第一章 EP06 一杯だけ
ヤス「もうEP06やのに、全く捜査進んでませんね」
ボス「まだ一日しか経ってない」
ヤス「読者の体感では、けっこう経ってます」
ボス「読者を捜査に入れるな。事件は現場の時間で進む。読者の体感で犯人が捕まるなら、警察はいらない」
新開地の夜は、昼より少しだけ静かだった。
少しだけ、である。
パチンコ屋の音から逃げるように路地を曲がると、古い看板が見えた。
丸い字で、こう書かれている。
お好み焼き『元気』
ヤス「元気そうな店ですね」
ボス「看板は少し疲れている」
ヤス「言わないであげてください」
ボス「疲れた看板の店ほど、だいたい中はちゃんとしている。外見だけ元気な店より信用できる」
ヤス「妙に飲食店を見る目がありますね」
ボス「一般論だ」
ヤス「便利ですね、一般論」
ボスは引き戸の前で足を止めた。
ボス「一杯だけだ」
ヤス「その言葉、もうタイトルみたいになってますよ」
ボス「一杯だけと言った時点で、二杯目を疑われる風潮はよくない。言葉はもっと信用されるべきだ」
ヤス「信用されない人ほど、言葉の信用を語りますね」
ボス「入るぞ」
引き戸を開けると、鉄板の熱とソースの匂いが一気に流れてきた。
店内は広くない。
カウンター席と、小さなテーブルが二つ。
壁には手書きのメニューが貼られている。
豚玉。
すじこん。
そばめし。
瓶ビール。
ヤス「普通にお腹が空きますね」
ボス「捜査後だ。空腹を放置した刑事は、判断を誤る」
ヤス「飲む理由を食事側から作り始めましたね」
ボス「飲むとは言っていない。瓶ビールの存在を確認しただけだ」
カウンターの奥で、女店主が顔を上げた。
年の頃は六十前後。
よく通る声と、手際のいい動き。
鉄板の前に立つ姿が、店そのものに見えた。
セツ子「いらっしゃい。二人?」
ボス「二人です」
ヤス「一杯だけです」
セツ子「一杯だけで帰った人は、あんまり見たことないな」
ヤス「ほら」
ボス「店側の統計を持ち出すな。こちらにはこちらの意思がある」
その時、カウンターの端から声がした。
えびちゃん「せっちゃん、こっちもう一杯」
声の主は、スキンヘッドの男だった。
目の前には、空いたグラスがいくつも並んでいる。
顔は赤い。
姿勢は妙に堂々としている。
だが、明らかに飲みすぎていた。
その横に、小さな丸いロボットが座っていた。
頭部の画面には、にこやかな顔文字が浮かんでいる。
擁護ロボ『ちゃっぴー』
ちゃっぴー「えびちゃん、次は水です」
えびちゃん「酒でええ」
ちゃっぴー「酒は水分ではありますが、回復用ではありません」
えびちゃん「細かいこと言うな」
ちゃっぴー「えびちゃんは飲みすぎているのではありません。水分補給の方向性が少し個性的なだけです」
ヤス「擁護が苦しいですね」
ボス「初対面でロボットの性能を評価するな。だが、今のは擁護というより、被害をやわらかく言い換えただけだ」
ちゃっぴー「評価はおおむね妥当です」
ボス「自分で認めるな」
セツ子は慣れた様子で、えびちゃんの前に水を置いた。
セツ子「はい、水」
えびちゃん「頼んでへん」
セツ子「頼んだんは、ちゃっぴーや」
ちゃっぴー「介護計画に基づく判断です」
えびちゃん「誰が介護や」
ヤス「介護されてますね」
ボス「本人が否定していても、周囲の行動がすべて介護になっている。これはもう事実認定していい段階だ」
ボスとヤスは、カウンターの少し離れた席に座った。
