第三章 EP02 地下迷宮
取調室を出ても、ヤスの耳にはまだ、ヤス田の声が残っていた。
兄さんの本当の名前は、ヤス田ヨシヒコです。
ヤスは、廊下の途中で立ち止まった。
刑事部屋へ戻る足が、少しだけ重かった。
ボスが、ヤス田ヨシヒコ。
ヤス田直人の兄。
十年前、旅館・ニュー・ヤスダで父が死んだ。
そして、その記録には、旧ヤスードが関わっている。
ヤス「……ヤス田ヨシヒコ」
口に出してみても、まだボスの顔とつながらなかった。
ヤスの知っているボスは、鈴木ヨシヒコだった。
無愛想で、すぐ怒って、手帳を持って、鉛筆の芯を舐める癖があって、ヤスの運転にだいたい文句を言う男だった。
その男が、十年前に名前を捨てた。
ヤスは刑事部屋へ戻った。
ボスの席は、やはり空いていた。
古い手帳も、短くなった鉛筆もない。
刑事「顔色、悪いですよ」
ヤス「ボスがヤスでした」
刑事「何を言ってるんですか」
ヤス「ぼくにも分かりません」
刑事は、書類から顔を上げた。
何か言い返そうとしたところで、ヤスの机の電話が鳴った。
ヤス「はい、真野です」
電話の向こうから、早口の声が聞こえた。
ヤス「安藤さん?」
刑事「科捜研ですか」
ヤス「はい」
ヤスは、思わず受話器を握り直した。
壊れたコウゾウの屋敷。
床下の空白。
その全部が、まだ終わっていない。
安藤「床下、ありました」
ヤス「床下?」
安藤「正確には、床下の下です」
ヤス「下の下」
安藤「地下室というより、通路です」
ヤス「通路」
安藤「地下迷宮と呼ぶには雑ですが、普通の家にはありません」
ヤスは受話器を持ったまま、刑事を見た。
刑事「……ちょっと楽しそうな顔をしないでくださいよ」
ヤス「してません」
刑事「してましたよ」
ヤス「少しだけです」
ヤスは電話を置いた。
ヤス「ぼく、行きます」
刑事「真野さんがですか」
ヤス「ボスはいません」
刑事「いませんね」
ヤス「課長もいません」
刑事「いません」
ヤス「ヤス田さんは」
刑事「取調室です」
ヤス「じゃあ、ぼくが行くしかないです」
刑事は、少しだけ黙った。
それから、上着を取った。
ヤス「あれ」
刑事「一人では行かせません」
ヤス「刑事さんも来るんですか」
刑事「来ます」
ヤス「理由は」
刑事「他にヤスが多すぎて、もう誰を見張ればいいか分からないんですよ」
ヤス「理由が雑ですね」
刑事「雑な理由で地下迷宮へ行くんです。ちょうどいいでしょう」
ヤス「ちなみに、名前は?」
刑事「ケイ・ジーです」
ヤス「刑事のケイ・ジーさん」
刑事「全員そこを確認します」
ヤス「でしょうね」
ヤスは、空いたボスの席を一度見た。
そこにボスはいない。
だが、ボスの過去は、これから向かう場所の下にあるのかもしれなかった。
*
コウゾウの屋敷は、前よりも小さく見えた。
爆発で崩れた壁にはブルーシートがかけられ、庭には立入禁止の黄色いテープが張られていた。
焦げた木の匂いは薄くなっていたが、完全には消えていなかった。
壊れた屋敷は、まだ壊れたままだった。
安藤フミ子は、ヘルメットをかぶって待っていた。
安藤「来ましたね」
刑事「状況はどうですか」
安藤「床下の空洞を確認しました」
ヤス「地下迷宮ですか」
安藤「迷宮と言うには、まだ入口しか見ていません」
ヤス「入口だけ」
安藤「ただし、普通の床下ではありません」
安藤は屋敷の奥を指さした。
かつて廊下だった場所の一部がめくれ、そこに黒い穴が開いていた。
穴の周囲には補強材が置かれ、鑑識のライトが下へ向けられている。
ヤスは、穴の前で足を止めた。
ヤス「これ、人が入れるんですか」
安藤「今は一人ずつです」
ヤス「一人ずつ」
安藤「それと、長居はできません。奥は崩落の危険があります」
刑事「今日は入口付近だけですか」
安藤「はい。奥は安全確認が終わるまで無理です」
ヤス「じゃあ、地下迷宮なのに攻略できないんですね」
刑事「攻略って言い方、やめましょうか」
