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第一章 EP01 最初の殺人

本作はフィクションです。

実在の人物・団体・事件・地名・企業・作品等とは関係ありません。

作中の犯罪・捜査・法律・AI等の描写は、物語上の演出としてお楽しみください。


挿絵(By みてみん)


十年後、2036年。


神戸県警、捜査一課。




その電話は、署の奥に置かれていた。




誰が使っているのかもわからない。

撤去される予定もない。

ただ、昔からそこにあるという理由だけで残されている黒電話だった。




午前二時十三分。




その黒電話が、鳴った。




ジリリリリリリリリリ。




部屋にいた刑事たちが、一斉に顔を上げる。




誰も取ろうとしない。




鈴木ヨシヒコは、書類から目を離した。




「……まだ鳴るのか、それ」




黒電話は、まだ鳴っている。




ジリリリリリリリリリ。




ヨシヒコはため息をつき、受話器を取った。




「はい。捜査一課、鈴木です」




受話器の向こうで、少しだけ間があった。




それから、男の声がした。


男「花隈町で、人が死んどる」

ヨシヒコ「場所は」

男「古い雑居ビルや。三階の奥」

ヨシヒコ「あなたの名前は」



通話は切れた。




ヨシヒコは、受話器を戻した。




部屋の空気が、少しだけ重くなる。




その時だった。




廊下の向こうから、場違いに明るい声が飛んできた。




「鈴木せんぱーい!」

ヨシヒコは眉を寄せた。

「声が大きい」

走ってきた若い刑事が、勢いよく立ち止まる。



真野「本日から同行します。真野ヤスヒロです。ヤスで構いません。ボスと呼ばせてください!」

ボス「情報量が多い」

真野「刑事っぽいじゃないですか」

ボス「却下だ」

真野「了解です、ボス!」

ボス「聞いていたか?」


ヤスは、まったく悪びれない顔で敬礼した。

ヨシヒコは、机の上の上着を取った。


ボス「花隈町へ行く」


ヤスの顔から、少しだけ笑みが消えた。


ヤス「事件ですか?」

ボス「人が死んでいるらしい」

ヤス「……了解です、ボス」

ボス「その呼び方は却下した」

ヤス「現場へ急ぎましょう、ボス」


ヨシヒコは、もう訂正するのをやめた。







花隈町は、夜明け前の薄い青の中に沈んでいた。




古い雑居ビルの前には、規制線が張られている。

近くの路地には、野次馬が数人。

誰も大声では話さない。




ヨシヒコとヤスは、車を降りた。




ヤスが周囲を見回す。




ヤス「ここ、古い町ですね」

ボス「余計な感想はいらない。現場を見る」

ヤス「はい、ボス」

ボス「ヤス」

ヤス「はい」

ボス「まずは名前で呼べ」

ヤス「鈴木先輩?」

ボス「現場で先輩もやめろ」

ヤス「じゃあ、やっぱりボスですね」


ヨシヒコは答えなかった。




雑居ビルへ入ろうとした時、ヤスがふと足を止めた。




「ボス、あれ」




路地の角に、古い公衆電話があった。




2036年の花隈町に、そこだけ昭和が取り残されたように立っている。




ヨシヒコは、なぜかその電話から目を離せなかった。




理由はわからない。

ただ、かけなければならない気がした。



「ボス?」



ヨシヒコは公衆電話へ歩いた。

ヤスが慌ててついてくる。




ヤス「事件現場、そっちじゃないですよ」

ボス「わかっている」



ヨシヒコは受話器を取った。

何故か無性に電話をかけたくなったんだから仕方がない。




古いプラスチックの匂いがした。


何故だ。


指が、勝手に番号を押す。



0、0、0、0、0、0、0、0、0、0。




呼び出し音は、一度も鳴らなかった。




すぐに、女の子の声が聞こえた。




みかちゃん「こちら、みかちゃん。おでんわありがとう」

みかちゃん「私、ヤスって人が犯人だと思うな」



そこで、通話は切れた。



ヨシヒコは、しばらく受話器を見ていた。



ヤスが横からのぞき込む。



ヤス「ボス、誰ですか今の」

ボス「知らない」

ヤス「知らない人に電話したんですか」

ボス「知らない番号にかけただけだ」

ヤス「それ、同じ意味ですよ」




ヨシヒコは受話器を戻した。




ボス「現場へ行くぞ」

ヤス「今の、かなり重要そうでしたけど」

ボス「この町で『ヤスが犯人』と言われても、情報としては弱い」

ヤス「どういう意味ですか」

ボス「すぐわかる」




ヨシヒコは歩き出した。

その時、朝の光がビルの隙間から差し込んだ。

まぶしいほどの陽射しだった。




ヨシヒコは、なぜか胸ポケットのルーペに手を伸ばしかけた。


太陽を、のぞいてみたくなった。


ヤスの声が飛んだ。



ヤス「ボス」

ボス「何だ」

ヤス「目ぇ危ないから、それだめなやつやで」

ボス「……まだ何もしていない」


ヤス「しそうな顔してました。『わたしの ぼうけんは これで おわってしまった!』 ってなりますよ!」



ヨシヒコは、ルーペから手を離した。

ボス「現場へ行く」







雑居ビルの三階。


奥の部屋の前に、鑑識が集まっていた。


部屋の中には、男が倒れていた。


年齢は五十代半ば。


安っぽいシャツ。


濡れた靴。


床には、割れたグラスと、散らばった紙片。




