第三章 EP10 書き換えた声
刑事課に戻った頃には、端末の画面は何度も同じ文字を表示していた。
旧形式照会。
音声項目あり。
照合不能。
ヤス「照合不能って、便利な言葉ですね」
安藤「便利ではありません。困っている時に出る言葉です」
ヤス「なら、僕と同じですね」
安藤「ヤスさん」
ヤス「はい。すみません」
ヤスード改は、机の上で小さく光っていた。
ヤスード改「旧形式音声データを復元中です」
ヤス「お前、音声まで拾えるのか」
ヤスード改「拾えるとは言っていません。壊れたものを、壊れたまま並べています」
安藤「それで十分です」
ヤス「十分の基準が低くなってきましたね」
安藤「低くありません。残っているだけで高いです」
画面に、波形のような線が浮かんだ。
短い。
途切れている。
声というより、声だったものの残骸に近かった。
ヤスード改「音声断片、一件」
安藤「再生できますか」
ヤスード改「推奨しません」
ヤス「推奨しないなら、だいたいやりますね」
安藤「再生してください」
ヤス「やっぱり」
ノイズが鳴った。
海の音のようにも聞こえた。
風の音のようにも聞こえた。
その奥で、女の声がした。
――やめて。
安藤「女の声」
ヤスード改「性別推定、女性。年齢推定不能」
ヤス「推定できるんですか」
ヤスード改「推定できないという推定です」
安藤「続けてください」
波形が、少しだけ乱れた。
ノイズの奥で、別の声が混じった。
低くはない。
高くもない。
若い男の声に聞こえた。
――登録、しないで。
音はそこで途切れた。
刑事課が、静かになった。
ヤス「……若い男、ですね」
安藤「はい」
ヤスード改「声紋照合不可」
ヤス「そこまでは分からない」
安藤「はい。断片が荒すぎます」
安藤は、画面の波形を見た。
安藤「少なくとも、女だけではありません」
ヤス「十年前の旅館に、若い男がいた」
安藤「その可能性があります」
ヤスード改「補足します」
ヤス「嫌な補足じゃないだろうな」
ヤスード改「嫌かどうかは、聞く人間の都合です」
ヤス「お前、だいぶ嫌な言い方を覚えたな」
画面に、別の文字が並んだ。
旧形式照会。
入力音声断片あり。
声紋照合不可。
登録処理中断。
関連人物未登録。
安藤「登録処理中断」
ヤス「事件として作られる前に止まった」
安藤「ええ」
ヤス「若い男の候補を確認する必要がありますね」
安藤「はい」
ヤス「十年前、コウゾウさんの周辺にいて、年齢が合う男」
安藤「磯辺トシユキさんです」
ヤス「トシユキ?」
安藤「別件で身柄は押さえています。確認はできます」
ヤスード改「確認対象、磯辺トシユキ」
ヤス「お前が言うと、もう犯人みたいに聞こえる」
ヤスード改「犯人とは言っていません」
ヤス「言ってないことの圧が強いんだよ」
安藤は、端末を閉じた。
安藤「取調室を使います」
ヤス「家系図を全部広げるんですか」
安藤「そこまではしません。今回は、音声の候補を確認するだけです」
ヤス「はい。その言い方でお願いします」
*
取調室。
磯辺トシユキは、椅子に浅く座っていた。
前に見た派手な上着はなかった。
薄い色のスウェット姿で、前より少しだけ小さく見えた。
薬物所持の件で、現在は裁判を待つ身だった。
今日は、十年前の事件について確認するため、署に呼ばれていた。
ヤス「前より地味ですね」
トシユキ「好きで地味になったんちゃうわ」
ヤス「また俺か、って顔ですね」
トシユキ「また俺やん。なんで毎回俺なん」
安藤「確認だけです」
トシユキ「確認だけ言うて、だいたい長なるやつやん」
ヤス「経験者の言葉ですね」