安藤「私も言おうと思っていました」
穴の中から、湿った空気が上がってきた。
土と、木と、古い紙の匂いが混じっていた。
ヤスは、その匂いに覚えがある気がした。
どこで嗅いだのかは分からない。
けれど、胸の奥が少しだけざわついた。
安藤「コウゾウさんは、ここを隠していました」
刑事「昔からですか」
安藤「おそらく」
ヤス「アヤスさんが、床下に近づくと怒られたって言ってました」
刑事「ああ」
安藤「その理由は、これかもしれません」
安藤は、穴のそばに置かれた透明な袋を一つ持ち上げた。
中には、焦げた木片と、煤で黒くなった紙束が入っていた。
安藤「入口近くの棚のような場所から出ました」
ヤス「棚?」
安藤「地下に、小さな保管場所が作られていました」
刑事「何が入っていましたか」
安藤「日記らしきものと、古い封筒、それから遺留品の管理票のような紙です」
ヤス「遺留品……」
ヤスの背中に、冷たいものが走った。
安藤「ただ、全部読める状態ではありません」
刑事「読める部分だけで大丈夫です」
安藤「では」
安藤は、別の袋から、コピーされた紙を取り出した。
焦げた日記の読める部分を、科捜研で写したものだった。
安藤「まず、日記です。年ははっきりしません。ただ、旅館・ニュー・ヤスダの名前があります」
刑事が受け取り、ヤスも横からのぞいた。
そこには、震えたような古い字が並んでいた。
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ニュー・ヤスダの湯は、よう温まる。
あそこの湯に入ると、少しだけ昔に戻れる気がする。
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ヤス「温泉……」
刑事「コウゾウの日記か」
安藤「筆跡は、屋敷に残っていた他のメモと似ています」
ヤス「コウゾウさん、ニュー・ヤスダに行ってたんですね」
刑事「ただの屋敷の持ち主じゃなかった、ということですね」
安藤は、次の紙を出した。
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紀之は、また勝てると言った。
勝てる男は、そんな目をしない。
あれは、負けを取り返す男の目や。
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ヤス「紀之……」
刑事「ヤス田紀之。ボスとヤス田の父親です」
ヤス「博打ですか」
刑事「そう読めますね」
安藤「借金の話と一緒に、何度か同じ名前が出ています」
さらに別のページ。
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紀之を憎みきれん。
自分で穴を掘り、自分で落ちた男や。
だが、落ちた穴に、家族まで引きずり込んだ。
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ヤスは、息を飲んだ。
ヤス田紀之。
借金。
博打。
旅館・ニュー・ヤスダ。
家族。
それは、ボスが捨てた名前の奥にあるものだった。
刑事「コウゾウは、紀之を恨んでいたわけではないんですかね」
安藤「少なくとも、このページだけを見るなら、単純な恨みではありません」
ヤス「でも、家族まで引きずり込んだって……」
ヤスは、最後まで言えなかった。
そこにボスが含まれている気がしたからだ。
安藤「もう一枚あります」
刑事「読めますか」
安藤「一部だけです」
安藤が出した紙には、ところどころ黒い煤の跡があった。
読める部分は短い。
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アヤスは、まだ守ろうとしている。
あの子のことは、誰にも知られてはならん。
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ヤス「……あの子」
