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第三章 EP06 ヤス兵衛ふたたび

姫路市安田。


居酒屋ヤス兵衛ののれんは、今日も少し曲がっていた。

ヤスは、その前で足を止めた。


ケイ・ジー刑事「ここですね」

ヤス「はい」


刑事「前に来た時、絵葉書があった店」

ヤスは、店の戸を見た。


前に来た時の壁と、そこに貼られていた絵葉書が頭に浮かんだ。


ヤス「……そうです」


刑事は、戸に手をかけた。


刑事「入りましょう」


ヤスは、少し遅れてうなずいた。





「いらっしゃいませー」


カウンターの奥で、ネルソン・ヤスシが顔を上げた。

ヤン・スイホーは、いつもの席で、何かよく分からない豆をつまんでいた。

オコエ・ヤスミン・デ・ラ・サンティシマ・ヤスニダード・ネルソン(通称オヤス)は、壁際でテレビを見ていた。


画面には、誰も走っていない競馬場が映っていた。


ヤン「おお、刑事サン。また来タデヤンス」

刑事「少し、聞きたいことがあります」


ヤン「聞クノハ無料。信ジルノハ有料デヤンス」

ヤス「無料の方でお願いします」


ヤスは、店の壁を見た。


古いポスター。

色の抜けたメニュー。

誰かが置いていった観光地の絵葉書。


その中に、海沿いの建物が写った一枚があった。


刑事「ありました」


刑事は、壁から絵葉書を外した。


絵葉書には、海沿いの建物が写っていた。

古い文字で、旅館・ニュー・ヤスダ、と書かれている。


刑事「これです」

ネルソン「それ、昔からある」

刑事「誰が置いていったものですか」


ネルソンは、首をかしげた。


ネルソン「客」

刑事「どんな客ですか」

ネルソン「人間」


刑事「そこは分かります」


ヤン・スイホーが、豆をひとつ口に入れた。


ヤン「コウゾウ」


ヤスの指が、少しだけ止まった。


刑事「コウゾウ?」

ヤン「老人デヤンス。昔、ココ来タデヤンス。絵葉書、見テタデヤンス」

刑事「磯辺コウゾウさんですか」


ヤン「名前ハ知ラナイデヤンス。コウゾウっぽい顔シテタデヤンス」

刑事は、ヤンを見た。


刑事「それは信用していい話ですか」

ヤン「信用スルカシナイカハ、お客サンノ自由デヤンス」


ネルソン「でも、じいさんは来た」

刑事「本当ですか」

ネルソン「本当。たぶん」

ヤス「たぶん、がつくんですね」

ネルソン「十年前より前か後かは知らない。でも、ニュー・ヤスダの話をしていた」


ヤスは、絵葉書を見た。


旅館・ニュー・ヤスダ。


その名前だけが、やけにはっきり残っていた。





刑事「ヤス田紀之さんを知っていますか」


その名前が出た瞬間、店の空気が少しだけ変わった。


ヤンは、豆をつまむ手を止めた。

ネルソンは、グラスを拭く手を止めた。

オヤスだけが、テレビを見ていた。


ヤン「紀之。借金ノ人デヤンス」

刑事「借金」


ヤン「勝ッタ話ハ聞カナイデヤンス。負ケタ話ダケ、ヨク聞イタデヤンス」

刑事「誰に借りていたんですか」

ヤン「名前ハ知ラナイデヤンス。でも、ローン山側ノニオイガシタデヤンス」


ヤスは、何も言わなかった。


刑事「ローン山側」

ヤン「金貸シハ、名前変エテモ金貸シデヤンス。紙トハンコト電話デ、人ヲ縛ルデヤンス」

刑事「紀之さんは、返せなかった」

ヤン「返セナイ人間ハ、二ツニ分カレルデヤンス」


刑事「二つ?」


ヤン「逃ゲル人間ト、死ンダ方ガ金ニナル人間デヤンス」


店の中が、静かになった。


ヤスは、絵葉書から目を離さなかった。


ヤス「保険金の話ですか」


ヤンは、笑った。


ヤン「ヤスサン、早イデヤンス」


ヤス「誰がそんな話をしていたんですか」


ヤン「ミンナ言ッテタデヤンス」

刑事「一番困る答えです」


ヤン「デモ、ダイタイ本当ノコトハ、ミンナ言ッテルデヤンス。誰モ責任取ラナイダケデヤンス」

ネルソン「紀之、家族に迷惑かけたくないって言ってたらしい」

ヤス「誰から聞きましたか」


ネルソン「誰か」


刑事「この店、証言が全部ぼやけますね」


ネルソン「居酒屋だから」


ヤスは、小さく息を吐いた。

