第三章 EP03 犯人は○ス
翌日。
ボスとヤスは、誰もいない取調室にいた。
取調室は、いつもより狭く感じた。
机が一つ。
椅子が二つ。
壁に時計が一つ。
そこに座っているのは、容疑者ではない。
少なくとも、まだ容疑者ではないはずだった。
ヤスは、机の上に薄い紙束を置いた。
前日、コウゾウの屋敷から持ち帰った資料の写しだった。
ボスは、それを見なかった。
ボス「ここしか空いてなかったのか」
ヤス「はい」
ボス「嘘だな」
ヤス「嘘です」
ボス「取調室でしか話せない内容か」
ヤス「はい」
ボスは、短く息を吐いた。
いつもの手帳は持っていなかった。
短くなった鉛筆もない。
それだけで、ヤスは少しだけ不安になった。
ボス「話せ」
ヤス「昨日、ボスが休んでいる間に、安藤さんから電話がありました」
ボス「コウゾウの屋敷か」
ヤス「はい」
ボス「床下か」
ヤス「……知ってたんですか」
ボス「予想はしていた」
ヤス「床下の下に、通路がありました」
ボス「そうか」
ヤス「地下迷宮です」
ボス「迷宮ではないだろう」
ヤス「安藤さんも、そう言ってました」
いつもの返しだった。
でも、いつもの空気ではなかった。
ヤスは、紙束の一枚目をボスの方へ押した。
ヤス「入口近くに、日記がありました」
ボス「コウゾウのか」
ヤス「たぶん」
ボス「何が書いてあった」
ヤス「旅館・ニュー・ヤスダの温泉のことです」
ボス「……」
ヤス「コウゾウさんは、ニュー・ヤスダの温泉が好きだったみたいです」
ボス「……」
ヤス「ボスは、知っていましたか」
ボス「知らん」
ボスは短く答えた。
だが、目は紙を見ていた。
ヤスは、次の紙を出した。
ヤス「ヤス田紀之さんのことも書いてありました」
ボス「……」
ヤス「借金と、博打のことです」
ボス「それも、コウゾウが書いていたのか」
ヤス「はい」
ヤスは、読める部分だけを声に出した。
ヤス「“紀之は、また勝てると言った”」
ヤス「“勝てる男は、そんな目をしない”」
ヤス「“あれは、負けを取り返す男の目や”」
ボスは何も言わなかった。
ヤス「ボス」
ボス「続けろ」
ヤス「“紀之を憎みきれん”」
ヤス「“自分で穴を掘り、自分で落ちた男や”」
ヤス「“だが、落ちた穴に、家族まで引きずり込んだ”」
取調室の時計が、こつ、と鳴った。
ヤス「家族って、ボスたちのことですよね」
ボス「……」
ヤス「ヤス田さんと、妹さんと」
ボス「……」
ヤス「ヤス田ヨシヒコさん」
その名前を口にした時、ボスが初めて顔を上げた。
ボス「その名前で呼ぶな」
ヤス「すみません」
ボス「謝るなら、最初から呼ぶな」
ヤス「でも、今日はその名前で聞かないといけません」
ボス「誰に言われた」
ヤス「誰にも」
ボス「なら、やめろ」
ヤス「やめません」
ヤスの声は震えていた。
それでも、言った。
ボスは、少しだけ目を細めた。
怒っているようにも見えた。
寂しそうにも見えた。
ヤスは、次の紙を出した。
ヤス「アヤスさんのことも書いてありました」
ボス「アヤスが?」
ヤス「“アヤスは、まだ守ろうとしている”」
ヤス「“あの子のことは、誰にも知られてはならん”」
ボス「……」
ヤス「ボスは昨日、アヤスさんのところへ行っていましたよね」
ボス「ああ」
ヤス「何を聞きに行ったんですか」
ボス「十年前のことだ」
ヤス「アヤスさんは、何か話しましたか」
ボス「話さなかった」
ヤス「じゃあ、何をしに」
ボス「確認しに行った」
ヤス「何をですか」
ボス「俺が、まだ逃げているのかどうかだ」
ヤスは、言葉を失った。
ボスは、紙束を見たまま続けた。
ボス「アヤスは、俺を見る目を変えなかった」
ヤス「変えなかった?」