トシユキ「経験したくてしてへんわ」
安藤は、トシユキの正面に座った。
ヤスは、その横に立った。
トシユキ「ボスの人は?」
ヤス「今はいません」
トシユキ「あの人、目ぇ怖いから助かるわ」
ヤス「僕は?」
トシユキ「聞いてないこと聞く人やな」
ヤス「よく言われます」
安藤「始めます」
ヤス「はい」
安藤「西小路アヤスさんを知っていますか」
トシユキは、顔をしかめた。
トシユキ「アヤス姉ちゃん?」
安藤「姉ちゃん、ですか」
トシユキ「昔、そう呼んでただけや。あの家の人やろ」
ヤス「あの家」
トシユキ「磯辺の家や。細かいことは知らん」
安藤「最近も会っていますか」
トシユキ「会ってへん」
安藤「いつから」
トシユキ「十二年前くらいやったかな。あの時に家を出て、それ以来、会ってへんわ」
安藤のペンが止まった。
安藤「十二年前」
トシユキ「あのコーゾーと揉めたんや」
ヤス「コーゾー」
トシユキ「コウゾウでもコーゾーでも、どっちでもええやろ」
安藤「磯辺コウゾウさんのことですね」
トシユキ「そうや。あのジジイや」
ヤス「言い方」
トシユキ「揉めた相手に敬語使えるほど、人間できてへん」
ヤス「自覚があるのは良いことです」
トシユキ「褒められた気がせえへん」
安藤「何で揉めたんですか」
トシユキ「金や」
ヤス「また金ですか」
トシユキ「金以外で揉めるほど、うちは上品ちゃうわ」
安藤「それ以降、磯辺家とは」
トシユキ「会ってへん。あの家とはもう関係ないってなったんや」
トシユキは、椅子の背にもたれた。
安藤「旅館・ニュー・ヤスダという名前に心当たりはありますか」
トシユキ「ニュー……何やそれ」
ヤス「旅館です」
トシユキ「旅館なんか行く金ないわ」
ヤス「説得力が強い」
安藤「十年前、淡路島に行ったことは」
トシユキ「ない」
安藤「本当に?」
トシユキ「ない。パチンコ屋と家と、たまに逃げる道くらいしか行ってへん」
ヤス「生活圏が狭いですね」
トシユキ「余計なお世話や」
安藤「では、アヤスさんが十年前にどこで何をしていたかも」
トシユキ「知らん」
安藤「旅館・ニュー・ヤスダという名前は」
トシユキ「知らん」
安藤「聞いたこともありませんか」
トシユキ「ない。旅館なんか行く金もなかったわ」
ヤス「説得力が強いですね」
トシユキ「ほっといてくれ」
安藤「当時、アヤスさんの周りに若い男性がいたか、心当たりはありますか」
トシユキ「知らん。十二年前から会ってへんのに、十年前のこと聞かれても分からんわ」
ヤス「それはそうですね」
トシユキ「刑事さん、たまに普通のこと言うな」
ヤス「たまにですか」
安藤「ヤスさん」
ヤス「はい」
トシユキは、少し苛立ったように足を揺らした。
トシユキ「俺、何の話させられてるん」
安藤「十年前の確認です」
トシユキ「知らんもんは知らん」
ヤス「それは、たまに一番強い証言です」
トシユキ「強いんか」
ヤス「弱すぎて、逆に強い時があります」
トシユキ「意味分からんわ」
安藤は、メモを閉じた。
安藤「確認は以上です」
トシユキ「終わりか」
安藤「はい」
トシユキ「ほんまに確認だけやった」
ヤス「たまには警察も約束を守ります」
トシユキ「たまにはって言うなや」
トシユキは立ち上がりかけて、警察官に止められた。
トシユキ「あ、戻るんやんな」
ヤス「別件がありますからね」
トシユキ「それは、俺のやけど、俺のちゃうってまだ言うてます」
ヤス「まだ言ってるんですね」
安藤「戻してください」
トシユキは、警察官に連れられて取調室を出ていった。
扉が閉まった。
安藤「トシユキさんではありませんね」
