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第一章 EP02 ヤスではない男

挿絵(By みてみん)


犬までヤスだった。

その事実を飲み込む間もなく、扉の向こうで古い鍵が外れる音がした。

ゆっくりと扉が開く。

中から顔を出したのは、痩せた老人だった。

白髪交じりの髪を後ろに流し、深い皺の刻まれた顔で、こちらを睨んでいる。


コウゾウ「警察が、朝っぱらから何の用や」

ボス「磯辺コウゾウさんですね」

コウゾウ「だったら何や」

ヤス「こうちゃん、って呼ばれてるそうですね」

コウゾウ「近所の年寄りが勝手に呼んどるだけや」

ボス「佐々木キミヤスさんについて、話を聞かせてください」


コウゾウの表情が、ほんの少しだけ動いた。だがすぐに、元の渋い顔に戻る。


コウゾウ「知らん」

ヤス「まだ名前しか言ってませんよ」

コウゾウ「それ以上も知らん」

ボス「中で話せますか」


コウゾウはしばらく黙っていた。

足元で、茶色と白の混じった雑種犬が低く唸る。


犬「ワン」

コウゾウ「ヤス、座れ」

ヤス「はい」

ボス「おまえではない」

ヤス「ですよね」


犬のヤスは、コウゾウの足元に座った。

コウゾウ「入れ。靴は脱げ。犬の足より汚すなよ」







部屋の中は、思ったよりも広かった。

雑居ビルの裏手に残った古い屋敷。外から見れば、ただの古びた一軒家にしか見えなかったが、中は妙に奥行きがあり、何度も増改築を重ねたような造りになっていた。

壁には古い木の棚。棚には、写真立て、古い帳簿、錆びた缶、使われていない黒電話。奥には畳の部屋が続き、さらにその向こうに、小さな台所が見える。


ヤスは思わず周囲を見回した。


ヤス「思ったより広いですね」

コウゾウ「屋敷や」

ヤス「屋敷ですか」

コウゾウ「わしが屋敷や言うたら屋敷や」

ボス「権利書上は」

コウゾウ「急に現実を持ち込むな」



犬のヤスが、部屋の中をとことこと歩いていく。

ヤスは、その足元を見た。


ヤス「犬のヤス、足が土で汚れてますね」

コウゾウ「外で飼っとるから、そりゃ汚れるわい」

ボス「外で?」

コウゾウ「昼間だけや。夜は中に入れとる」

ヤス「過保護ですね」

コウゾウ「犬にくらい優しゅうして何が悪い」



ボスは玄関に並んだ靴を見た。

古い革靴が一足。底は乾いている。雨に濡れた跡も、泥がついた様子もない。



ボス「昨夜、外へ出ましたか」

コウゾウ「出とらん」

ボス「犬の散歩は」

コウゾウ「ヤスは雨が嫌いや」

犬「ワン」

ヤス「賢いですね」

コウゾウ「人間よりな」

ヤス「今、僕の方見ました?」

コウゾウ「見てへん」


ボスは答えず、部屋の奥へ視線を移した。

壁に、一枚の絵が飾られている。古びた額縁に入った、花の絵だった。古い部屋の中で、そこだけ少し場違いに明るい。


ボス「花の絵、綺麗ですね」

コウゾウ「触るな」

ボス「これ取ったら、ボタンとか見つかったりして」

ヤス「何のボタンですか」

ボス「地下通路を開けるボタンだ」

コウゾウ「そんなもんあるかい!」

ボス「地下通路とかないですよね?」

コウゾウ「ない言うとるやろ!」

ヤス「即答ですね」

コウゾウ「この屋敷、雨の日は一階ですら水が染みるんや。地下なんか掘ったら全員沈むわ」

ボス「合理的だ」

ヤス「納得するんですね」


ボスは絵には触れず、その横の棚を見た。

棚の上に、古いマッチ箱が置かれている。

印字はかすれていた。だが、文字は読めた。


――ローン山側。


ヤスがそれに気づき、声をひそめた。

ヤス「ボス」

ボス「見えている」


コウゾウの顔から、わずかに血の気が引いた。



ボス「ローン山側。心当たりは」

コウゾウ「知らん」

ヤス「今、知ってる顔しましたよ」

コウゾウ「知らん言うとるやろ」

ボス「昔、そこで働いていた」

コウゾウ「……働いとっただけや」

ヤス「社長だったんですか」

コウゾウ「誰が社長や。わしはそんな偉い人間ちゃう」

ボス「では、何を」

コウゾウ「帳簿を運んだり、紙をそろえたり、金を数えたり。そんな雑用や」

ヤス「金融屋の雑用にしては、ずいぶん詳しそうですね」

コウゾウ「長くおれば、嫌でも知る」



