場を果たして安泰かに見えたその会社は、激しいマネーゲームと時代の荒波の中で外資に買収され、かつての名前を残したまま、実質的にそのアイデンティティを消し去られてしまった。朝の新聞でその記事を目にした中村は、静かにメガネを外し、窓の外を見上げた。
もしかして、パクが仲間と自分の黒歴史を消し去ったのだろうか?
そんな思いに囚われた。だが、遠い香港で過去を消そうと必死にもがきながらも、自分の足で新しい人生を切り開いたパクが、今、心に抱える闇は、もはや中村には理解できないほどの巨大な暗闇に感じられた。




