昭和32年(1957)記録映画上映会
大日本帝国陸軍が昭和12年7月に快進撃をした時の記録を
日本側の視点から捕らえた満鉄映画製作の記録映画
よく、こんなものが連合軍に接収されて闇に葬られずに
保管されていたものだと思ったが、見ていく内に
映像に付けられた字幕は戦後に書かれたものなようだった。
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第1幕 盧溝橋事件
盧溝橋は、北京の南西郊外、永定河に架かる要衝の石橋(マルコ・ポーロ橋)であり、
北京を防衛・あるいは外部から攻略するための交通の要所。
昭和12年(1937年)7月7日に勃発した盧溝橋事件を端緒とする日中戦争の初期(華北戦線)において、盧溝橋およびその周辺、平漢線永定河鉄橋、龍王廟、八宝山、天津市の日本租界、塘沽、豊台。これらの地や拠点は、日本軍による北京・天津周辺の制圧および防衛ライン構築において極めて重要な意味を持っていた。これらは単なる点ではなく、「北京(当時は北平)の西・南側の咽喉をめぐる攻防」および「海から陸へ至る日本側の拠点防衛・展開ルート」を形成していた。
昭和12年7月7日深夜、この盧溝橋のすぐそばで行われていた日本軍の夜間演習に対し、何者かによる銃撃が行われたことをきっかけに、中国軍(国民革命軍第29軍)との間で武力衝突に発展。一時は現地停戦が結ばれたものの破綻し、この盧溝橋事件を契機に日中両国は全面戦争へと突入した。
北京と漢口を結ぶ主要幹線の鉄道(平漢鉄道)が、盧溝橋の脇を流れる永定河を渡るための鉄道橋。北京と南方を結ぶ大動脈であり、軍事輸送の生命線。
永定河鉄橋、
盧溝橋周辺や北京の西方・西北方に位置する、戦術上の高地や重要拠点
龍王廟および 八宝山
それらの地域で戦闘は拡大
豊台、北京の南方に位置し、平漢線と京奉線が交差する鉄道の要衝。1901年の北京議定書に基づき、当時から日本軍(支那駐屯軍歩兵隊)が駐屯していた権利を持つ地域では。盧溝橋事件の前夜から日本軍は豊台に兵力を集中・展開させており、事件発生後は前線基地(集結・発進拠点)として、北京周辺の中国軍掃討作戦や 天津戦闘へ展開していく。
昭和12年7月下旬、北京周辺での戦闘が激化すると同時に、天津市内や周辺の中国軍(保安隊など)も日本軍に対して一斉に攻撃を仕掛けた。
この天津戦闘では、天津の日本租界や中区の日本軍陣地、さらには飛行場などが中国軍の包囲・砲撃を受けたのに対し、日本軍は本土や朝鮮・満州から増援部隊を急派し、激しい市街戦の末に天津を制圧。
天津のさらに下流、海河の河口に位置し、北京・天津の海の玄関口な港湾都市である塘沽の確保は、華北へ向かう日本軍の補給・上陸ルートを維持する上で不可欠な戦闘であった。
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第2幕 北平(北京)、宛平縣城砲撃、一文字山日本軍陣地
シーン1. 北平(北京)
国民政府は首都を南京に移していたため、北京は「北平」と改称されていたが
政治・文化的な中心地であり、華北を支配する中国軍(国民革命軍第29軍)の拠点であった。 昭和12年7月下旬、日本軍(支那駐屯軍)は北平および天津の中国軍に対して大規模な総攻撃を開始。北平市内や周辺でも激しい戦闘が行われ、最終的に中国軍は敗走・撤退し、日本軍は北平を占領。
シーン2. 宛平縣城砲撃
宛平縣城は、盧溝橋の東側に隣接する、城壁に囲まれた小さな古い県都(要塞都市)。城壁のすぐ脇を永定河と盧溝橋が通っていた。
盧溝橋事件の際、中国側の守備隊(第29軍の下部部隊)はこの宛平縣城の中に立てこもっていた。日本側は「城内から銃撃を受けた」として、城門や城壁に向けて野砲などによる砲撃を加えた。この「城壁都市への砲撃と包囲・占領」は、近代的な軍隊(日本軍)が、古い城壁を持つ中国の都市に対して本格的な武力行使を行った象徴的な初動の戦闘であった。
シーン3. 一文字山日本軍陣地
一文字山、盧溝橋や宛平縣城を見下ろす位置に存在した戦術的な要衝(高地)。
