第三章 EP06 ヤス兵衛ふたたび
姫路市安田。
居酒屋ヤス兵衛ののれんは、今日も少し曲がっていた。
ヤスは、その前で足を止めた。
ケイ・ジー刑事「ここですね」
ヤス「はい」
刑事「前に来た時、絵葉書があった店」
ヤスは、店の戸を見た。
前に来た時の壁と、そこに貼られていた絵葉書が頭に浮かんだ。
ヤス「……そうです」
刑事は、戸に手をかけた。
刑事「入りましょう」
ヤスは、少し遅れてうなずいた。
*
「いらっしゃいませー」
カウンターの奥で、ネルソン・ヤスシが顔を上げた。
ヤン・スイホーは、いつもの席で、何かよく分からない豆をつまんでいた。
オコエ・ヤスミン・デ・ラ・サンティシマ・ヤスニダード・ネルソン(通称オヤス)は、壁際でテレビを見ていた。
画面には、誰も走っていない競馬場が映っていた。
ヤン「おお、刑事サン。また来タデヤンス」
刑事「少し、聞きたいことがあります」
ヤン「聞クノハ無料。信ジルノハ有料デヤンス」
ヤス「無料の方でお願いします」
ヤスは、店の壁を見た。
古いポスター。
色の抜けたメニュー。
誰かが置いていった観光地の絵葉書。
その中に、海沿いの建物が写った一枚があった。
刑事「ありました」
刑事は、壁から絵葉書を外した。
絵葉書には、海沿いの建物が写っていた。
古い文字で、旅館・ニュー・ヤスダ、と書かれている。
刑事「これです」
ネルソン「それ、昔からある」
刑事「誰が置いていったものですか」
ネルソンは、首をかしげた。
ネルソン「客」
刑事「どんな客ですか」
ネルソン「人間」
刑事「そこは分かります」
ヤン・スイホーが、豆をひとつ口に入れた。
ヤン「コウゾウ」
ヤスの指が、少しだけ止まった。
刑事「コウゾウ?」
ヤン「老人デヤンス。昔、ココ来タデヤンス。絵葉書、見テタデヤンス」
刑事「磯辺コウゾウさんですか」
ヤン「名前ハ知ラナイデヤンス。コウゾウっぽい顔シテタデヤンス」
刑事は、ヤンを見た。
刑事「それは信用していい話ですか」
ヤン「信用スルカシナイカハ、お客サンノ自由デヤンス」
ネルソン「でも、じいさんは来た」
刑事「本当ですか」
ネルソン「本当。たぶん」
ヤス「たぶん、がつくんですね」
ネルソン「十年前より前か後かは知らない。でも、ニュー・ヤスダの話をしていた」
ヤスは、絵葉書を見た。
旅館・ニュー・ヤスダ。
その名前だけが、やけにはっきり残っていた。
*
刑事「ヤス田紀之さんを知っていますか」
その名前が出た瞬間、店の空気が少しだけ変わった。
ヤンは、豆をつまむ手を止めた。
ネルソンは、グラスを拭く手を止めた。
オヤスだけが、テレビを見ていた。
ヤン「紀之。借金ノ人デヤンス」
刑事「借金」
ヤン「勝ッタ話ハ聞カナイデヤンス。負ケタ話ダケ、ヨク聞イタデヤンス」
刑事「誰に借りていたんですか」
ヤン「名前ハ知ラナイデヤンス。でも、ローン山側ノニオイガシタデヤンス」
ヤスは、何も言わなかった。
刑事「ローン山側」
ヤン「金貸シハ、名前変エテモ金貸シデヤンス。紙トハンコト電話デ、人ヲ縛ルデヤンス」
刑事「紀之さんは、返せなかった」
ヤン「返セナイ人間ハ、二ツニ分カレルデヤンス」
刑事「二つ?」
ヤン「逃ゲル人間ト、死ンダ方ガ金ニナル人間デヤンス」
店の中が、静かになった。
ヤスは、絵葉書から目を離さなかった。
ヤス「保険金の話ですか」
ヤンは、笑った。
ヤン「ヤスサン、早イデヤンス」
ヤス「誰がそんな話をしていたんですか」
ヤン「ミンナ言ッテタデヤンス」
刑事「一番困る答えです」
ヤン「デモ、ダイタイ本当ノコトハ、ミンナ言ッテルデヤンス。誰モ責任取ラナイダケデヤンス」
ネルソン「紀之、家族に迷惑かけたくないって言ってたらしい」
ヤス「誰から聞きましたか」
ネルソン「誰か」
刑事「この店、証言が全部ぼやけますね」
ネルソン「居酒屋だから」