窓が、少し開いていた。


ヤスは息をのんだ。


ヨシヒコは、遺体から少し距離を取って室内を見た。



ボス「身元は」


鑑識の一人が答える。


鑑識「佐々木キミヤス。近所では、ヤスと呼ばれていたそうです」

ヤス「鍵は?」

鑑識「玄関ドアには、内側からかかっていました」



ヤスは窓の方を見た。




ヤス「じゃあ、犯人はどこから出たんですか」

ボス「あ、窓が開いている。窓からだろう」

ヤス「密室じゃないんですか」

ボス「誰も密室とは言っていない」

ヤス「僕のワクワクを返してください」



ヨシヒコは窓際へ近づいた。



三階の窓は、外側へ少しだけ開いている。

外には足場も非常階段もない。


下には、雨に濡れた細い路地があるだけだった。




ヤス「……でも、ここ三階ですよ」

ボス「だから見る」

ヤス「何をですか」

ボス「太陽をルーペで――」

ヤス「ボス」

ボス「……違う」

ヤス「今、完全に言いかけましたよね」

ボス「窓だ」

ヤス「窓ですね」

ボス「窓が開いていることじゃない。窓までどう来たかだ」




ヨシヒコは窓枠を指差した。




ボス「外から来たなら、何か残る。雨水、泥、擦れた跡。何もない方が不自然だ」

ヤス「つまり、窓は開いてるけど、窓から来たとは限らない?」


ボス「今は、そう考える」




ヨシヒコは部屋の中を見回した。




机の上には、古い写真立てが伏せられている。

壁には、神戸の古い地図。

窓際には、半分枯れた観葉植物。


ヤスが床の紙片に目を落とした。


ヤス「ボス」

ボス「触るな」

ヤス「はい」

ボス「写真を撮れ。鑑識に回す」


ヤス「了解です」







部屋の外へ出ると、近所の住人たちが廊下の奥に集まっていた。



ヨシヒコは一人の老人に声をかける。



ボス「佐々木キミヤスさんについて、何か知っていますか」


老人は、少し考えてから言った。


老人「キミヤスさん? このあたりじゃ、ヤスって呼ばれてました」


ヤスが小さくうなずく。


ヤス「やっぱり」



ヨシヒコは無視した。




ボス「最近、誰かと揉めていた様子は」

老人「揉めとったなあ」

ボス「相手は」

老人「コウゾウや」


ヤスが首をかしげた。


ヤス「コウゾウ?」


ヨシヒコは老人に向き直った。


ボス「失礼ですが、お名前は」


老人は少し胸を張った。


老人「康三郎や」

ヤス「コウザブロウさんですね」

老人「いや、このあたりじゃヤス三郎で通っとる」



ヨシヒコは黙った。



康三郎は、何事もなかったように続けた。



康三郎「コウゾウは、近くの屋敷に住んどる。」



別の住人が口をはさんだ。


住人「コウゾウさん、昨日もキミヤスさんと怒鳴り合うてたで」

ヤス「内容は聞こえましたか」

住人「金の話やったと思う。あと、古い借りがどうとか」



ヤスが反応する。




ヤス「古い借り?」



住人は首をかしげた。



住人「さあな。ここらは古い話が多いんや」



ヨシヒコは表情を変えなかった。



ボス「コウゾウさんの部屋は」

老人「ほら、窓から見てみー大きい屋敷が見えるやろ。表札は出てへんけど、行けばわかる」



ヤスがメモを取る。



ヤス「ボス、コウゾウですね」

ボス「行くぞ」

ヤス「名前にヤスが入ってませんね」




ヨシヒコは足を止めた。




ボス「それを判断材料にするな」

ヤス「でも、この町では逆に不自然じゃないですか」

ボス「するなと言った」

ヤス「了解です、ボス」







壁には古いポスターが何枚も重なって貼られている。


どれも色あせ、何の広告だったのかもわからない。




階段を降りる途中、ヤスが小声で言った。




ヤス「ボス」

ボス「何だ」

ヤス「さっきの、気になりますね」

ボス「ああ、太陽をルーペで見たのがそれほどまずかったか?」

ヤス「窓ですよ! ま・ど!」

ボス「窓までどう来たか、か」

ヤス「被害者がヤス。電話の女の子もヤスが犯人だと」

ボス「偶然だ」

ヤス「本当にそう思ってます?」




ヨシヒコは答えなかった。

コウゾウと言う人物に会いに近くの屋敷に向かう二人であった。







表札のない古い屋敷の玄関前で、二人は立ち止まった。




部屋の中から、犬の鳴き声が聞こえる。




ワン。




ヤスがヨシヒコを見る。




ヤス「犬ですね」

ボス「それがどうした」

ヤス「名前、聞きます?」

ボス「聞かない」

ヤス「でも、もしヤスだったら」

ボス「聞かない」




ヨシヒコは扉をノックした。




中から、しわがれた声がした。




男「誰や」

ボス「警察です。コウゾウさん、話を聞かせてください」



しばらく沈黙があった。



そのあと、犬がまた吠えた。



犬「ワン。ワン。」



男の声が、部屋の奥で低く響いた。



コウゾウ「ヤス、吠えるな」


ヤスが、ゆっくりヨシヒコを見た。


ヨシヒコは、何も言わなかった。


この町では、犬までヤスだった。


ヤスは小さく、犬の鳴き真似をした。


「くーん」


ボス「やめろ。わけがわからなくなる」

次回、第一章 EP02「ヤスではない男」。

ヤスなのか、ヤスではないのか。事件は、まだ入口です。

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