第三章 EP05 事件にされなかった夜
翌朝。
刑事部屋に、ボスの姿はなかった。
机の上には、古い手帳も、短くなった鉛筆もない。
ヤスは、自分の席に座ったまま、ヤスード改の画面を見ていた。
画面には、何も出ていなかった。
声をかけてきたのは、ケイ・ジー刑事だった。
刑事「ヤスさん」
ヤスは、ゆっくり顔を上げた。
刑事「ボスの供述、整理しました」
刑事は、薄い資料を机の上に置いた。
ヤスは、その資料を見た。
ヤス田ヨシヒコ。
その名前が、紙の上にあった。
刑事「十年前、旅館・ニュー・ヤスダで、ヤス田紀之さんが倒れた」
ヤス「はい」
刑事「ボスは、自分がやったと思っている」
ヤス「……はい」
刑事「でも、供述を読む限り、ボスは死亡確認をしていません」
ヤスは、何も言わなかった。
刑事「医者を呼んだ記録もない。警察に連絡した記録もない。現場検証の記録もない」
刑事は、資料を一枚めくった。
刑事「ボスが言っているのは、父親が倒れて、動かなかった。自分がやったと思った。それだけです」
ヤス「それだけ、ですか」
刑事「それだけです」
刑事は、ヤスを見た。
刑事「これで、ボスを犯人にはできません」
ヤスは、小さく息を吐いた。
助かった。
そう思ってはいけない。
ヤスは、そう思った。
刑事「ただし」
ヤスは、顔を上げた。
刑事「ヤス田紀之さんが死んだことは、事実です」
ヤス「……」
刑事「問題は、そこです」
ヤスは、資料に視線を落とした。
紙の上の文字は、どれも正しかった。
正しい文字ほど、嫌なものはない。
*
しばらくして、安藤フミ子が刑事部屋に入ってきた。
片手に、古い資料の束を持っている。
安藤「十年前の照会結果です」
刑事「何か出ましたか」
安藤「出ませんでした」
ヤスが、顔を上げた。
安藤「ヤス田紀之さんの死亡に関する事件記録はありません」
刑事「事件記録がない?」
安藤「はい。少なくとも、通常の事件番号では引っかかりません」
ヤス「事故ですか」
安藤「事故としての記録も、はっきりしません」
ヤス「病死は」
安藤「それも、きれいには残っていません」
刑事「きれいには、というのは」
安藤は、資料を机に置いた。
安藤「死亡した人間はいる。けれど、その死がどう扱われたのかが、ぼやけています」
ヤスは、資料を見た。
ヤス田紀之。
旅館・ニュー・ヤスダ。
十年前。
それだけが、ぼんやりと紙の中に残っていた。
安藤「ただし、ひとつだけ変なものがありました」
刑事「変なもの?」
安藤「遺留品管理票です」
ヤスの指が、少しだけ止まった。
刑事「事件記録がないのに、遺留品管理票があるんですか」
安藤「そこがおかしいんです」
安藤は、別の紙を出した。
安藤「旅館・ニュー・ヤスダ。遺留品。革帯」
ヤス「……革帯」
安藤「コウゾウの屋敷の地下から出た日記断片にも、その言葉がありました」
刑事「十年前の遺留品が、なぜ地下の記録とつながるんですか」
安藤「それを聞きたいのは、こちらです」
安藤は、淡々と言った。
安藤「事件でないなら、遺留品として管理する必要はありません」
刑事「でも、管理票はあるんですよね?」
安藤「はい」
刑事「事件として扱った形跡はないですよね?」
安藤「はい」
刑事「なのに、誰かが、何かを拾って、残しているのですか?」
安藤「そうです」
刑事部屋が、少し静かになった。
ヤスは、何も言わなかった。
安藤「ヤス田紀之さんの死は、事件ではなかったんじゃありません」
ヤスは、ゆっくり安藤を見た。
安藤「事件に、されなかったんです」
その言葉は、部屋の中に残った。
誰も、すぐには返事をしなかった。
*
刑事「ヤス田直人は、兄が父親を殺したと思っていた」
ヤス「……はい」
刑事「だから、兄を守ろうとした」
ヤス「そう、言っていました」
刑事「でも、その前提が崩れます」
ヤスは、黙っていた。
刑事「ボスが父親を殺したとは、まだ言えない」
ヤス「……」
刑事「そもそも、その夜が何だったのかも、まだ分からない」
安藤「十年前の記録は、誰かに触られている可能性があります」
刑事「消された、ということですか」
安藤「消されたのか、最初から作らせなかったのか。そこまでは分かりません」
ヤスは、ヤスード改の画面を見た。
画面は、黒いままだった。
何も言わない画面ほど、よくしゃべる。
ヤスは、そう思った。
刑事「ヤスさん」
ヤス「はい」
刑事「十年前の夜を調べ直します」
ヤス「……分かりました」
刑事「まずは、旅館・ニュー・ヤスダです」
安藤「旅館は、もう残っていません」
刑事「でも、名前は残っています」
ヤスは、刑事を見た。
刑事「確か、姫路で行った居酒屋がありましたよね」
ヤス「……ヤス兵衛」
刑事「絵葉書です」
ヤスは、思い出した。
海沿いの建物が写った、古い絵葉書。
そこには、旅館・ニュー・ヤスダ、と書かれていた。
刑事「偶然にしては、できすぎています」
ヤスは、何も言わなかった。
偶然ではない。
それを、ヤスは知っていた。
刑事「ヤスさん。もう一度、ヤス兵衛に行きましょう」
ヤスは、少しだけ目を伏せた。
行けば、何かが出る。
出てはいけないものが、出る。
それでも、ボスをこのままにはできない。
ヤス「……分かりました」
ヤスード改の画面が、一度だけ光った。
けれど、文字は出なかった。
今度は、やめろ、とは出なかった。
次回、第三章 EP06 ヤス兵衛ふたたび。
忘れた頃に戻ってくる男が、忘れてはいけない証言を連れてきます。




