第三章 EP09 涙の代わりに
翌日。
刑事課の電話の前で、安藤フミ子は受話器を取った。
ヤスは、少し離れた場所で立っていた。
安藤「西小路アヤスさんに連絡します」
ヤス「番号、分かるんですか」
安藤は、迷わずボタンを押した。
※15。
ヤス「……短縮なんですね」
安藤「登録されていました」
ヤス「警察署の電話に、アヤスさんが短縮登録されてるんですか」
安藤「そうみたいです」
ヤス「嫌な警察署ですね」
呼び出し音が鳴った。
一度。
二度。
三度目の途中で、音が途切れた。
アヤス「……はい」
安藤「西小路アヤスさんでしょうか」
アヤス「警察ね」
安藤「科捜研の安藤です。十年前の旅館・ニュー・ヤスダについて、確認したいことがあります」
電話の向こうが、少しだけ静かになった。
アヤス「その名前を、どこで聞いたの」
安藤「直接、お話を伺えますか」
アヤス「祖父の件ではないのね」
安藤「関係があるかどうかを、確認したいと思っています」
また、沈黙があった。
ヤスは、受話器を持つ安藤の横顔を見ていた。
アヤス「来なさい」
安藤「ありがとうございます」
アヤス「お礼を言われるような話じゃないわ」
電話は切れた。
安藤は、受話器を置いた。
ヤス「……早かったですね」
安藤「向こうも、こちらが来ると思っていたのかもしれません」
ヤス「人気者はつらいですね」
安藤「ヤスさん」
ヤス「はい。すみません」
安藤は、メモ帳を閉じた。
安藤「行きましょう」
ヤス「はい」
*
正午。
園田。
アヤスが指定した場所は、前に会った部屋だった。
扉の前に立った時、ヤスは一度だけ息を整えた。
安藤が呼び鈴を押す前に、扉が開いた。
黒い服。
細いサングラス。
西小路アヤスは、扉の内側に立っていた。
アヤス「遅かったわね」
ヤス「すみません。道が混んでまして」
アヤス「言い訳が軽い」
ヤス「重い言い訳も用意できます」
安藤「ヤスさん」
ヤス「はい」
アヤスは、何も言わずに部屋の奥へ歩いた。
安藤とヤスは、中へ入った。
部屋は、片づいていた。
片づきすぎていた。
机の上には、湯気のない茶が置かれていた。
アヤス「座れば」
安藤「失礼します」
ヤスは、安藤の少し後ろに座った。
アヤス「科捜研が来る話なの」
安藤「証拠になるかどうかは、まだ分かりません」
アヤス「便利な言い方ね」
ヤス「僕もよく使います」
アヤス「でしょうね」
ヤスは、少しだけ口を閉じた。
安藤「旅館・ニュー・ヤスダをご存じですね」
アヤスは、茶に手を伸ばさなかった。
アヤス「知っているわ」
安藤「行ったことはありますか」
アヤス「あるわ」
安藤「コウゾウさんと一緒に、ですか」
アヤスは、少しだけサングラスの奥を伏せた。
アヤス「祖父と行ったことはある」
安藤「いつ頃ですか」
アヤス「昔の話よ」
安藤「十年前ですか」
アヤス「昔の話」
同じ言い方だった。
ヤス「昔って便利ですよね。十年前も、昨日も、まとめて昔です」
安藤「ヤスさん」
ヤス「はい。昨日は言いすぎました」
アヤスは、ヤスを見た。
アヤス「あなたは、昔を軽く言うのね」
ヤス「軽くしないと、持てない時があります」
アヤスは、何も返さなかった。
安藤「他に、一緒にいた人はいましたか」
部屋の空気が、少しだけ止まった。
アヤス「覚えていません」
ヤス「十年前ですからね。人の記憶は、けっこういい加減でして」
安藤「ヤスさん」
ヤス「はい。刑事の発言としては最低でした」
アヤス「いい加減な記憶ほど、都合よく残るものよ」
ヤスは、笑わなかった。
*
安藤「ヤス田紀之さんを知っていますか」
その名前が出た時、アヤスは初めて茶碗に触れた。
飲むためではなかった。
指先を置いただけだった。
アヤス「知っているわ」
安藤「どんな人物でしたか」
アヤス「人を困らせるのが上手い人」
ヤス「なかなかの紹介文ですね」
アヤス「弱く言う必要がある?」
ヤス「……いえ」
安藤「借金の話を聞いています」
アヤス「でしょうね」
安藤「ローン山側の名前も出ています」
アヤスは、笑わなかった。
アヤス「金を借りる人間より、貸す人間の方が顔を変えるのが上手い」
安藤「紀之さんは、追い詰められていた」
アヤス「追い詰められていたのは、あの男だけじゃない」
安藤のペンが止まった。
安藤「誰のことですか」
アヤス「家族よ」
ヤス「ヤス田家、ですか」
アヤス「そうね」
アヤスは、短く答えた。
ヤスは、そこで一度だけ視線を落とした。
すぐに戻した。
ヤス「紀之さんを、憎んでいましたか」
安藤が、少しだけヤスを見た。
アヤスは、ヤスだけを見ていた。
アヤス「憎むほど、近くにはいなかったわ」
ヤス「では、嫌いだった」
アヤス「消えてほしいと思ったことはある」
部屋の中が、静かになった。
アヤス「でも、思うことと、することは違う」
安藤「その夜、何があったんですか」
アヤスは、茶碗から手を離した。
アヤス「何も」
安藤「何も、ですか」
アヤス「何も、事件にはならなかった」
ヤスは、その言葉を聞いた。
事件に、されなかった。