そして、絵葉書を見た。


ぼやけた話だけが、壁に残っている。

はっきりした記録は、どこにもない。





刑事「この絵葉書を見ていた人は、ほかにいますか」


ネルソンは、ヤンを見た。

ヤンは、オヤスを見た。

オヤスは、まだテレビを見ていた。


刑事「オヤスさん」


オヤス「泣かない女」


ヤスは、顔を上げた。


ヤス「泣かない女?」

オヤス「見てた」

ヤス「この絵葉書をですか」

オヤス「うん」

ヤス「いつですか」

オヤス「前」

ヤス「どれくらい前ですか」

オヤス「前は前」


ヤスは、少し困った顔をした。


刑事「名前は分かりますか」

オヤス「知らない」

刑事「どんな人でしたか」

オヤス「黒い服。細いサングラス」

ヤス「会ったんですか」

オヤス「見ただけ」


ヤスは、黙った。

刑事は、ヤスを見た。


刑事「ヤスさん」

ヤス「……はい」

刑事「心当たりがありますね」


ヤスは、少し間を置いた。


ヤス「……少しだけ」


ヤン「名前ハ、分カラナイデヤンス」

ヤス「……分からない?」

ヤン「デモ、似タ話ニ出テキタ名前ハ、アルデヤンス」

刑事「名前?」


ヤン「アヤス、トイウ名前ハ聞イタ気ガスルデヤンス」

ヤス「会ったことは?」

ヤン「ナイデヤンス。噂ハ勝手ニ歩クデヤンス」


刑事「泣かない女が、その人なんですか」

ヤン「ソレハ、分カラナイデヤンス。名前ト噂ガ、一緒ニ残ッテルダケデヤンス」


刑事「噂、ですか」

ヤン「泣カナイ女ハ、泣ク必要ガナイ女ジャナイデヤンス」


刑事「どういう意味ですか」

ヤン「泣イタラ、負ケル女デヤンス」

オヤス「泣かなかった」


それだけ言うと、オヤスはまたテレビを見た。


画面の中の競馬場には、まだ誰も走っていなかった。





刑事は、絵葉書を袋に入れた。


刑事「持ち帰ります」

ネルソン「返してね」

刑事「証拠品になるかもしれません」

ネルソン「じゃあ、返ってこないね」

ヤン「証拠品ハ、帰リ道ヲ忘レルデヤンス」

刑事「あなた方の話も、もう少し聞かせてもらうことになります」


ヤン「イイデヤンス。聞クノハ無料。調書ハ有料デヤンス」

刑事「そこは無料でお願いします」

ヤスは、店の戸に手をかけた。


その時、ヤン・スイホーが言った。


ヤン「刑事サン」


ヤスと刑事が振り返った。


ヤン「死ンダラ終ワリ、ジャナイデヤンス」

刑事「どういう意味ですか」

ヤン「死ンダ人ノ借金ハ、死ンダアトモ歩クデヤンス」


ヤンは、にやりと笑った。


ヤン「誰カノ家マデ、歩イテイク」

ヤスは、その言葉を聞いた。


十年前の夜。


歩いてきたものがある。


金か。

罪か。

記録か。


それとも、もっと別のものか。





店を出ると、外の空気は冷たかった。

刑事は、袋に入れた絵葉書を見た。


刑事「ニュー・ヤスダ。紀之さんの借金。保険金。コウゾウさん。泣かない女。それから、アヤスという名前」

ヤス「……多すぎますね」


刑事は、ヤスを見た。


刑事「偶然だと思いますか」


ヤスは、すぐには答えなかった。


ヤス「偶然なら、その方がいいです」

刑事「そうですね」


ヤスは、袋の中の絵葉書を見た。


海沿いの建物。

古い文字。

旅館・ニュー・ヤスダ。


ヤス「でも、偶然じゃないんでしょうね」


刑事は、何も言わなかった。


ヤス「十年前の記録を見ましょう」

刑事「記録、ですか」

ヤス「消されたのか、作られなかったのか」

刑事「……作られなかった?」


ヤスは、絵葉書の袋を見た。


ヤス「そこを見ないと、次に進めません」

刑事「……分かりました」


遠くで、車の音がした。


ヤスは、ふと店の壁を振り返った。


絵葉書があった場所だけ、四角く色が残っていた。


そこに何があったのかを、壁だけが覚えている。


ヤスは、そう思った。


けれど壁は、何も言わなかった。


次回、第三章 EP07 消えた記録。

残っているはずの記録は消え、消したはずの記憶だけが残っていました。


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