第三章 EP12 犯人はヤス
取調室に、時計の音だけが残っていた。
アヤスは、机の向こうで動かなかった。
細いサングラスは、まだ机の上に置かれていた。
ボスは、アヤスを見ていた。
ヤスは、壁際に立っていた。
安藤は、扉のそばにいた。
誰も、アヤスに手錠をかけようとはしなかった。
アヤス「逮捕してください」
もう一度、アヤスは言った。
ボス「できない」
アヤス「なぜですか」
ボス「お前は、紀之を殺していない」
アヤスは、何も言わなかった。
ボス「お前は紀之に会った」
アヤス「はい」
ボス「脅された」
アヤス「はい」
ボス「恨んだ」
アヤス「はい」
ボス「だが、殺してはいない」
アヤスの手が、机の下で握られた。
ボス「殺した人間は、そこを忘れない」
アヤス「……」
ボス「凶器も、場所も、最後の言葉も、お前は言えなかった」
アヤス「覚えていないだけです」
ボス「違う」
アヤス「違いません」
ボス「お前は、紀之が生きていたところまでは見ている」
アヤスは、ボスを見た。
ボス「そこから先を、知らない」
取調室の空気が、少しだけ沈んだ。
ボス「アヤス。お前は、誰を守っている」
アヤス「誰も」
ボス「まだ言うか」
アヤス「誰も守っていません」
ボス「なら、あの子とは誰だ」
アヤスは、答えなかった。
ボス「十二年前、ヤオヤノヤスの件で、紀之に罪をかぶせられそうになった子」
アヤス「……」
ボス「十年前、電話の向こうで、お前を止めようとした男」
ボス「そいつは、来るなと言われていた」
アヤス「……」
ボス「それでも来た」
ボスは、ゆっくり顔を横へ向けた。
*
ボス「十年前の夜を、もう一度並べる」
ヤスード改の画面は、暗いままだった。
誰も、それを起こそうとはしなかった。
ボス「二十二時ごろ。俺は父と口論になった」
ボスの声は、乾いていた。
ボス「父は倒れた。俺も、気を失った」
アヤスは、目を伏せた。
ボス「だが、その時点で父は死んでいなかった」
安藤「死亡確認をした人間がいない」
ボス「そうだ」
ボスは、続けた。
ボス「その後、二十二時三十分ごろ」
ボス「直人が来た」
ボスは、弟の名前を口にした。
ボス「直人も父の死亡確認はしていない」
ボス「倒れている父と、倒れている俺を見た」
ボス「そして、俺を逃がした」
取調室に、古い夜が戻ってきていた。
ボス「その後。アヤス、お前が来た」
アヤス「はい」
ボス「父は生きていた」
ボス「壁にもたれていた」
ボス「話せた」
アヤス「……」
ボス「お前を脅した」
アヤス「……」
ボス「もう一度やれ、と」
アヤス「……」
アヤス「はい」
ボス「断れば、あの子を出す、と」
アヤスは、何も言わなかった。
ボス「そこまでは、お前が見た夜だ」
アヤス「……」
ボス「だが、その後がある」
ボス「二十三時過ぎ。もう一人、部屋に来た」
アヤス「……」
ヤス「……」
安藤「……」
ボス「電話の男だ」
ボス「あの男は、アヤスを止めに来た」
ヤス「……」
ボス「来るなと言われていたのに、来た」
ボス「約束したふりをして、来た」
ヤス「ボス」
ボス「何だ」
ヤス「推測です」
ボス「そうだ」
ヤスは、少しだけ顔を上げた。
ボス「だが、推測には続きがある」
ボスは、机に置かれたサングラスを見た。
ボス「あの子は、名前を変えた」
アヤスの指が、ほんの少し動いた。
ボス「そうだな」
アヤスは、答えなかった。
ボス「紀之から見つからないようにするために」
アヤス「……」
ボス「その名前を、紀之に知られたくなかった」
アヤス「……」
ボス「だからお前は、言えない」
アヤスの唇が、少しだけ震えた。
ボス「だが、名前を変えても、消せないものがある」
ヤス「……」
ボス「十二年前、ヤオヤノヤスは関係者の太ももを噛んだ」
ヤスは、動かなかった。
ボス「負傷者名は空白だった」
安藤「……」
ボス「その空白に、誰が入るのか」
誰も答えなかった。
ボス「それを確かめる」
ヤスが、初めてボスを見た。
*
アヤス「やめてください」
ボス「やめない」