刑事「誰のことなんでしょうね」
安藤「分かりません。周囲の文字は焼けています」
ヤス「アヤスさんが守ろうとしている子……」
刑事「ボスの妹かもしれない」
ヤス「妹」
刑事「ヤス田は、兄と妹を守ると言っていました」
ヤス「でも、アヤスさんが守るんですか」
刑事「そこが分からないんですよね」
ヤスは、紙から目を離せなかった。
アヤス。
あの子。
紀之。
ニュー・ヤスダ。
名前は増えているのに、答えは遠ざかっていく。
いや、違う。
遠ざかっているのではない。
全部、同じ暗い穴の方へ集まっている。
ヤス「この下に、まだ何かあるんですね」
安藤「あります」
刑事「そこまで言い切りますか」
安藤「断言できるだけの量があります」
ヤス「量」
安藤「奥に、さらに箱が見えました。ただ、今は取り出せません」
刑事「安全確認待ちですね」
安藤「はい」
安藤は、今度は細長い透明袋を見せた。
中には、金具のようなものが入っていた。
黒く変色し、ところどころ錆びている。
ヤス「これは?」
安藤「革製品についていた金具と思われます」
刑事「鞄ですか」
安藤「可能性はあります。ただ、幅と形から見ると、腰に巻くものに使われていた可能性もあります」
ヤス「腰に巻くもの」
刑事「ベルトですか」
安藤「断定はしません」
刑事「断定しなくて大丈夫です。今は候補で十分です」
ヤスは、その金具を見た。
ただの錆びた金具のはずだった。
それなのに、なぜか目を離せなかった。
安藤「管理票の裏に、手書きの文が残っていました」
刑事「読めますか」
安藤「一部だけです」
安藤は、薄い紙を差し出した。
ところどころ破れていたが、いくつかの文字は読めた。
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旅館・ニュー・ヤスダ
遺留品
革帯
十年前のあの日、あの男の腰の下に、蝶のような痣ができて、
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その先は破れていて、見えない。
ヤス「革帯」
刑事「古い言い方ですね」
安藤「ベルトのことを、そう書いた可能性があります」
ヤス「腰の下……」
刑事「尾てい骨の少し上あたり、ですかね」
ヤス「蝶のような痣」
安藤「蝶のような形の痣、という意味だと思われます」
ヤス「それは、誰の痣なんですか」
安藤「分かりません。革帯の持ち主なのか、現場にいた人物の特徴なのか、まだ判断できません」
刑事「分かっているのは、旅館・ニュー・ヤスダと、革帯と、その痣だけです」
ヤス「ボスに……」
刑事「まだ決めつけないでください」
ヤス「はい」
刑事「これは手がかりです。答えではありません」
ヤスは、管理票の写しを見た。
旅館・ニュー・ヤスダ。
遺留品。
革帯。
腰の下あたりに、蝶のような痣。
十年前の夜が、少しずつ形を持ち始めていた。
*
穴の中へ入れるのは、短い時間だけだった。
最初に安藤が降り、次に刑事が降りた。
ヤスは三番目だった。
ヤス「ぼく、三番目ですか」
刑事「不満ですか」
ヤス「いえ。地下迷宮なら、主人公が先頭かなと」
刑事「まず安藤さんが先ですよ」
ヤス「ひどい」
安藤「足元、見てください」
ヤス「はい」
はしごを降りると、地面は冷たかった。
天井は低く、腰をかがめないと進めない。
ライトが照らす先に、細い通路が続いている。
壁は土だった。
ところどころに板が打ちつけられ、古い柱のようなものが通路を支えている。
雑だった。
だが、長い時間そこにあった。
ヤス「本当に地下迷宮ですね」
刑事「迷宮というより、隠し通路ですね」
安藤「どちらにしても、屋敷の下にこんなものを作る理由は普通ありません」
ヤス「コウゾウさんは、何を隠してたんでしょう」
刑事「昔でしょうね」
ヤス「昔」
刑事「コウゾウさんが言っていたらしいです」