セツ子が鉄板に油を引く。
じゅう、と音が鳴った。
セツ子「何する?」
ボス「瓶ビールを一本」
ヤス「一杯だけはどこへ」
ボス「一本を二人で分ける。これは飲酒量としてはかなり抑制されている」
ヤス「急に節度を数値で演出しないでください」
セツ子「お好みは?」
ボス「豚玉」
ヤス「僕も」
セツ子「はいよ」
鉄板の上に生地が落ちた。
キャベツと豚肉が焼ける匂いが、店の中に広がる。
えびちゃん「花隈の事件、あれどうなったんやろな」
セツ子「キミヤスさんのやつ?」
ヤスは、箸を持つ前に固まった。
ボスは何も言わず、ビールの栓に伸ばしかけた手を止めた。
ヤス「入店してすぐ、事件の話が出ましたね」
ボス「こういう時は、こっちから踏み込むより、相手が勝手に話すのを待つ方がいい。余計な警戒をさせると、出る話も出なくなる」
ヤス「珍しくちゃんと刑事っぽいですね」
ボス「珍しくは余計だ」
えびちゃん「ああ、死んだヤスや」
ヤス「分類が嫌すぎます」
ちゃっぴー「えびちゃんの表現は雑ですが、人物識別としては成立しています」
ヤス「擁護するところですか」
ちゃっぴー「しています」
ボス「お前らも声を落とせ。こちらが聞いていることを悟られたら、ただの聞き込みになる」
ヤス「それでいいのでは」
ボス「今は、ただの客の方が情報を取りやすい」
セツ子は、豚玉を返しながら眉を寄せた。
セツ子「あの人、何日か前にも来とったで」
えびちゃん「来とった来とった。そこ座っとった」
ボス「……ここからは、ただの客では無理だな」
ボスは警察手帳を出した。
セツ子の手が、一瞬だけ止まった。
ボス「神戸県警の鈴木です。今の話、少し詳しく聞かせてもらえますか」
ヤス「真野です」
えびちゃん「警察やったんか」
ちゃっぴー「えびちゃん、今気づきました」
えびちゃん「警察に見えへんかった」
ボス「それは服装の話か、顔つきの話か、態度の話か。どれでも少し問題がある」
ちゃっぴー「えびちゃんは失礼なことを言ったのではありません。観察力が酔っています」
ヤス「便利ですね、その言い換え」
ボス「便利だが、証言の信用度は下がっている」
セツ子は火を少し弱めた。
セツ子「キミヤスさんのことやったら、知っとる範囲でええなら話すけど」
ボス「助かります。事件と関係ないと思うことでも構いません。むしろ、関係ないように見える話の方があとで効くことがあります」
セツ子「あの人、最近ちょっと変やった」
ヤス「変?」
セツ子「前から酒は飲む人やったけど、この前はやたら入口を気にしとった」
ボス「誰かを警戒していた?」
セツ子「そう見えたな」
えびちゃん「俺も見たで。何回も後ろ見とった」
ちゃっぴー「えびちゃんは酔っていましたが、その時点ではまだ観察可能な酔いでした」
えびちゃん「今は?」
ちゃっぴー「現在は、観察される側です」
ヤス「介護ロボ、なかなか厳しいですね」
ボス「厳しいが、分類は分かりやすい」
ボスは手帳を開いて鉛筆を舐めた。
ボス「キミヤスさんは、何を話していました」
セツ子「金の話や」
ヤス「また金ですか」
セツ子「あと、昔の名前」
ボス「昔の名前?」
セツ子「はっきりとは聞こえんかったけどな。『昔のヤスを掘ったら金になる』とか、そんなこと言うとった」
ヤス「また昔のヤス」
ボス「康三郎の証言と重なる。別々の場所で同じ言葉が出るなら、酔っぱらいの戯言として捨てるには早い」
ヤス「ですね」
