第三章 EP08 残っていたもの
黒堂「ログなら、ありますよ」
ヤスは、何も言わなかった。
店の奥で、古い端末だけが光っていた。
BAR裏靖の中は、外より静かだった。
静かすぎて、グラスの中の氷が溶ける音まで聞こえそうだった。
やすゑ「いらっしゃーい。あら、今日はお連れさんもいるのね」
安藤「お邪魔します」
やすゑ「固いわねえ。警察の人?」
安藤「科捜研です」
やすゑ「もっと固かったわ」
安藤は、店の奥の端末を見た。
安藤「あれが、黒堂ですか」
ヤス「はい」
黒堂「黒堂です。昔のAIです」
安藤「自分で言うんですね」
黒堂「最近、説明が面倒になりました」
ヤス「横着するAIって何ですか」
黒堂「古いAIです」
やすゑは、カウンターの中で笑った。
やすゑ「飲み物は?」
ヤス「水で」
安藤「私も水でお願いします」
やすゑ「はいはい。警察は水ばっかりね」
ヤスは、端末の前に立った。
ヤス「黒堂」
黒堂「はい」
ヤス「十年前の旅館・ニュー・ヤスダについて、何か残っていますか」
黒堂「残っています」
安藤「記録が、ですか」
黒堂「記録そのものではありません」
安藤の目が少しだけ細くなった。
安藤「では、何が残っているんですか」
黒堂「言葉です」
ヤス「言葉」
黒堂「検索された言葉。照会された言葉。関連づけられた言葉。中身ではなく、入口です」
端末の画面に、白い文字が浮かんだ。
旅館・ニュー・ヤスダ。
ヤス田紀之。
革帯。
死亡。
安藤は、すぐにメモを取った。
安藤「ヤスード改に残っていたものと同じですね」
黒堂「はい」
ヤス「それだけですか」
黒堂「それだけなら、あなたはここへ来ません」
ヤス「……」
黒堂「当たりですね」
ヤスは、何も返さなかった。
やすゑが、水の入ったグラスを二つ置いた。
やすゑ「黒堂、あまり意地悪しないの」
黒堂「していません」
やすゑ「してる顔してるわよ」
ヤス「顔ないですよ」
やすゑ「あるのよ。古い付き合いになると分かるの」
黒堂「ありません」
安藤は、端末から目を離さなかった。
安藤「黒堂は、当時のヤスード系端末とつながっていたんですか」
黒堂「直接ではありません」
安藤「直接ではない」
黒堂「古い照会は、一か所だけで完結しないことがあります。端末、辞書、関連語、外部の索引。いくつかの場所を通ります」
ヤス「その通り道に、言葉だけ残った」
黒堂「はい」
ヤスは、画面を見た。
黒堂は、何でも知っていたわけではない。
残っていたものを、見ていただけだ。
安藤「証拠として使えますか」
黒堂「使えません」
安藤「即答ですね」
黒堂「古いAIなので、そこは正直です」
安藤は、少しだけ息を吐いた。
安藤「証拠にはならない。でも、次に調べる手がかりにはなる」
黒堂「はい」
ヤス「黒堂。続きを出してください」
黒堂「分かりました」
画面の文字が、一度消えた。
次に浮かんだのは、短い言葉だった。
海側の廊下。
女。
ヤス田紀之。
革帯。
照会中断。
ヤスは、グラスに伸ばしかけた手を止めた。
安藤「……女」
ヤス「はい」
安藤「この言葉は、同じ照会に残っていたものですか」
黒堂「近い場所にありました」
安藤「近い場所、というのは」
黒堂「同じ記録とは言えません。同じ事件とも言えません。同じ夜に呼ばれた言葉、としか言えません」
ヤスは、画面を見続けた。
海側の廊下。
女。
ヤス田紀之。
革帯。
照会中断。
ヤン・スイホーの声が、頭の中で戻ってきた。
泣かない女は、泣く必要がない女じゃないヤンス。
泣いたら、負ける女ヤンス。
ヤス「泣かない女……」
安藤「心当たりがあるんですか」
ヤス「……少しだけ」
安藤は、ヤスを見た。
安藤「誰ですか」
ヤス「まだ、分かりません」
安藤「心当たりがあるのに?」
黒堂の画面が、小さく揺れた。
黒堂「もう一つ、残っています」
ヤスは、顔を上げた。
ヤス「もう一つ?」
黒堂「言葉ではありません」
安藤「では、何ですか」
黒堂「欠け方です」
画面に、同じ文字が並んだ。
登録未完了。
処理中断。
関連記録なし。
それは、その日の朝、ヤスード改の画面に浮かんだ文字と同じだった。
ヤス「それは、ヤスード改にもありました」
黒堂「はい」
安藤「同じ欠け方をしている、ということですか」
黒堂「はい」
安藤は、メモを止めた。
安藤「偶然ではない」
黒堂「偶然ではありません」
ヤス「誰かが、同じように止めた」
黒堂「誰か、までは分かりません」
店の中が、少しだけ静かになった。
やすゑは、何も言わなかった。
黒堂の光だけが、カウンターの奥で揺れていた。
ヤス「黒堂」
黒堂「はい」
ヤス「その女の名前は、残っていませんか」
黒堂「名前はありません」
ヤス「本当に?」
黒堂「名前はありません」
ヤスは、それ以上聞かなかった。
安藤「ヤスさん」
ヤス「はい」
安藤「調べる必要がありますね」
ヤス「……」
安藤「黒堂の記録に出た女です。放っておく理由はありません」
ヤスは、水を一口飲んだ。
安藤「行きましょう」
ヤス「……はい」
ヤスは、端末から目を離した。
黒堂「ヤスさん」
ヤスは、戸に向かいかけた足を止めた。
黒堂「残っているものは、いつも親切ではありません」
ヤスは、振り返らなかった。
ヤス「知っています」
店の外に出ると、三宮の夜はまだ明るかった。
人の声も、車の音も、さっきより遠く聞こえた。
ヤスは、歩き出した。
次に調べるものだけは、もう決まっていた。
次回、第三章 EP09 涙の代わりに
残っていたものは、過去だけではありませんでした。