アヤス「お願いします」
ボス「十年前、俺たちは決めすぎた」
ボスは、アヤスを見た。
ボス「倒れている父を、死んだと決めた」
ボスは、ヤスを見た。
ボス「逃げた俺を、犯人だと決めた」
安藤が、目を伏せた。
ボス「黙る弟を、守ったのだと決めた」
ボス「記録のない夜を、終わったのだと決めた」
ボス「だが、まだ終わっていなかった」
ヤス「ボス」
ボス「何だ、ヤス」
ヤス「証拠は、あるんですか」
ボス「ある」
ヤス「どこにですか」
ボス「お前にだ」
ヤスは、動かなかった。
ボス「ヤス」
ヤス「はい」
ボス「なにか、とれ」
取調室が、静かになった。
ヤス「……それは、僕の台詞です」
ボス「今日は俺の台詞だ」
ヤス「何を、ですか」
ボス「ベルト」
ヤスは、ほんの少しだけ笑った。
ヤス「アヤスさんのベルトを取るんですか?」
ボス「違う」
ヤス「では、安藤さんのベルトですか?」
安藤「違います」
ボス「お前のだ」
ヤス「ですよね」
ボス「笑ってごまかすな」
ヤスは、笑うのをやめた。
アヤス「やめてください」
ボス「確認だけだ」
アヤス「やめて」
ボス「ヤス」
ボス「なにか、とれ」
ヤス「……」
ボス「ベルト」
ヤス「……」
ボス「なにか、とれ」
ヤス「……」
ボス「ベルト」
ヤスは、しばらく黙っていた。
それから、ベルトに手をかけた。
金具の音が、小さく鳴った。
ヤスは、ベルトを外した。
ズボンの腰を、ほんの少し下げる。
左の太もも、腰の下あたりに、古い痣があった。
馬に噛まれたような、半円の痕だった。
二つ並んだその形は、どこか蝶の羽にも見えた。
ボスは、その痣を見ていた。
自分の腰の下にあった痣と、よく似ているような気がした。
ボス「ヤオヤノヤスだな」
ヤスは、答えなかった。
ボス「十二年前、ヤオヤノヤスは1番人気で12着に沈んだ」
ボス「その後、関係者の太ももを噛んで負傷させている」
ボス「だが、負傷者名は空白だった」
ボス「そのレースを最後に、ヤオヤノヤスは登録抹消」
ボス「理由欄も空白だった」
ヤスは、何も言わなかった。
ボス「消せなかったのは、その痣だけだ」
アヤス「……」
ボス「ヤス。お前は、ヤオヤノヤスのそばにいた」
ヤス「……」
ボス「お前が、最後の指示を伝えた」
ヤス「……」
ボス「そうだな」
ヤスは、ゆっくりベルトを戻した。
もう、笑わなかった。
ボス「そして、もう一つある」
ヤス「……」
ボス「お前は、コウゾウさんを、こうちゃんと呼んだ」
ヤス「聞き込みで、そう呼ばれていると」
ボス「違う」
ヤス「違いません」
ボス「聞いて覚えた呼び方ではなかった」
ヤスは、黙った。
ボス「あれは、知っている人間の呼び方だった」
アヤスは涙が止まらなかった。
ボス「アヤスは、名前を変えさせたと言った」
ヤス「……」
ボス「母方の名を名乗らせた、とも言った」
ヤス「……」
ボス「ヤス。お前の名字は、真野だな」
ヤスは、答えなかった。
ボス「真野は、母方の名か」
ヤスは、まだ答えなかった。
安藤が、息をのんだ。
ボス「十二年前の空白。太ももの痣。こうちゃんという呼び方。母方の名」
ボス「全部が、お前に戻ってくる」
ヤス「……」
ボス「なぜ、お前はあの時、泣いた」
ヤスが、初めてボスを見た。
*
ボス「あの時だ」
ボスの声が、少しだけ低くなった。
ボス「ベルトを見つけた時」
ヤスは、動かなかった。
ボス「俺に、なにか、とれと言った時」
ヤス「……」
ボス「蝶の痣を見た時」
アヤスが、目を閉じた。
ボス「お前は泣いた」
ヤス「……」
ボス「俺は、父を殺したと思っていた」
ボス「お前も、そう思ったから泣いた」
ヤス「……」
ボス「違うな」
ヤスは動かなかった。
ボス「俺が父を殺したと思ったからじゃない」
ボス「お前が殺した男の息子が、目の前にいたからだ」
取調室が、止まった。
*
ヤス「十二年前、僕は、何も知りませんでした」
ヤスの声は、静かだった。
ヤス「ただ、伝えただけです」
ボス「何を」
ヤス「今日は無理をさせないでください、と」