ヤス「家の下じゃない。昔の下や」
刑事「そうです」
ヤスは、ライトの先を見た。
通路の奥は、まだ暗かった。
暗い先に、十年前がある。
通路の途中で、安藤が止まった。
安藤「ここまでです」
ヤス「もうですか」
安藤「この先は、支柱が割れています」
刑事「無理はやめましょう」
安藤「奥に箱が見えますが、今日の装備では取り出せません」
ヤス「箱……」
ライトの先、崩れた板の向こうに、四角い影が見えた。
古い木箱のようだった。
ヤスは、一歩前に出ようとして、刑事に肩をつかまれた。
刑事「そこで止まってください」
ヤス「まだ何もしてません」
刑事「する顔でしたよ」
ヤス「淡路でも同じこと言われました」
刑事「淡路で何を学んできたんですか」
ヤスは、素直に足を止めた。
奥の箱。
コウゾウの日記。
旅館・ニュー・ヤスダ。
革帯。
蝶のような痣。
答えは、そこにあるのかもしれない。
だが、今日は届かない。
安藤「安全確認を急ぎます」
刑事「お願いします」
安藤「ただし、急がせないでください。崩れたら終わりです」
ヤス「終わるのは嫌ですね」
刑事「地下でそれを言わないでください」
ヤス「すみません」
三人は、来た道を戻った。
ヤスは最後に、もう一度だけ奥を振り返った。
暗い通路の奥で、何かが待っている。
それは証拠かもしれない。
記録かもしれない。
あるいは、誰かが消したかった名前かもしれない。
ヤスは、その時まだ知らなかった。
自分がその暗闇に、思っているより近い場所から来ていたことを。
*
屋敷の外へ出ると、空気が少しだけ軽くなった。
壊れた屋敷は、午後の光の中でも暗かった。
ブルーシートが風で揺れ、黄色いテープが小さく鳴っている。
ヤスは、その下に続く通路を思い出した。
家の下じゃない。
昔の下や。
その言葉の意味が、少しだけ分かった気がした。
安藤が資料をまとめた。
安藤「今日持ち帰れるものは、日記の断片、金具、管理票の写しです」
刑事「原本はどうしますか」
安藤「保全します」
ヤス「革帯って、本当にベルトなんでしょうか」
安藤「可能性は高いです」
刑事「問題は、それが誰のものかですね」
ヤス「腰の下の、蝶みたいな痣は」
安藤「そこは、まだ分かりません」
刑事「持ち主の特徴なのか、現場にいた人物の特徴なのか。そこを間違えると危ないです」
ヤス「ボスに聞けば、分かりますかね」
刑事「分かるかもしれません」
ヤス「聞いていいんですか」
刑事「聞くしかないでしょう」
ヤスは、管理票の写しを見た。
旅館・ニュー・ヤスダ。
遺留品。
革帯。
腰の下あたりに、蝶のような痣。
ボスに聞かなければならない。
そう思った。
だが、ボスは今、署にいない。
アヤスのところへ行っている。
そして、アヤスの名前は、コウゾウの日記にも残っていた。
アヤスは、まだ守ろうとしている。
あの子のことは、誰にも知られてはならん。
ヤス「刑事さん」
刑事「何ですか」
ヤス「ボスに、このことを」
刑事「伝えます」
ヤス「今すぐですか」
刑事「今すぐではありません」
ヤス「どうして」
刑事「鈴木ヨシヒコとして聞く話じゃない」
ヤス「……ヤス田ヨシヒコとして」
刑事「そうです」
ヤスは、返事ができなかった。
ボスを疑いたくない。
でも、疑わなければいけない。
刑事なら、そうしなければいけない。
ヤスは、ボスがよく座っていた助手席を思い浮かべた。
手帳を開き、短い鉛筆を持ち、横から運転に文句を言うボス。
そのボスの名前が、古い紙の上で違う形をしている。
ヤス田ヨシヒコ。
地下迷宮の奥には、まだ箱がある。
その箱を開ければ、十年前の夜がもっと見えるかもしれない。
だが、その前に。
ヤスには、聞かなければならない相手がいた。
ボスの本当の名前を。
そして、革帯と、蝶のような痣のことを。
次回、第三章 EP03 犯人は○ス。
地下で見つかったものは、罪だけでは説明できない名前を浮かび上がらせます。