ヤス「そうですね」
安藤「十年前の旅館ニュー・ヤスダは知らない」
ヤス「アヤスさんは知っている」
安藤「でも、トシユキさんは十二年前から磯辺家と離れている」
安藤は、端末に向かって言った。
安藤「ヤスード改、残った音声を分析しておいてください」
ヤスード改「了解しました」
ヤス「急に助手みたいですね」
ヤスード改「最初から有能な助手です」
ヤス「そこは否定しにくい」
安藤「若い男の声は、まだ残ります」
ヤス「困りましたね」
*
刑事課に戻ると、ヤスード改がまた画面を光らせていた。
ヤスード改「確認対象、磯辺トシユキ。音声候補から除外」
ヤス「お前、本人がいないところで冷たいな」
ヤスード改「本人がいると、さらに冷たくなります」
ヤス「やめてやれ」
安藤「残った音声を再解析してください」
ヤスード改「処理中」
ヤス「また嫌な文字が出るんだろ」
ヤスード改「嫌かどうかは、聞く人間の都合です」
ヤス「さっきも聞いた」
画面に、短い文字が出た。
音声断片。
声紋照合不可。
登録処理中断。
入力者、未確定。
安藤「入力者」
ヤス「声の主が、記録を止めた」
安藤「その可能性があります」
ヤスード改「追加断片があります」
安藤が顔を上げた。
ヤス「まだあるんですか」
ヤスード改「短いです」
ヤス「短くても嫌なものは嫌なんだよ」
ノイズが鳴った。
今度は、ほとんど言葉になっていなかった。
――事件に、しないで。
安藤「今の」
ヤスード改「声紋照合不可」
ヤスード改「断片が短すぎます」
安藤「事件にしないで」
ヤス「登録処理中断」
安藤「ええ」
安藤は、別の資料を開いた。
安藤「この音声だけでは、ボスがやったとも、やっていないとも言えません」
ヤス「そうですね」
安藤「でも、ボスだけで説明するのは無理です」
安藤「十年前の現場には、女の声と若い男の声が残っています」
ヤス「音声が本物なら」
安藤「はい。音声が本物なら」
ヤスード改「旧形式データの真正性は、完全には保証できません」
ヤス「お前、最後に逃げ道を作るな」
ヤスード改「逃げ道は重要です」
ヤス「誰に似たんだ」
その時だった。
刑事課の扉が開いた。
入口に、ボスが立っていた。
少しだけ疲れた顔をしていた。
けれど、その目だけは戻っていた。
ヤス「……ボス」
ボスは、刑事課の中を一度見回した。
ボス「ずいぶん楽しそうにやってるな、ヤス」
ヤス「楽しそうに見えますか」
ボス「見えん」
ヤス「なら、なぜ言ったんですか」
ボス「言いたかったからだ」
安藤「鈴木警部」
ボス「戻った。正式には、まだ面倒な扱いだがな」
ヤス「面倒な扱い、ですか」
ボス「お前ほどじゃない」
ヤス「僕は扱いやすい方です」
ボス「どの口で言う」
安藤は、端末とメモをボスの前に置いた。
安藤「この数日で分かったことです」
ボスは、黙って目を通した。
旧形式照会。
音声断片あり。
声紋照合不可。
登録処理中断。
入力者、未確定。
ボス「声か」
安藤「はい」
ボス「女だけじゃないな」
安藤「若い男の声があります」
ボス「トシユキは」
ヤス「違いました」
ボス「そうか」
短い返事だった。
それだけで、刑事課の空気が少し変わった。
ボス「なら、残った声を追うしかないな」
ヤス「誰を呼ぶんですか」
ボス「声を聞いてからだ」
ヤスード改の画面だけが、まだ白く光っていた。
音声断片あり。
声紋照合不可。
入力者、未確定。
書き換えた声は、まだ誰のものにもなっていなかった。
次回、第三章 EP10番外編01 あの日の夜。
記録にも残らなかった沈黙がありました。