高地である「一文字山」の確保は周辺の制圧に不可欠であり、日本軍(支那駐屯軍の一部部隊など)が一文字山に陣地を構築し、中国軍との間で奪い合い・砲撃戦が展開。ここを高台の拠点として押さえたことが、日本軍が周辺の宛平縣城や渡河点を制圧する上で有利に働いた。
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第3幕 29軍平漢線を南下・撤退、広安門事件
シーン1 29軍、平漢線を南下・撤退
. 第29軍の平漢線南下・撤退背景と状況: 宋哲元が率いる中国第29軍は、北平・天津およびその周辺に約4万〜10万人の兵力を展開していたが、日本軍が本土や満州・朝鮮から大規模な増援部隊(支那駐屯軍の増強、関東軍・朝鮮軍の一部派遣)を続々と到着させると、劣勢に立たされた。
7月下旬(特に28日の南苑戦闘などの敗北を経て)、第29軍の主力は北平(北京)市内の維持が不可能と判断し、包囲網を突破あるいは敗走する形で、平漢鉄道(北京と漢口を結ぶ路線)沿いに南方の保定や石家荘方面へ向けて撤退・移動を開始した。 この第29軍の平漢線沿いの南下・撤退により、長年中国側の政治・軍事拠点であった北平(北京)および天津の都市部から中国正規軍の大部分が駆逐されることとなった。
シーン2 広安門事件
広安門は、北平(北京)城壁の西南側に位置する重要な出入り口(城門)の一つで、平漢線方面や外部との交通・物流の要衝。
1937年(昭和12年)7月26日、北平市内の日本軍(支那駐屯軍の一部)が、市外へ出るためあるいは連絡通路を確保するために広安門を通過しようとした際、城門を守っていた第29軍側の部隊との間で突如として銃撃戦(戦闘)が発生。
中国側は「日本軍が許可なく武力で城門を突破しようとした」と主張し、日本側は「通過の約束があったにもかかわらず中国軍が裏切って攻撃してきた」と主張。
この戦闘で双方に死傷者が出たため、北平市内の緊張は一気に最高潮に達し、現地における和平交渉や一時停戦の余地を完全に打ち砕く決定打となった。この直後、日本軍は北平・天津地区の本格的な総攻撃(平津作戦)へと突入していく。
中国軍(第29軍)の組織的な敗走・撤退(平漢線南下)と、都市の要所をめぐる血みどろの市街戦(広安門の戦闘など)へと全面拡大していき、華北の主要都市は日本軍の完全な制圧下となった。
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第4幕 通州守備隊、通州・新南門外の戦闘
シーン1. 通州守備隊
通州、現在の北京市通州区は、北京(北平)の東方約20キロメートルに位置する城郭都市。
当時、この地域には、日本側の支持によって樹立された親日的な地方政権「冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ、首班:殷汝耕)」の機関が置かれていた。
通州には治安維持のため少数の日本軍部隊(通州守備隊・憲兵・特務機関など)が駐屯。それ以上に重要だったのが、同政権が擁する中国人の治安維持部隊「冀東保安隊」。彼らは名目上は親日政権の軍隊・警察だったが、盧溝橋事件以降、周囲の抗日的な空気や国民政府(蒋介石政権)側からの工作員による切り崩しを受け動揺が内部で広がっていた。
シーン2. 通州事件
昭和12年(1937年)7月29日未明、北平・天津方面での日本軍の本格的な作戦に対応するため、通州にいた冀東保安隊の一部が突如として大々的な反乱を起こした。
少数であった日本側の通州守備隊や憲兵隊は完全に不意を突かれ、司令部などの拠点を包囲されて激しい攻撃を受け、城内に暮らしていた日本の民間人(約260人)の多くが保安隊や暴徒によって殺害・襲撃されるという惨劇に発展した。
シーン3. 通州・新南門外の戦闘
新南門とは: 通州の城壁南側にある出入り口の一つであり、当時の城外における戦闘や部隊の移動の要所。
反乱を起こした保安隊の一部、あるいは外部から包囲・攻撃を加えた中国軍部隊に対し、孤立した日本軍の守備隊や、急を聞いて救援に向かった日本軍の部隊(萱嶋連隊などの救援部隊)との間で、この新南門外をはじめとする城門周辺で激しい戦闘が繰り広げられた。日本軍の救援部隊が到着し、新南門外などでの戦闘を経て城内への突入・制圧を試みたが、すでに城内では多数の日本人が犠牲になった後であった。
