第一章 EP02 ヤスではない男
犬までヤスだった。
その事実を飲み込む間もなく、扉の向こうで古い鍵が外れる音がした。
ゆっくりと扉が開く。
中から顔を出したのは、痩せた老人だった。
白髪交じりの髪を後ろに流し、深い皺の刻まれた顔で、こちらを睨んでいる。
コウゾウ「警察が、朝っぱらから何の用や」
ボス「磯辺コウゾウさんですね」
コウゾウ「だったら何や」
ヤス「こうちゃん、って呼ばれてるそうですね」
コウゾウ「近所の年寄りが勝手に呼んどるだけや」
ボス「佐々木キミヤスさんについて、話を聞かせてください」
コウゾウの表情が、ほんの少しだけ動いた。だがすぐに、元の渋い顔に戻る。
コウゾウ「知らん」
ヤス「まだ名前しか言ってませんよ」
コウゾウ「それ以上も知らん」
ボス「中で話せますか」
コウゾウはしばらく黙っていた。
足元で、茶色と白の混じった雑種犬が低く唸る。
犬「ワン」
コウゾウ「ヤス、座れ」
ヤス「はい」
ボス「おまえではない」
ヤス「ですよね」
犬のヤスは、コウゾウの足元に座った。
コウゾウ「入れ。靴は脱げ。犬の足より汚すなよ」
*
部屋の中は、思ったよりも広かった。
雑居ビルの裏手に残った古い屋敷。外から見れば、ただの古びた一軒家にしか見えなかったが、中は妙に奥行きがあり、何度も増改築を重ねたような造りになっていた。
壁には古い木の棚。棚には、写真立て、古い帳簿、錆びた缶、使われていない黒電話。奥には畳の部屋が続き、さらにその向こうに、小さな台所が見える。
ヤスは思わず周囲を見回した。
ヤス「思ったより広いですね」
コウゾウ「屋敷や」
ヤス「屋敷ですか」
コウゾウ「わしが屋敷や言うたら屋敷や」
ボス「権利書上は」
コウゾウ「急に現実を持ち込むな」
犬のヤスが、部屋の中をとことこと歩いていく。
ヤスは、その足元を見た。
ヤス「犬のヤス、足が土で汚れてますね」
コウゾウ「外で飼っとるから、そりゃ汚れるわい」
ボス「外で?」
コウゾウ「昼間だけや。夜は中に入れとる」
ヤス「過保護ですね」
コウゾウ「犬にくらい優しゅうして何が悪い」
ボスは玄関に並んだ靴を見た。
古い革靴が一足。底は乾いている。雨に濡れた跡も、泥がついた様子もない。
ボス「昨夜、外へ出ましたか」
コウゾウ「出とらん」
ボス「犬の散歩は」
コウゾウ「ヤスは雨が嫌いや」
犬「ワン」
ヤス「賢いですね」
コウゾウ「人間よりな」
ヤス「今、僕の方見ました?」
コウゾウ「見てへん」
ボスは答えず、部屋の奥へ視線を移した。
壁に、一枚の絵が飾られている。古びた額縁に入った、花の絵だった。古い部屋の中で、そこだけ少し場違いに明るい。
ボス「花の絵、綺麗ですね」
コウゾウ「触るな」
ボス「これ取ったら、ボタンとか見つかったりして」
ヤス「何のボタンですか」
ボス「地下通路を開けるボタンだ」
コウゾウ「そんなもんあるかい!」
ボス「地下通路とかないですよね?」
コウゾウ「ない言うとるやろ!」
ヤス「即答ですね」
コウゾウ「この屋敷、雨の日は一階ですら水が染みるんや。地下なんか掘ったら全員沈むわ」
ボス「合理的だ」
ヤス「納得するんですね」
ボスは絵には触れず、その横の棚を見た。
棚の上に、古いマッチ箱が置かれている。
印字はかすれていた。だが、文字は読めた。
――ローン山側。
ヤスがそれに気づき、声をひそめた。
ヤス「ボス」
ボス「見えている」
コウゾウの顔から、わずかに血の気が引いた。
ボス「ローン山側。心当たりは」
コウゾウ「知らん」
ヤス「今、知ってる顔しましたよ」
コウゾウ「知らん言うとるやろ」
ボス「昔、そこで働いていた」
コウゾウ「……働いとっただけや」
ヤス「社長だったんですか」
コウゾウ「誰が社長や。わしはそんな偉い人間ちゃう」
ボス「では、何を」
コウゾウ「帳簿を運んだり、紙をそろえたり、金を数えたり。そんな雑用や」
ヤス「金融屋の雑用にしては、ずいぶん詳しそうですね」
コウゾウ「長くおれば、嫌でも知る」
