表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
44/45

第三章 EP11番外編 あの日の夜の前日

二〇二六年。


淡路島へ向かう、その前の夜。


花隈町の古い家に、雨の音がしていた。


磯辺アヤスは、奥の部屋にいた。


机の上には、古い競馬新聞が置かれていた。


赤い丸が、ひとつだけ残っていた。



ヤオヤノヤス。



その名前の横に、鉛筆で線が引かれていた。


アヤスは、その線を指でなぞった。

消えない線だった。

電話が鳴った。

アヤスは、少しだけ目を閉じた。

それから、電話を取った。


アヤス「はい」


電話の向こうで、男の声がした。


男「出たんですね」

アヤス「出ます」

男「出なくてよかったのに」

アヤス「出ないと、あなたが来るでしょう」


男は、黙った。

雨の音だけが、少し大きくなった。


男「明日、行くんですか」

アヤス「行きます」

男「どこへ」

アヤス「淡路です」

男「ニュー・ヤスダですか」


アヤス「……知っているんですね」


男「聞きました」

アヤス「誰に」

男「誰でもいいでしょう」

アヤス「よくありません」

男「一人で会うつもりですか」

アヤス「はい」

男「だめです」

アヤス「だめでも、会います」


男「また、あの人に会うんですか」

アヤス「会います」

男「何を言われたんですか」


アヤスは、机の上の競馬新聞を見た。



アヤス「もう一度やれ、と」



男「……」



アヤス「断れば、二年前のことを出す、と」

男「二年前」


アヤス「ヤオヤノヤスのことです」


男「忘れたことなんてありません」

アヤス「あなたは忘れていいんです」

男「忘れられるわけないでしょう」


アヤス「あなたは、何も知らなかった」

男「それでも、近くにいました」


アヤス「知らなかった人間は、罪を背負わなくていい」

男「でも、あの人はそうは言わない」

アヤス「だから、私が会うんです」





廊下の向こうで、足音が止まった。

磯辺コウゾウだった。

茶を持って、奥の部屋へ向かっていた。

襖の前で、声が聞こえた。


アヤスの声。


それから、電話の向こうの男の声。

若い声だった。

コウゾウは、襖に手をかけたまま動けなかった。


男「僕が行きます」

アヤス「来ないで」

男「行きます」

アヤス「来ないでください」

男「一人で会わせられません」


アヤス「一人で向き合うために、あなたを逃がしたんです」


男は、黙った。

コウゾウは、息を止めた。

逃がした。


その言葉だけが、廊下に落ちた。


男「逃げたつもりはありません」

アヤス「逃げてください」

男「それでも、血は変わりません」


アヤス「だから、来ないで」

男「そんなことをしてまで?」

アヤス「そんなことをしてでもです」


男「それなら、僕は何のために」


アヤス「生きるためです」


男「あなたを置いて?」

アヤス「私を置いて」

男「そんなの」

アヤス「お願いです」


アヤスの声が、少しだけ震えた。


アヤス「明日は、来ないで」

男「約束できません」

アヤス「してください」

男「……」


アヤス「あなたの名前を、あの人の口から聞きたくありません」

男「僕は、何もしていない」

アヤス「知っています」

男「それでも、あの人は」

アヤス「ええ」

男「あの人は、僕にかぶせる」


アヤス「だから、来ないで」


コウゾウは、茶を持つ手に力を入れた。


湯のみが、小さく鳴った。

アヤス「誰かいますか」


コウゾウは、動かなかった。


男「どうしました」

アヤス「いえ」

男「やっぱり行きます」

アヤス「だめです」

男「だめでも」

アヤス「電話を切ります」

男「待ってください」


アヤス「明日で終わらせます」


男「何を」

アヤス「紀之さんとのことを」

男「そんな簡単に終わる人じゃない」


アヤス「知っています」

男「だったら」



アヤス「だから、終わらせるんです」



男「……」



アヤス「来ないで」



男「……分かりました」

アヤス「本当に?」

男「分かりました」


アヤスは、何も言わなかった。


電話が切れた。





コウゾウは、襖の前に立っていた。

しばらくして、アヤスが襖を開けた。


アヤス「こうちゃん」

コウゾウ「茶、持ってきたんや」

アヤス「ありがとうございます」


コウゾウは、湯のみを差し出した。


アヤスは、それを受け取った。


コウゾウ「明日、どこ行くんや」

アヤス「少し、淡路まで」


コウゾウ「わしの旅行についてくるだけやなかったんか」

アヤス「はい」

コウゾウ「ほな、どこへ行く」


アヤス「少しだけ、会う人がいます」

コウゾウ「行かん方がええ」


アヤスは、薄く笑った。


アヤス「そういうわけにはいきません」

コウゾウ「誰に会う」

アヤス「昔の知り合いです」


コウゾウ「紀之か」


アヤスは、答えなかった。

それが、答えだった。


コウゾウ「まだ、あいつに関わっとるんか」

アヤス「これで最後にします」

コウゾウ「最後にする言うて、最後になった人間を見たことないわ」


アヤス「こうちゃん」

コウゾウ「なんや」


アヤス「明日、もし何かあっても」


コウゾウ「何かって何や」


アヤス「何もありません」


コウゾウ「今、何かあっても言うたやないか」

アヤスは、湯のみを見た。


湯気が、少しだけ揺れていた。


アヤス「私が悪いんです」

コウゾウ「何がや」



アヤス「二年前も」



コウゾウ「……」


アヤス「終わらせておけばよかった」


コウゾウは、アヤスの顔を見た。

その目は、もう明日の方を見ていた。


コウゾウ「わしも行く」

アヤス「だめです」

コウゾウ「なんでや」


アヤス「こうちゃんまで巻き込みたくありません」

コウゾウ「もう巻き込まれとる気がするわ」


アヤスは、笑わなかった。


コウゾウ「さっきの電話」


アヤスの指が止まった。


コウゾウ「男の声やったな」

アヤス「聞いていたんですか」

コウゾウ「聞こえたんや」


アヤス「忘れてください」

コウゾウ「忘れられるかい」

アヤス「お願いします」


コウゾウ「あいつか」


アヤスは、答えなかった。


コウゾウ「まだ、守っとるんか」


アヤス「守らないといけないんです」


コウゾウ「アヤス」

アヤス「誰でもありません」

コウゾウ「誰でもない声なんか、ない」

アヤス「あります」


アヤスは、湯のみを机に置いた。


アヤス「その人にとっては、誰でもない方がいいんです」


コウゾウは、何も言えなかった。


雨の音が、また強くなった。





その夜、コウゾウは眠れなかった。


ニュー・ヤスダ。


紀之。


二年前。


ヤオヤノヤス。


逃がした子。


そして、電話の向こうの男の声。


名前は聞こえなかった。


顔も分からなかった。


それでも、その声だけが耳に残っていた。


次の日の夜。


コウゾウは、淡路島の旅館へ行った。


なぜ行ったのかと聞かれれば、説明できなかった。


ただ、悪いことが起きる気がした。


それだけだった。


あの日の夜は、まだ始まってもいなかった。


次回、第三章 EP12 犯人はヤス。

いよいよ最終回!?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