ボス「あの女は、昔から泣かない」
ヤス「はい」
ボス「責めもしない」
ヤス「はい」
ボス「だから、余計に分からなくなる」
ヤス「何がですか」
ボス「俺が本当に、父を殺したのかどうかだ」
ヤス「……」
ヤス「……ボス」
ボス「何だ」
ヤス「それを、今から聞きます」
ヤスは、最後の紙を出した。
古い管理票の写し。
旅館・ニュー・ヤスダ。
遺留品。
革帯。
十年前のあの日、あの男の腰の下に、蝶のような痣ができて、
その先は破れていて、見えない。
ボスの目が、そこで止まった。
ヤス「ベルトです」
ボス「……」
ヤス「古い言い方なら、革帯です」
ボス「……」
ヤス「ボス」
ボス「……」
ヤス「知っていますね」
ボスは答えなかった。
ヤスは、胸の奥が痛くなるのを感じた。
できれば、聞きたくなかった。
できれば、昨日の地下迷宮なんて見つからなければよかった。
できれば、ボスがただ休暇を取って、ただアヤスのところへ行って、ただ何もなかった顔で帰ってきてほしかった。
でも、紙は机の上にあった。
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旅館・ニュー・ヤスダ。
遺留品。
革帯。
十年前のあの日。
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古い紙に残っていたのは、それだけだった。
誰の革帯なのか。
どうしてそこにあったのか。
その革帯が、何を示しているのか。
紙には書かれていない。
だが、ボスは知っている。
少なくとも、知っている顔をしていた。
ヤス「ボス」
ボス「……」
ヤス「この革帯が、誰のものか。分かりますか」
ボスは答えなかった。
ヤス「答えてください」
ボスは、まだ答えなかった。
ヤスは、ボスの腰に目を落とした。
今そこにあるのは、十年前の革帯ではない。
ただのベルトだ。
それでも、ヤスには分かっていた。
ボスは、革帯という言葉から逃げている。
十年前の夜から逃げている。
だから、確認しなければならなかった。
言葉で答えないなら。
体で、覚えているかどうかを。
*
ヤスは、涙が出そうになるのをこらえた。
こらえようとして、失敗した。
ヤス「ボス」
ボス「……」
ヤス「なにか、とれ」
ボス「……」
ヤス「ベルト」
ボスは黙っていた。
ヤス「なにか、とれ!」
ボス「……」
ヤス「ベルト!!」
ボスの手が、机の上で少しだけ動いた。
ヤス「なにか、とれ!!!」
ヤス「ベル……」
もう声にはならなかった
ボス「……」
ボスは、長い沈黙のあと、目を閉じた。
ボス「分かった」
ヤスは、何も言えなかった。
ボスは、ゆっくりと椅子から腰を浮かせた。
逃げるためではなかった。
ごまかすためでもなかった。
言われた通りにするためだった。
ボスの手が、腰へ伸びた。
バックルの金具が、かすかに鳴った。
ヤスは目をそらさなかった。
そらしたかった。
けれど、そらしたら刑事ではなくなる気がした。
ボスはベルトを外した。
机の上に、黒いベルトが置かれた。
それは、古い紙に書かれていた革帯ではない。
今のボスが身につけていた、ただのベルトだった。
それでも、ヤスが見なければならないものは、そこにあった。
ボスは何も言わず、シャツの裾を少しだけ上げた。
腰の下。
尾てい骨の少し上。
そこに、薄い痣があった。
蝶のような形をした、古い痣だった。
ヤス「……ありました」
ボス「……」
ヤス「紙に書かれていたのは、この痣ですね」
ボスは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
ヤス「いつからですか」