アヤスの肩が、小さく揺れた。
ヤス「それが、最後の指示になりました」
ヤス「僕は意味も分からず、伝えました」
ヤス「でも、ヤオヤノヤスは負けました」
ヤス「1番人気で、オッズ1.1倍で、12着でした」
ボス「紀之は、それを握った」
ヤス「……」
ヤス「最終指示を出したのはお前だ、と」
ヤス「不正をしたのはお前だ、と」
ヤス「姉が逆らえば、僕を出すと」
ボス「姉」
ヤスは、ようやくアヤスを見た。
ヤス「アヤスは、僕の姉です」
安藤は、何も言わなかった。
ボスも、何も言わなかった。
その沈黙が、答えだった。
ヤス「だから姉は、僕を逃がしました」
ボス「名前を変えた」
ヤス「はい」
ボス「母方の名を名乗った」
ヤス「はい」
ボス「真野」
ヤス「はい」
ヤス「逃げたつもりはありませんでした」
ヤス「でも、逃げました」
ヤス「姉を置いて」
アヤス「違う」
ヤス「違いません」
アヤス「私が逃がしたんです」
ヤス「それでも、僕は逃げました」
取調室の時計が、こつ、と鳴った。
ヤス「十年前の前の日、姉から電話がありました」
ボス「来るなと言われた」
ヤス「はい」
ボス「だが来た」
ヤス「はい」
ボス「なぜだ」
ヤス「止めたかったからです」
ヤス「姉が、また紀之さんに会うと言った」
ヤス「もう一度やれ、と言われた」
ヤス「断れば、僕を出すと言われた」
ヤス「姉は、一人で終わらせるつもりでした」
ヤス「だから、行きました」
ボス「殺すためか」
ヤス「違います」
ヤスは、即座に答えた。
ヤス「殺すつもりはありませんでした」
ヤス「姉を連れて帰るつもりでした」
ヤス「それだけでした」
ボス「部屋に入った時、紀之は」
ヤス「生きていました」
ボス「どこにいた」
ヤス「壁にもたれていました」
ボス「アヤスは」
ヤス「近くにいました」
ボス「紀之は何と言った」
ヤスの顔から、色が消えていった。
ヤス「来たか、と」
ボス「誰に」
ヤス「僕に」
ヤス「逃がした子が、自分から戻ってきたな、と」
アヤスは、目を伏せた。
ヤス「紀之さんは笑っていました」
ヤス「姉を笑っていました」
ヤス「僕を笑っていました」
ヤス「ヤオヤノヤスの最終指示を出した男が、今度は姉を助けに来たんか、と」
ボス「……」
ヤス「お前も、姉も、俺が出したら終わりや、と」
ヤス「姉が断るなら、お前を出す、と」
ヤス「お前が刑事になる道も、全部潰せる、と」
ボス「その時、お前はまだ刑事ではない」
ヤス「はい」
ヤス「でも、なりたかった」
ヤス「罪を背負ってでも、正しい側に行きたかった」
ヤス「でも、紀之さんは言いました」
ヤス「お前みたいなヤスが、正しい側に行けると思うな、と」
ボスは、何も言わなかった。
ヤス「姉は、断りました」
ヤス「もう二度としない、と」
ヤス「紀之さんは怒りました」
ボス「手を上げたのか」
ヤス「腕を掴みました」
アヤスの指が、机の下で動いた。
ヤス「姉は、離してくださいと言いました」
ヤス「離しませんでした」
ヤス「僕は、やめろと言いました」
ボス「やめなかった」
ヤス「はい」
ヤス「僕は、紀之さんを引き離そうとしました」
ヤス「もみ合いになりました」
ヤス「父親と喧嘩した時に、すでに頭を打っていたんだと思います」
ヤス「立っているのがやっとだったんだと思います」
ヤス「でも、その時の僕には分かりませんでした」
ヤス「ただ、姉を離してほしかった」
ヤス「突き飛ばしたのか、振り払ったのか」
ヤス「覚えていません」
ヤス「紀之さんは倒れました」
取調室が、静かになった。
ヤス「それきり、動きませんでした」
ボス「死亡確認は」
ヤス「しました」
ボスの目が、少しだけ揺れた。
ヤス「息を見ました」
ヤス「脈も見ました」
ヤス「僕が見ました」
ヤス「死んでいました」
アヤス「……」
ヤス「僕が、殺しました」
*
誰も、すぐには動けなかった。
アヤスは、顔を上げなかった。
ボスは、ヤスを見ていた。
ヤスは、まっすぐ立っていた。
刑事の顔をしていた。