部屋の空気が、一段重くなる。

さっきまで落ち着きなく歩いていた犬のヤスも、なぜか静かになった。



ボス「佐々木キミヤスさんも、ローン山側の関係者ですか」

コウゾウ「知らん」

ボス「昨日、キミヤスさんと揉めていたそうですね」

コウゾウ「揉めたいうほどやない」

ヤス「怒鳴り合ってたって聞きましたけど」

コウゾウ「年寄りは声が大きいんや」

ボス「金の話だったとか」


コウゾウは犬の頭を撫でる手を止めた。

コウゾウ「金の話なんぞ、誰でもする」

ボス「古い借り、という言葉も出たそうです」



コウゾウは、ゆっくりとボスを見た。

コウゾウ「……この町に、古くない借りなんかないわ」



ヤスはメモを取る手を止めた。

ボス「キミヤスさんは、あなたに金を要求していた」

コウゾウ「勝手に決めるな」

ボス「違いますか」

コウゾウ「金は要求された」

ヤス「されたんですね」

コウゾウ「けど、わしは払っとらん」

ボス「なぜ」

コウゾウ「払う理由がない」

ボス「キミヤスさんは何を材料にしていたんです」



コウゾウは答えない。

窓の外で、車の走る音が遠く響いた。

ボス「昔の帳簿ですか」



コウゾウの眉が、ぴくりと動いた。

ヤス「帳簿?」

ボス「ローン山側にいたなら、誰が誰に金を借りていたか、記録が残っていたはずだ」

コウゾウ「昔のことや」

ボス「その昔のことを、キミヤスさんは今になって持ち出した」

コウゾウ「知らん」

ボス「本当に?」

コウゾウ「知らん言うたら知らん」

ヤス「でも、昨日は揉めた」

コウゾウ「しつこい男やったからな」


ボスは、それ以上追わなかった。今ここで問い詰めても、コウゾウは口を閉ざすだけだ。

ボス「昨夜、三階の部屋へは行きましたか」

コウゾウ「行っとらん」

ボス「キミヤスさんの部屋の玄関ドアには、内側から鍵がかかっていました」

コウゾウ「知らん」

ボス「窓は開いていた」

コウゾウ「もっと知らん」


ボスは窓際へ歩いた。

屋敷の二階窓から、斜め上に雑居ビル三階の窓が見える。

現場の窓は、たしかにこの屋敷から見える位置にあった。


コウゾウは舌打ちした。

コウゾウ「見えるだけや。人間は飛べん」


ボスは窓際へ歩いた。

二階の窓から、斜め上に三階の窓が見える。現場の窓は、たしかにこの部屋から見える位置にあった。

だが、そこへ登るには外壁を伝うしかない。七十歳の老人には、まず無理だった。

まして、外は雨だった。


ボスは玄関の靴をもう一度見た。

底は、乾いている。


ボス「昨夜、外には出ていない」

コウゾウ「何度言わせる」

ボス「少なくとも、雨の中を歩いた形跡はない」

ヤス「じゃあ、コウゾウさんは犯人じゃない?」

ボス「決めるには早い」

コウゾウ「決めて帰れ」

ボス「ただ、三階の窓まで登った人間ではなさそうだ」



コウゾウは、少しだけ息を吐いた。

ヤス「でも、何かは知ってますよね」

コウゾウ「若いの」

ヤス「はい」

コウゾウ「知っとることと、言えることは違う」

ヤス「名言っぽく言ってもだめです」


コウゾウは鼻を鳴らした。




その時だった。

ボスの携帯が鳴った。




画面には、現場に残っている鑑識係の名前が表示されている。

ボス「鈴木だ」


電話の向こうで、鑑識の声が少しだけ上ずっていた。

鑑識「現場から追加です。床に落ちていた紙片ですが」

ボス「何かわかったか」

鑑識「文字が確認できました」


ヤスが、ぴたりと動きを止めた。

ボス「内容は」

鑑識「一文字です」


コウゾウが、犬の頭を撫でる手を止めた。




鑑識「――ヤス、と書いてあります」




部屋の中が、静かになった。


ヤス「……僕、帰っていいですか」

ボス「だめだ」

ヤス「情報量が多いのに、情報量ゼロなんですけど」

ボス「そこが問題だ」


犬のヤスが、小さく鳴いた。

犬「くーん」

ヤス「今の、僕じゃないです」

ボス「わかっている」


コウゾウは、何も言わなかった。

次回、第一章 EP03「ヤス、容疑者になる」。

タイトルの時点で、もう嫌な予感しかしません。

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