第三章 EP04番外編 あの日の夜
十年前 2026年
淡路島 洲本
旅館・ニュー・ヤスダ
雨が降っていた。
窓の外で、街灯がにじんでいた。
黄色い光が、濡れたガラスの上で細く伸びていた。
テーブルの上には、空になった缶チューハイが三本。
半分だけ残った安い酒のボトル。
丸められた払込用紙。
その横に、スマホが伏せられていた。
画面を上に向けると、さっきまで開いていた結果表が残っていた。
また外れ。
今日も外れ。
ヤス田紀之は、しばらくその画面を見ていた。
それから、小さく笑った。
笑ったつもりだったのかもしれない。
だが、喉の奥から漏れた音は、ただの息だった。
スマホが震えた。
画面に、短い通知が浮かんだ。
「返済期限は本日中です。
連絡なき場合、ご家族へ確認します。」
紀之は、画面を見た。
「……家族は関係ないやろ」
その声は、雨の音に混じって消えた。
ふすまの向こうで、床が鳴った。
紀之は顔を上げた。
開いたふすまの向こうに、若い男が立っていた。
ヨシヒコだった。
ヨシヒコは、濡れた肩を払うこともせず、紀之を見ていた。
息が荒かった。
怒っているようにも、泣きそうにも見えた。
ヨシヒコ「またか」
紀之「何がや」
ヨシヒコ「また、外したんか」
紀之は、テーブルの上のスマホを伏せた。
紀之「お前には関係ない」
ヨシヒコ「あるやろ」
紀之「ない」
ヨシヒコ「家族に連絡するって来てる」
紀之「見たんか」
ヨシヒコ「見えた」
紀之「勝手に見るな」
ヨシヒコ「勝手に見えるところに置くな」
紀之は、鼻で笑った。
その笑い方が、ヨシヒコの中の何かを逆なでした。
ヨシヒコ「もうやめろ」
紀之「やめたら返せるんか」
ヨシヒコ「返せへんでも、これ以上増やすな」
紀之「増やしたくて増やしてると思うんか」
ヨシヒコ「思う」
紀之の顔が、わずかに歪んだ。
ヨシヒコ「何回同じこと言わせるんや」
紀之「お前に何が分かる」
ヨシヒコ「分かるわ」
紀之「分からん」
ヨシヒコ「分かる。家が潰れる音くらい、毎日聞いてる」
雨の音が強くなった。
紀之は、テーブルの上の払込用紙をつかんだ。
ぐしゃりと丸める。
もう丸まっていた紙が、さらに小さく潰れた。
紀之「家族は関係ない」
ヨシヒコ「その家族を巻き込んでるんは誰や」
紀之「黙れ」
ヨシヒコ「黙らへん」
紀之「黙れ言うてるやろ!」
紀之の手が、酒のボトルに当たった。
ボトルが倒れ、残っていた酒がテーブルに広がった。
安い酒の匂いが、部屋に広がった。
ヨシヒコは、その匂いで少し顔をしかめた。
ヨシヒコ「もう終わりや」
紀之「何が終わりや」
ヨシヒコ「この家も、旅館も、あんたも」
紀之は立ち上がった。
足元が少しふらついた。
紀之「親に向かって、よう言うたな」
ヨシヒコ「親なら、親らしいことしてくれ」
紀之の手が伸びた。
ヨシヒコの胸ぐらをつかむ。
ヨシヒコも、紀之の腕をつかんだ。
二人の足元で、缶チューハイの空き缶が転がった。
軽い音を立てて、畳の端に当たった。
紀之「お前まで、俺を責めるんか」
ヨシヒコ「責められることしかしてないやろ!」
ヨシヒコは、紀之の手を振り払った。
その勢いで、紀之の体が後ろへよろけた。
紀之の足が、畳の上の空き缶を踏んだ。
乾いた音がした。
紀之の体が崩れた。
後ろの柱に肩が当たり、さらにそのまま畳へ倒れ込んだ。
鈍い音がした。
ヨシヒコは、動けなかった。
紀之は、畳の上に倒れていた。
動かなかった。
ヨシヒコ「……父さん」
返事はなかった。
ヨシヒコは、一歩近づいた。
足が震えていた。
紀之は、動かなかった。
ヨシヒコ「父さん」
やはり、返事はなかった。
ヨシヒコは、何も言えなかった。
自分が何をしたのか、分からなかった。
分からないまま、分かってしまった気がした。
やってしまった。
そう思った。
ヨシヒコは、膝から崩れた。
雨の音が、急に遠くなった。
畳の上に広がった酒の匂い。
倒れた父。
震える自分の手。
目の前が、ぼやけた。
ヨシヒコは、もう一度だけ、父を呼ぼうとした。
声は出なかった。
視界が暗くなる。
その夜の記録は、まだ作られていなかった。
次回、第三章 EP05 事件にされなかった夜。
十年前に事件にされなかった夜が、今になって捜査線上に戻ってきます。