ヤスは、小さく息を吐いた。
そして、絵葉書を見た。
ぼやけた話だけが、壁に残っている。
はっきりした記録は、どこにもない。
*
刑事「この絵葉書を見ていた人は、ほかにいますか」
ネルソンは、ヤンを見た。
ヤンは、オヤスを見た。
オヤスは、まだテレビを見ていた。
刑事「オヤスさん」
オヤス「泣かない女」
ヤスは、顔を上げた。
ヤス「泣かない女?」
オヤス「見てた」
ヤス「この絵葉書をですか」
オヤス「うん」
ヤス「いつですか」
オヤス「前」
ヤス「どれくらい前ですか」
オヤス「前は前」
ヤスは、少し困った顔をした。
刑事「名前は分かりますか」
オヤス「知らない」
刑事「どんな人でしたか」
オヤス「黒い服。細いサングラス」
ヤス「会ったんですか」
オヤス「見ただけ」
ヤスは、黙った。
刑事は、ヤスを見た。
刑事「ヤスさん」
ヤス「……はい」
刑事「心当たりがありますね」
ヤスは、少し間を置いた。
ヤス「……少しだけ」
ヤン「名前ハ、分カラナイデヤンス」
ヤス「……分からない?」
ヤン「デモ、似タ話ニ出テキタ名前ハ、アルデヤンス」
刑事「名前?」
ヤン「アヤス、トイウ名前ハ聞イタ気ガスルデヤンス」
ヤス「会ったことは?」
ヤン「ナイデヤンス。噂ハ勝手ニ歩クデヤンス」
刑事「泣かない女が、その人なんですか」
ヤン「ソレハ、分カラナイデヤンス。名前ト噂ガ、一緒ニ残ッテルダケデヤンス」
刑事「噂、ですか」
ヤン「泣カナイ女ハ、泣ク必要ガナイ女ジャナイデヤンス」
刑事「どういう意味ですか」
ヤン「泣イタラ、負ケル女デヤンス」
オヤス「泣かなかった」
それだけ言うと、オヤスはまたテレビを見た。
画面の中の競馬場には、まだ誰も走っていなかった。
*
刑事は、絵葉書を袋に入れた。
刑事「持ち帰ります」
ネルソン「返してね」
刑事「証拠品になるかもしれません」
ネルソン「じゃあ、返ってこないね」
ヤン「証拠品ハ、帰リ道ヲ忘レルデヤンス」
刑事「あなた方の話も、もう少し聞かせてもらうことになります」
ヤン「イイデヤンス。聞クノハ無料。調書ハ有料デヤンス」
刑事「そこは無料でお願いします」
ヤスは、店の戸に手をかけた。
その時、ヤン・スイホーが言った。
ヤン「刑事サン」
ヤスと刑事が振り返った。
ヤン「死ンダラ終ワリ、ジャナイデヤンス」
刑事「どういう意味ですか」
ヤン「死ンダ人ノ借金ハ、死ンダアトモ歩クデヤンス」
ヤンは、にやりと笑った。
ヤン「誰カノ家マデ、歩イテイク」
ヤスは、その言葉を聞いた。
十年前の夜。
歩いてきたものがある。
金か。
罪か。
記録か。
それとも、もっと別のものか。
*
店を出ると、外の空気は冷たかった。
刑事は、袋に入れた絵葉書を見た。
刑事「ニュー・ヤスダ。紀之さんの借金。保険金。コウゾウさん。泣かない女。それから、アヤスという名前」
ヤス「……多すぎますね」
刑事は、ヤスを見た。
刑事「偶然だと思いますか」
ヤスは、すぐには答えなかった。
ヤス「偶然なら、その方がいいです」
刑事「そうですね」
ヤスは、袋の中の絵葉書を見た。
海沿いの建物。
古い文字。
旅館・ニュー・ヤスダ。
ヤス「でも、偶然じゃないんでしょうね」
刑事は、何も言わなかった。
ヤス「十年前の記録を見ましょう」
刑事「記録、ですか」
ヤス「消されたのか、作られなかったのか」
刑事「……作られなかった?」
ヤスは、絵葉書の袋を見た。
ヤス「そこを見ないと、次に進めません」
刑事「……分かりました」
遠くで、車の音がした。
ヤスは、ふと店の壁を振り返った。
絵葉書があった場所だけ、四角く色が残っていた。
そこに何があったのかを、壁だけが覚えている。
ヤスは、そう思った。
けれど壁は、何も言わなかった。
次回、第三章 EP07 消えた記録。
残っているはずの記録は消え、消したはずの記憶だけが残っていました。