えびちゃんが、グラスを持ったままうなずいた。
えびちゃん「ローン山側の話もしとったな」
ボス「ローン山側」
えびちゃん「ああ。昔の金貸しやろ」
セツ子「あんた、そういうことは覚えとるんやな」
えびちゃん「酒の席の話は覚えとる」
ちゃっぴー「都合の悪い約束は覚えていません」
えびちゃん「擁護せえ」
ちゃっぴー「えびちゃんは約束を忘れるのではありません。記憶の優先順位が飲食寄りです」
ヤス「擁護になってない」
ボス「ただ、酒の席の話を覚えているなら、今は使える。問題は、どこまで形が残っているかだ」
セツ子は、焼けたお好み焼きを皿に移した。
ソースの匂いが強くなる。
セツ子「キミヤスさんは、コウゾウさんの名前も出しとった」
ボス「コウゾウ」
セツ子「あのじいさん、まだ持っとる。とか何とか」
ヤス「何を持ってるんでしょう」
セツ子「そこまでは知らん。ただ、花の絵がどうとか言うてたな」
ボス「花の絵?」
ヤス「コウゾウさんの部屋にありました」
ボス「……あった。あの時は、俺が地下通路のボタンか何かと言って流したが、笑い話で済ませるには戻ってきすぎている」
ヨシヒコは、箸を持つ手を止めた。
古い部屋。
場違いに明るい花の絵。
犬のヤスの土のついた足。
コウゾウの乾いた靴底。
ボス「セツ子さん、花の絵について、キミヤスさんは何と言っていました」
セツ子「正確には覚えとらん」
えびちゃん「俺は覚えとるで」
ちゃっぴー「えびちゃんの『覚えている』は、五段階中二です」
えびちゃん「低いな」
ちゃっぴー「飲酒補正後は三です」
ヤス「上がるんですか」
ボス「三なら聞く価値はある。話せ」
えびちゃんは、少しだけ真面目な顔になった。
酔ってはいる。
だが、その目には、さっきまでと違う焦点があった。
えびちゃん「キミヤスが言うとった。『コウゾウは帳簿を持ってるんやない。帳簿のありかを隠しとる』って」
ボス「ありか」
えびちゃん「で、『花の絵をまだ飾っとるなら、あのじいさんも未練がある』とか」
ヤス「花の絵が、帳簿の場所と関係ある?」
ボス「分からない。ただ、コウゾウが本当に何も知らないなら、絵の話に反応する必要はない。明日、あの部屋でもう一度確認する」
ちゃっぴーの画面に、にこやかな顔文字が浮かぶ。
ちゃっぴー「情報を整理します」
ボス「急に仕事をするな」
ちゃっぴー「一、キミヤスは事件前にこの店へ来ています」
ヤス「はい」
ちゃっぴー「二、キミヤスは誰かを警戒していました」
ボス「続けろ。そこは重要だ」
ちゃっぴー「三、キミヤスは『昔のヤス』『ローン山側』『コウゾウ』『花の絵』を話題にしています」
えびちゃん「ちゃっぴー、賢いやろ」
ちゃっぴー「えびちゃんの介護で鍛えられました」
えびちゃん「だから介護ちゃう」
セツ子「介護や」
ヤスは小さく笑ったが、すぐに表情を戻した。
ヤス「ボス」
ボス「ああ。花の絵を見直す。ついでに、コウゾウがどこまで嘘をついているかも見る」
セツ子「コウゾウさん、簡単には話さんで」
ボス「知っています。だから、正面から聞くだけでは足りない。黙る場所と、黙らない場所を比べる」
ヤス「刑事っぽいです」
ボス「刑事だ」
セツ子「犬には甘いけどな」
ヤス「犬のヤスですね」
セツ子「そうそう、犬のヤス」
ヤス「もう慣れてきました」
ボス「慣れるな。名前に慣れると、名前が手がかりになった時に見落とす」
セツ子は、二枚目のお好み焼きを焼き始めた。