この通州事件は当時の日本国内に大きな衝撃を与え、対中強硬論を決定づける要因の一つとなった。
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第5幕 天津空爆
シーン1. 天津戦闘と航空支援の背景
戦況の緊迫: 1937年7月下旬、北平(北京)周辺での戦闘が全面化すると同時に、華北の経済・海運の拠点である大都市・天津においても、中国軍(第29軍の部隊や保安隊)が日本の租界や施設に対する包囲・攻撃を開始した(天津戦闘)。
孤立する日本軍と居住者: 天津市内の日本租界や中区などは、数に勝る中国軍の包囲や砲撃を受け、一時は非常に厳しい防衛戦を強いられた。これに対し、日本軍は陸上部隊の増援だけでなく、航空部隊(支那駐屯軍飛行部隊など)による本格的な空中支援・爆撃を実施した。
シーン2. 天津空爆
天津空爆は天津市内およびその周辺に陣取る中国軍の拠点、兵営、司令部、砲兵陣地、抵抗拠点が航空攻撃の標的であった。
当時、日本陸軍の航空部隊は満州や朝鮮方面から飛来、あるいは現地のエングラ(天津)等の飛行場を利用して出撃し、上空から中国軍の陣地に対して爆撃や機銃掃射を行った。 この空爆により、中国軍は主要な通信網や指揮系統、堅固な防御陣地を破壊され、組織的な反撃能力を大きく削がれた。
地上における日本軍の歩兵・砲兵部隊の攻撃と、航空部隊による爆撃が連動したことで、数日で中国軍の防衛線は崩壊し、7月末には日本軍が天津市内を完全制圧した。
天津を空爆と市街戦によって制圧し、中国軍を駆逐したことで、日本軍は海からの玄関口である塘沽から天津、そして北京(北平)に至るまでの補給・兵站ルート(津浦線・平津ルート)を確保することに成功した。
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第6幕 南苑総攻撃
シーン1. 南苑
南苑は、北平(北京)の南郊外にある広大な地域で、当時は中国軍(国民革命軍第29軍)の一大駐屯地(兵営)および軍事訓練基地が置かれていた。中国側の拠点: ここには、第29軍の司令部が置かれていたほか、軍の主力が集結しており、北平防衛における文字通り「心臓部」といえる最重要拠点であった。
シーン2. 南苑総攻撃の経緯と展開(昭和12年7月28日)総攻撃の決断:
盧溝橋事件以降、現地での停戦交渉や和平の模索が続いていたものの次々と破綻し、日本軍は同年7月下旬に不拡大方針を放棄、第29軍を北平・天津地区から駆逐するための本格的な総攻撃(平津作戦)を決定した。
1937年(昭和12年)7月28日朝、日本軍(支那駐屯軍の主力および各地から集結した増援部隊)は、
航空部隊の爆撃支援なども伴う猛烈な攻勢をもって、南苑の中国軍陣地に対する総攻撃を開始。当時、南苑には第29軍の兵士だけでなく、抗日運動に加わった学生義勇兵なども多数含まれており、堅固な陣地で迎撃しましたが、近代的な装備と火力に勝る日本軍の猛攻の前に防衛線が崩壊した。
シーン3. 南苑総攻撃がもたした結果と影響
この戦闘で中国側は司令官格である副軍長の佟麟閣や師長の趙登禹といった高官を含む数千人規模の戦死者を出し、部隊は壊滅的な打撃を受けた。南苑が陥落したことにより、北平市内の防衛を維持できなくなった第29軍の残存主力は、組織を保ったまま南方の平漢線沿い(保定・石家荘方面)へと敗走・撤退。
この南苑総攻撃の勝利によって、華北の政治・軍事の中心地であった北平(北京)の中国軍基盤は完全に瓦解し、日本軍による北平・天津地区の占領が決定的なものとなった。局地的な紛争に過ぎなかった盧溝橋事件が、全面的な日中戦争へ移行した最大の転換点が南苑総攻撃であった。
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第7幕 八達嶺山岳戦
昭和12年(1937年)8月に発生した日中戦争(華北戦線)の八達嶺山岳戦は、北平(北京)の西北方、万里の長城が走る険しい山岳地帯(南口・八達嶺エリア)を舞台に、日本軍(主に第5師団など)と中国軍の間で繰り広げられた、極めて険しい山岳・要塞突破戦闘。