部屋の空気が、一段重くなる。
さっきまで落ち着きなく歩いていた犬のヤスも、なぜか静かになった。
ボス「佐々木キミヤスさんも、ローン山側の関係者ですか」
コウゾウ「知らん」
ボス「昨日、キミヤスさんと揉めていたそうですね」
コウゾウ「揉めたいうほどやない」
ヤス「怒鳴り合ってたって聞きましたけど」
コウゾウ「年寄りは声が大きいんや」
ボス「金の話だったとか」
コウゾウは犬の頭を撫でる手を止めた。
コウゾウ「金の話なんぞ、誰でもする」
ボス「古い借り、という言葉も出たそうです」
コウゾウは、ゆっくりとボスを見た。
コウゾウ「……この町に、古くない借りなんかないわ」
ヤスはメモを取る手を止めた。
ボス「キミヤスさんは、あなたに金を要求していた」
コウゾウ「勝手に決めるな」
ボス「違いますか」
コウゾウ「金は要求された」
ヤス「されたんですね」
コウゾウ「けど、わしは払っとらん」
ボス「なぜ」
コウゾウ「払う理由がない」
ボス「キミヤスさんは何を材料にしていたんです」
コウゾウは答えない。
窓の外で、車の走る音が遠く響いた。
ボス「昔の帳簿ですか」
コウゾウの眉が、ぴくりと動いた。
ヤス「帳簿?」
ボス「ローン山側にいたなら、誰が誰に金を借りていたか、記録が残っていたはずだ」
コウゾウ「昔のことや」
ボス「その昔のことを、キミヤスさんは今になって持ち出した」
コウゾウ「知らん」
ボス「本当に?」
コウゾウ「知らん言うたら知らん」
ヤス「でも、昨日は揉めた」
コウゾウ「しつこい男やったからな」
ボスは、それ以上追わなかった。今ここで問い詰めても、コウゾウは口を閉ざすだけだ。
ボス「昨夜、三階の部屋へは行きましたか」
コウゾウ「行っとらん」
ボス「キミヤスさんの部屋の玄関ドアには、内側から鍵がかかっていました」
コウゾウ「知らん」
ボス「窓は開いていた」
コウゾウ「もっと知らん」
ボスは窓際へ歩いた。
屋敷の二階窓から、斜め上に雑居ビル三階の窓が見える。
現場の窓は、たしかにこの屋敷から見える位置にあった。
コウゾウは舌打ちした。
コウゾウ「見えるだけや。人間は飛べん」
ボスは窓際へ歩いた。
二階の窓から、斜め上に三階の窓が見える。現場の窓は、たしかにこの部屋から見える位置にあった。
だが、そこへ登るには外壁を伝うしかない。七十歳の老人には、まず無理だった。
まして、外は雨だった。
ボスは玄関の靴をもう一度見た。
底は、乾いている。
ボス「昨夜、外には出ていない」
コウゾウ「何度言わせる」
ボス「少なくとも、雨の中を歩いた形跡はない」
ヤス「じゃあ、コウゾウさんは犯人じゃない?」
ボス「決めるには早い」
コウゾウ「決めて帰れ」
ボス「ただ、三階の窓まで登った人間ではなさそうだ」
コウゾウは、少しだけ息を吐いた。
ヤス「でも、何かは知ってますよね」
コウゾウ「若いの」
ヤス「はい」
コウゾウ「知っとることと、言えることは違う」
ヤス「名言っぽく言ってもだめです」
コウゾウは鼻を鳴らした。
その時だった。
ボスの携帯が鳴った。
画面には、現場に残っている鑑識係の名前が表示されている。
ボス「鈴木だ」
電話の向こうで、鑑識の声が少しだけ上ずっていた。
鑑識「現場から追加です。床に落ちていた紙片ですが」
ボス「何かわかったか」
鑑識「文字が確認できました」
ヤスが、ぴたりと動きを止めた。
ボス「内容は」
鑑識「一文字です」
コウゾウが、犬の頭を撫でる手を止めた。
鑑識「――ヤス、と書いてあります」
部屋の中が、静かになった。
ヤス「……僕、帰っていいですか」
ボス「だめだ」
ヤス「情報量が多いのに、情報量ゼロなんですけど」
ボス「そこが問題だ」
犬のヤスが、小さく鳴いた。
犬「くーん」
ヤス「今の、僕じゃないです」
ボス「わかっている」
コウゾウは、何も言わなかった。
次回、第一章 EP03「ヤス、容疑者になる」。
タイトルの時点で、もう嫌な予感しかしません。