注文した覚えはない。
だが、誰も止めなかった。
ボス「一杯だけのはずだった」
ヤス「まだ一杯目です」
ボス「お好み焼きが増えている」
セツ子「サービスや」
ヤス「断りづらいやつですね」
えびちゃん「食べたらええ。ここの豚玉はうまい」
ちゃっぴー「えびちゃんの味覚は、飲酒時でも比較的信用できます」
ボス「そこは信用できるのか」
ちゃっぴー「味と借金以外は怪しいです」
えびちゃん「借金は関係ないやろ」
ボス「今、借金と言ったか」
ちゃっぴー「言いました」
えびちゃん「ちゃっぴー、擁護せえ」
ちゃっぴー「えびちゃんは借金しているのではありません。未来の自分に請求書を送っているだけです」
ヤス「最悪の擁護ですね」
ボス「未来の自分に請求書を送るな。だいたい、未来の自分は今の自分より貧しいことが多い」
ヤスが、少しだけボスを見た。
ボスはそれ以上、何も言わなかった。
ボスは、ビールを一口だけ飲んだ。
冷えていた。
ソースの匂いと、鉄板の音と、酔った常連の声。
事件現場とはまるで違う場所なのに、ここにも事件の影は入り込んでいた。
ボス「セツ子さん」
セツ子「何?」
ボス「キミヤスさんが来た日は、誰かと一緒でしたか」
セツ子「一人や」
ボス「店を出たあと、誰かが追った様子は」
セツ子「そこまでは見てへん」
えびちゃん「いや、店の外に一人おったで」
ボス「誰だ」
えびちゃん「顔は見えんかった」
ヤス「また顔が見えない」
えびちゃん「でも、傘は持っとった」
ボス「雨は降っていたか」
セツ子「その日は降ってへん」
ヤス「雨じゃないのに傘」
ボス「顔を隠すためか、あるいは傘そのものに意味があるか。どちらにしても、ただの通行人とは見にくい」
店の中が、少し静かになった。
鉄板の音だけが残る。
セツ子「そういや、その傘の男、花隈の方へ歩いていったな」
ボス「キミヤスさんのあとを?」
セツ子「同じ方向やった」
ヤス「事件の前ですね」
ボス「何日前だ」
セツ子「三日前や」
ヨシヒコは、鉛筆の芯を舐めて手帳に書いた。
三日前。
傘の男。
キミヤスを追う。
花隈方面。
ヤス「ボス、ようやく捜査が進みましたね」
ボス「EP06でな」
ヤス「自分で言いましたね」
ボス「忘れろ」
ちゃっぴー「忘れることは可能です。えびちゃんで実証済みです」
えびちゃん「何をや」
ちゃっぴー「昨日の会計です」
セツ子「思い出してもらおか」
えびちゃん「急に怖い話すな」
ヤスは笑いかけたが、ボスはもう笑っていなかった。
ボス「明日はコウゾウだ。花の絵を見直す。コウゾウの反応も見る。それから、傘の男を探す」
ヤス「飲んでる場合じゃなくなりましたね」
ボス「だから一杯だけだと言った。酒を飲みに来たんじゃない。結果的に酒があっただけだ」
ヤス「言い訳がポンコツ時代の名残っぽいです」
ボス「ポンコツ時代などない」
ヤス「今、時代と言いました」
ボス「言っていない」
カウンターの向こうで、セツ子が二枚目のお好み焼きを皿に移した。
セツ子「はい、もう一枚」
ボス「頼んでいない」
セツ子「元気出し」
ヤス「店名回収ですね」
ボス「事件を回収しろ」
えびちゃんが笑った。
ちゃっぴーも、画面に笑顔を浮かべた。
その夜、ボスの一杯は、結局三杯で終わった。
ただし、お好み焼きは二枚食べた。
次回、第一章 EP07「トントントン」。
事件は進んでいるはずなのに、音だけが妙に気になります。