ボス「十年前だ」
ヤス「ニュー・ヤスダの夜から」
ボス「ああ」
ヤスは、机の上の紙を見た。
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旅館・ニュー・ヤスダ。
遺留品。
革帯。
十年前のあの日、あの男の腰の下に、蝶のような痣ができて、
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破れて消えた先に、今の沈黙がつながっていた。
ボスは、シャツの裾を戻した。
机の上のベルトには、まだ触れなかった。
ボス「紙にある革帯は、父のものだ」
ヤス「ヤス田紀之さんの」
ボス「ああ」
ヤス「どうして分かるんですか」
ボス「俺が覚えている」
ヤス「覚えている?」
ボス「父は、あの夜もそれをしていた」
ヤス「その革帯を」
ボス「ああ」
取調室の空気が、さらに重くなった。
*
ボスは、ゆっくり話し始めた。
ボス「十年前、俺は旅館・ニュー・ヤスダにいた」
ヤス「はい」
ボス「父と揉めた」
ヤス「借金のことでですか」
ボス「それだけじゃない」
ヤス「何でですか」
ボス「全部だ」
ヤス「全部」
ボス「借金。博打。旅館。母のこと。弟のこと。妹のこと」
ヤス「……」
ボス「俺も飲んでいた」
ヤス「酒ですか」
ボス「ああ」
ヤス「どれくらい」
ボス「覚えていない」
ヤス「覚えていないんですか」
ボス「覚えていないくらいだ」
ボスは、少しだけ笑った。
笑ったように見えただけだった。
ボス「父も飲んでいた」
ヤス「二人とも」
ボス「ああ」
ヤス「それで」
ボス「怒鳴った」
ヤス「誰が」
ボス「俺も、父も」
ヤス「それで」
ボス「父が俺の胸ぐらを掴んだ」
ヤス「……」
ボス「俺も掴み返した」
ヤス「それから」
ボス「覚えているのは、ベルトの金具だ」
ヤス「金具」
ボス「父の腰にあった」
ヤス「はい」
ボス「それが、目の前で光った」
ヤス「……」
ボス「次に覚えているのは、床だ」
ヤス「床」
ボス「俺は倒れていた」
ヤス「お父さんは」
ボス「倒れていた」
ヤスは、息を止めた。
ボス「父は動かなかった」
ヤス「……」
ボス「俺の手には、父の服の感触が残っていた」
ヤス「……」
ボス「床には、父が倒れていた」
ヤス「……」
ボス「他に誰もいなかった」
ヤス「だから、自分がやったと」
ボス「ああ」
ヤス「でも、事件の記録は残っていませんでした」
ボス「ああ」
ヤス「旅館・ニュー・ヤスダの記録も」
ボス「ああ」
ヤス「ヤス田ヨシヒコという名前も」
ボス「ああ」
ヤス「消えたのは、記憶じゃない」
ボス「そうだ」
ヤス「事件の方ですね」
ボス「……ああ」
ボス「俺が消したかったのは、記録じゃない」
ヤス「何ですか」
ボス「俺自身だ」
ヤスは、言葉を失った。
ボス「父が動かなかった」
ボス「俺の手には、父の服の感触が残っていた」
ボス「部屋には、俺と父しかいなかった」
ヤス「……」
ボス「なら、俺がやったんだろう」
ヤス「だから逃げたんですか」
ボス「逃げた」
ヤス「一人で?」
ボス「直人が来た」
ヤス「ヤス田さんが」
ボス「ああ」
ヤス「いつですか」
ボス「父が倒れた後だ」
ヤス「……」
ボス「直人は、父を見た」
ボス「俺を見た」
ボス「それから、すぐに言った」
ヤス「何て」
ボス「東京へ行け」
ヤス「東京へ」
ボス「ヤス田ヨシヒコは、ここで終わったことにしろ」
ヤス「それで」
ボス「俺は逃げた」
ボスは、自分の言葉を確認するように、ゆっくり続けた。
ボス「養子に入った」
ヤス「鈴木に」
ボス「ああ」
ヤス「だから、鈴木ヨシヒコ」
ボス「ああ」