それが、余計に痛かった。
ボス「その後、何をした」
ヤス「旧ヤスードの記録を触りました」
安藤「改竄したんですね」
ヤス「はい」
ボス「なぜだ」
ヤス「姉を守るためです」
ボス「自分を守るためでもある」
ヤス「はい」
ボス「俺を犯人にするためでもある」
ヤスの顔が、わずかに歪んだ。
ヤス「違います」
ボス「違わない」
ヤス「ボスが犯人になるとは、思っていませんでした」
ボス「だが、そうなった」
ヤス「……はい」
ボス「俺は十年、自分が父を殺したと思っていた」
ヤス「……」
ボス「直人も十年、兄を逃がしたと思っていた」
ヤス「……」
ボス「アヤスも十年、自分のせいだと思っていた」
ヤス「……」
ボス「コウゾウさんも十年、通報しなかった夜を抱えていた」
ヤス「……」
ボス「お前は何を抱えていた」
ヤスは、少しだけ笑った。
笑ったように見えただけだった。
ヤス「ヤスです」
ボス「ふざけるな」
ヤス「すみません」
ボス「何を抱えていた」
ヤス「犯人です」
ボス「……」
ヤス「犯人は、ヤスです」
その言葉だけが、取調室の真ん中に落ちた。
誰も笑わなかった。
誰も突っ込まなかった。
その名前は、もう冗談ではなかった。
アヤス「違う」
ヤス「違いません」
アヤス「私が」
ヤス「姉さん」
アヤスは、止まった。
ヤス「もう、いいです」
アヤス「よくない」
ヤス「十年、よくありませんでした」
ヤスは、ボスを見た。
ヤス「すみませんでした」
ボス「謝る相手が多すぎるな」
ヤス「はい」
ボス「俺だけじゃない」
ヤス「はい」
ボス「父にも、直人にも、アヤスにも、コウゾウさんにも」
ヤス「……」
ボス「それから、お前自身にもだ」
ヤスは、答えなかった。
ボス「……俺が、あの時、終わらせておけばよかったのかもしれないな」
ヤス「違います」
ボス「……」
ヤス「それは、ボスの罪じゃありません」
*
安藤が、一歩前に出た。
安藤「鈴木刑事」
ボス「なんだ」
安藤「ここから先は、あなたがやるべきではありません」
ボスは、安藤を見た。
安藤「あなたは、ヤス田紀之さんの息子です」
ボス「……」
安藤「これ以上は、酷です」
ボスは、何も言わなかった。
ヤスも、何も言わなかった。
アヤスは、机の上のサングラスを見ていた。
安藤は、ヤスの前に立った。
安藤「真野ヤスヒロさん」
ヤス「はい」
安藤「ヤス田紀之さん殺害の容疑で、あなたを逮捕します」
ヤス「わかりました」
ヤスは、抵抗しなかった。
安藤が手錠を出した。
金属の音が、小さく鳴った。
その音が、十年前の夜を閉じていくようだった。
ヤス「ボス」
ボス「なんだ、ヤス」
ヤス「最後まで、刑事でいてください」
ボス「お前もだ」
ヤスは、少しだけ笑った。
ヤス「もう、無理です」
ボス「無理かどうかは、これから決めろ」
ヤス「ボスらしいですね」
ボス「俺は、ボスだからな」
ヤス「はい」
ヤスは、目を伏せた。
ヤス「ボス」
ボス「なんだ」
ヤス「本当に、すみませんでした」
ボスは、すぐには答えなかった。
取調室の外で、誰かの足音がした。
遠くで、サイレンが鳴っていた。
ボス「ヤス」
ヤス「はい」
ボス「行くぞ」
ヤス「……はい」
安藤が、ヤスを連れて歩き出した。
ヤス「姉さん。犬のヤスをお願いします」
アヤスは、泣きながら頷いた。
ボスは泣いていた。
アヤスも泣いていた。
そしてヤスも……
ボス「ヤス!!!!」
ヤス「ボス!!!!」
ボス「ヤス!!!!」
ヤス「ボス!!!!」
ボス「ヤス!!!!」
ヤス「……」
ヤスはコクリとお辞儀した。
アヤスは、立ち上がろうとして、立ち上がれなかった。
ヤスは、一度だけ振り返った。
ボスは、そこに立っていた。
刑事として。
息子として。
そして、十年前の夜を終わらせた男として。
サイレンの音が、近づいてきた。
ヤスの背中が、扉の向こうへ消えた。
取調室には、サングラスだけが残っていた。
そこには、誰の顔も映っていなかった。
『神戸ヤスれんぞくさつじんじけん』
完