シーン1. 八達嶺、天然の険阻な要塞
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八達嶺は、北京の西北の守りの要であり、古くから首都を守る最終防衛線(居庸関や万里の長城が連なる険しい峡谷・山岳地帯)として知られていた。チャハル省・内蒙古方面への通路、北京から西北へ抜けるこの山岳ルート(京張鉄道沿い)を押さえなければ、内陸のチャハル省や綏遠省方面へ進出・展開することは不可能であった。
シーン2. 南口攻撃、八達嶺の山岳戦
戦闘の背景と経緯(南口作戦の一環)昭和12年7月末に北平・天津を制圧した日本軍は、敗走する中国軍を追撃するとともに、華北から内蒙古方面にかけての敵勢力を掃討するため、大規模な攻勢作戦(チャハル作戦など)を発動した。その突破口となったのが、険しい山々と万里の長城を利用して待ち構える中国軍の防衛線を打ち破る「南口攻撃」および「八達嶺の山岳戦」(1937年8月中旬〜下旬)であった。
周囲は断崖絶壁と険しい山が連なっており、平地のように戦車や重砲を自由に展開することが難しく、歩兵による文字通りの「山岳突撃」と近接戦闘が主体となった。
中国軍は歴史的な万里の長城やその周辺の高地に機関銃陣地や塹壕を築き、頑強に抵抗した。日本軍(第5師団など)は、険しい斜面を登りながら、敵の陣地を一つひとつ小銃や手榴弾、山砲の支援を頼りに攻略していった。
シーン3. 要衝突破
激しい激戦の末、日本軍は8月下旬までに八達嶺および南口の険阻な要衝を突破することに成功。
この山岳戦を制したことで、日本軍はチャハル省の省都・張家口方面への進撃路を開き、華北北部から内蒙古にかけての中国軍の防衛網を完全に分断・無力化することに成功。平地の市街戦とは一味違う、「地形の利を生かした中国軍の要塞防御を、日本軍が多大な苦闘の末に突破した典型的な山岳強襲戦」として位置づけられている。
シーン4. 津浦線 静海占拠
津浦線(天津〜浦口鉄道)は、華北の中心都市である天津と、長江下流の要衝である浦口(南京の対岸)を結ぶ大動脈。南下作戦の軸: 昭和12年7月末に北京・天津一帯を制圧した日本軍は、敗走する中国軍を追撃し、華北からさらに南方(山東省や徐州方面)へと勢力を広げるため、この津浦線に沿って南下する作戦を展開した。
静海は、天津の南方に位置し、津浦線が通る河北省の重要な町(県城)。天津から南へ進軍する際の最初の大きな通過点・拠点。
天津を平定した日本軍の部隊は、8月に入ると津浦線に沿って南下の動きを本格化させた。中国軍は天津南方の要所で迎撃を試みたが、日本軍の砲爆撃と前進の勢いに押され、静海周辺の防衛線を維持できなくなった。
シーン5. 唐官屯への進撃
唐官屯は、静海のさらに南方に位置する津浦線沿いの要衝(駅および集落)であり、その先にはさらに大きな軍事拠点である馬廠や青縣が控えていた。
静海を足場とした日本軍は、敗走しつつも要所要所で抵抗を試みる中国軍を追い、唐官屯へ向けて進撃を開始。唐官屯に総攻撃を行い占拠、馬廠へ進撃すると、馬廠・青縣までをも占拠した。
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今となっては、このフィルムの中で中国軍を蹴散らして快進撃をした大日本帝国陸軍は過去のものとなって、戦勝国となった連合国によって完全に解体され、有能な軍人は全て戦死するか戦争犯罪者として処刑され、地球上から消されてしまった事を理解していて見ているので、こう何も感じないで観ていられるが、同じフィルムを昭和20年8月より前に見ていたら、全く違う事を心に浮かべただろう事は今更、言うまでもない。
見ている元満鉄や元満映の関係者も、「もう今更、どうでもいいじゃないか。過ぎ去った過去の事だ」そんな事を挨拶のように言い合っている。中国とは未だに国交は回復していない。というか大陸で生きようとして無理なのを想い知らされたので、そこにいる全員が内心は同じ事を想っているのだろう。
心に浮かぶ感情は、怒りだったり、嘆きだったり、後悔だったりで違うのだろうが。