同じ言葉が、また形を変えて戻ってきた。
*
安藤「黒堂の古い記録に、女、という言葉が残っていました」
アヤス「黒堂」
ヤス「三宮のバーにいる古いAIです」
アヤス「変なものを連れているのね」
ヤス「僕もよく言われます」
安藤「ヤスさん」
ヤス「はい」
安藤「海側の廊下。女。ヤス田紀之。革帯。照会中断」
アヤスは、何も言わなかった。
安藤「この言葉に、心当たりはありますか」
アヤス「古いAIの言葉でしょう」
安藤「証拠ではありません」
アヤス「なら、答える必要もないわ」
安藤「でも、確認する必要はあります」
アヤスは、少しだけ笑った。
アヤス「科捜研は、強いのね」
安藤「弱い証拠を、強く見せるのは嫌いです」
アヤス「正直ね」
安藤「だから、聞いています」
アヤスは、サングラスを外さなかった。
安藤「あなたは、泣かなかったんですか」
ヤスは、安藤を見た。
アヤスは、しばらく黙っていた。
アヤス「誰がそんなことを」
安藤「ヤス兵衛で聞きました」
アヤス「ろくでもない店ね」
ヤス「お水は出ます」
安藤「ヤスさん」
ヤス「はい」
アヤス「泣かなかったわ」
静かな声だった。
アヤス「泣いたら、終わると思っていた」
安藤「何が終わるんですか」
アヤス「立っていること」
ヤスは、少しだけ眉を動かした。
アヤス「泣いたら、座り込む。座り込んだら、動けない。動けなければ、守れない」
安藤「何を、守ろうとしたんですか」
アヤスは、答えなかった。
ヤス「お金、ですか」
アヤス「お金を守る人間に見える?」
ヤス「見えません」
アヤス「なら、聞かないで」
ヤス「すみません。刑事はたまに余計なことを聞きます」
アヤス「あなたは、いつも余計なことを言う」
ヤス「職業病です」
安藤「人を守ろうとしたんですか」
アヤスは、窓の方を見た。
アヤス「巻き込みたくない人がいたの」
その言葉は、小さかった。
けれど、部屋の中ではよく聞こえた。
安藤「巻き込みたくない人?」
アヤスは、すぐに口を閉じた。
ヤスは、茶碗を見た。
アヤス「今のは、忘れて」
ヤス「昨日の昼ごはんより難しいです」
安藤「ヤスさん」
ヤス「はい。すみません」
アヤス「あなたは、忘れるのが下手そうね」
ヤス「よく言われます」
アヤス「でしょうね」
アヤスは、そこで初めて茶を一口飲んだ。
*
安藤「十年前の記録は、作られる前に止まっています」
アヤス「そう」
安藤「驚かないんですね」
アヤス「驚くには、遅すぎる話だから」
安藤「誰が止めたか、心当たりはありますか」
アヤスは、ヤスを見た。
アヤス「それを、私に聞くの」
ヤス「……」
安藤「答えられる範囲で構いません」
アヤス「残酷ね」
アヤス「知らないわ」
安藤「本当に?」
アヤス「名前は知らない」
安藤「名前は」
アヤスは、そこから先を言わなかった。
安藤「では、何を知っているんですか」
アヤス「記録が残らない方が、助かる人間がいた」
ヤス「誰ですか」
アヤス「たくさんいたわ」
アヤスは、立ち上がった。
アヤス「今日はここまで」
安藤「まだ聞きたいことがあります」
アヤス「でしょうね」
ヤス「次回予約は取れますか」
アヤス「短縮ダイヤルにでも入れておきなさい」
ヤス「もう警察署には入ってました」
アヤスは、少しだけ眉を動かした。
アヤス「嫌な警察署ね」
ヤス「僕もそう思います」
安藤は、資料を閉じた。
安藤「また伺います」
アヤス「来なくても、話は勝手に来るわ」
ヤスは、立ち上がった。
扉へ向かう途中で、アヤスが言った。
アヤス「真野さん」
ヤスは、足を止めた。
アヤス「泣かなかった女が、強かったとは限らない」
ヤスは、振り返らなかった。
ヤス「覚えておきます」
*
外に出ると、空は晴れていた。
まぶしいくらいだった。
安藤は、歩きながらメモを確認した。
安藤「旅館・ニュー・ヤスダには行っている」
ヤス「祖父と一緒に」
安藤「ヤス田紀之さんを知っている」
ヤス「嫌っていた」
安藤「泣かなかった」
ヤス「泣けなかった、の方が近いかもしれません」
安藤は、ヤスを見た。
安藤「巻き込みたくない人、という言葉も気になります」
ヤスは、少しだけ空を見た。
ヤス「子どもでしょうか」
安藤「まだ分かりません」
ヤス「分からないことばかりですね」
安藤「分かっていることもあります」
ヤス「何ですか」
安藤「アヤスさんは、何かを隠しています」
ヤスは、小さく笑った。
ヤス「隠していない人を探す方が、難しくなってきましたね」
その時、安藤の端末が短く鳴った。
安藤は画面を見た。
安藤「ヤスード改からです」
ヤス「何か出ましたか」
画面には、短い文字が表示されていた。
旧形式照会。
音声項目あり。
照合不能。
ヤス「音声……」
安藤「声の記録が、残っているかもしれません」
ヤスは、端末の文字を見た。
音声項目あり。
照合不能。
風が、少しだけ強くなった。
泣かなかった女の声だけが、残っているとは限らなかった。
次回、第三章 EP10 書き換えた声。
消えたはずの声が、十年前の夜をもう一度動かします。