ヤス「記録が消えたのは、その後ですか」
ボス「分からん」
ヤス「分からない?」
ボス「俺はもう、ヤス田ヨシヒコではなかった」
ヤス「……」
ボス「父の事件も、俺の名前も、旅館の夜も」
ボス「表からは消えていった」
ヤス「でも、ボスの中には残っていた」
ボス「ああ」
ヤス「記憶は消えていない」
ボス「消えていない」
ヤス「じゃあ、どうして警察に入ったんですか」
ボス「七年前か」
ヤス「はい」
ボス「警察官採用試験を受けた」
ヤス「理由は」
ボス「逃げた人間が、逃げる人間を追う」
ヤス「それが、償いですか」
ボス「償いなんて立派なものじゃない」
ヤス「じゃあ」
ボス「俺は、捕まる場所に近づきたかったんだと思う」
ヤス「捕まる場所?」
ボス「ああ」
ボス「警察にいれば、いつか誰かが俺を見つける」
ボス「俺が消したんじゃない」
ボス「だが、俺は消えた」
ボス「消えた人間が、消えた事件のそばに戻るには、そこしかなかった」
ヤス「……」
ボス「おかしいだろ」
ヤス「おかしくありません」
ボス「おかしいさ」
ヤス「おかしくありません」
ボスは、机の上の紙を見た。
ボス「革帯」
ヤス「はい」
ボス「旅館・ニュー・ヤスダ」
ヤス「はい」
ボス「蝶の痣」
ヤス「はい」
ボス「父」
ヤス「はい」
ボス「もう十分だろう」
ヤス「……」
ボス「俺が、父を殺した」
ヤスは、泣いていた。
ボス「笑え」
ヤス「笑えません」
ボス「そうか」
ヤス「笑えるわけ、ないじゃないですか」
ボス「なら、泣くな」
ヤス「無理です」
ボス「刑事だろ」
ヤス「刑事です」
ボス「なら、泣くな」
ヤス「無理です」
ボスは、少しだけ笑った。
笑ったように見えただけだった。
ボス「おまえは、良い刑事になったな」
ヤス「まだです」
ボス「なった」
ヤス「まだです」
ボス「俺をここまで連れてきた」
ヤス「……」
ボス「十分だ」
その瞬間、扉の外で足音が止まった。
誰かが聞いている。
いや、最初から近くにいたのかもしれなかった。
ボスは、扉の方を見なかった。
ボス「ケイ・ジーか」
扉の向こうで、少しだけ間があった。
刑事「……入ってもいいですか」
ボス「好きにしろ」
扉が開いた。
ケイ・ジー刑事が立っていた。
その後ろに、もう一人、別の刑事もいた。
ケイ・ジー刑事は、机の上の紙を見た。
それから、ボスを見た。
刑事「鈴木さん」
ボス「その名前で呼ぶな」
刑事「では、ヤス田ヨシヒコさん」
ボス「ああ」
刑事「署長と部長に報告します」
ボス「そうしろ」
刑事「任意で、話を聞かせてもらえますか」
ボス「もう話している」
刑事「正式に、です」
ボス「分かった」
ヤスは、立ち上がった。
ヤス「ボス」
ボス「座ってろ」
ヤス「でも」
ボス「おまえは刑事だ」
ヤス「……」
ボス「刑事なら、座ってろ」
ヤスは座れなかった。
立ったまま、ボスを見ていた。
ボスは、椅子からゆっくり立ち上がった。
背中はいつもと同じだった。
でも、いつもより遠く見えた。
ボス「お見事だったな」
ヤス「……」
ボス「良い刑事になったな」
ヤスの顔が歪んだ。
ヤス「ボス!」
ボス「ヤス!」
ヤス「ボス!」
ボス「ヤス!」
ケイ・ジー刑事が、少しだけ目をそらした。
もう一人の刑事は、何が起きているのか分からない顔をしていた。
ボスは、取調室の扉へ向かった。
ヤスは、最後まで座れなかった。
『ぴーぽーぴーぽーぴーぽーぴーぽー』
『神戸ヤスれんぞくさつじんじけん』
完
次回、第三章 EP04 Radio。
取調室の外で流れる声は、事件にされなかった不満を拾い上げていきます。
え?終われよって?終わりません!
そして再びあのラジオ番組が再び始まる。




