第三章 EP01 ボスのいない署
ヤス田の逮捕から、三日が経っていた。
ヤスは、淡路から戻ってきた。
戻ってきたと言っても、堂々と帰ってきたわけではない。
事情聴取を受け、身元を確認され、なぜ鞄を持ち上げたのかを何度も聞かれ、最後には淡路の刑事に「もう触らないでくださいね」と少しだけ優しく言われて、ようやく神戸に戻された。
ヤスは刑事部屋の入口で、深く頭を下げた。
ヤス「真野ヤスヒロ、戻りました」
誰も拍手しなかった。
代わりに、課長の席が空いていた。
ボスの席も空いていた。
ヤス田刑事の席も、もちろん空いていた。
いつもの刑事部屋なのに、いつもの人間がいなかった。
ヤス「……あれ」
ヤスは、自分の机へ行こうとして、途中で止まった。
ボスの机の上に、古い手帳がなかった。
短くなった鉛筆もない。
ヤス「ボスは?」
刑事「休暇です」
ヤス「休暇?」
刑事「そう聞いてる」
ヤス「ボスが?」
刑事「そうだ」
ヤス「本当にボスが?」
刑事「しつこいな」
ヤスは、ボスの席を見た。
ボスが休む。
それ自体が、なぜか事件のように思えた。
ヤス「どこへ行ったんですか」
刑事は、少しだけ声を落とした。
刑事「西小路アヤスのところだそうだ」
ヤス「アヤスさんのところへ……」
ヤスは、それ以上聞かなかった。
聞いても、今は答えが返ってこない気がした。
三日いない間に、署の中は妙なことになっていた。
まず、課長がいなかった。
停職中だと聞いた。
妻に怒られているらしい、という余計な情報もついてきた。
次に、ヤス田刑事がいなかった。
これは当然だった。
ヤス田刑事は、三日前に自首し、現在事件の犯人として拘束されている。
そして、なぜか留置場の周辺がいつもより騒がしかった。
ヤス「何かあったんですか」
刑事「誤認逮捕だ」
ヤス「誰をですか」
刑事「ヤスを」
ヤス「ぼくですか」
刑事「おまえじゃない」
ヤス「じゃあ誰ですか」
刑事「五人だ」
ヤス「五人」
刑事「ヤスっぽい名前のやつを、五人ほど確認した」
ヤス「ヤスっぽい名前」
刑事「安井、安村、安原、安藤、あと安売りスーパーの店長」
ヤス「最後、人名じゃないですね」
刑事「全員違った」
ヤス「でしょうね」
刑事は、疲れた顔のまま書類をめくった。
刑事「もう、ヤスという音を聞きたくない」
ヤス「ぼく、真野ヤスヒロなんですけど」
刑事「知ってる。だから今、つらい」
ヤスは、何も言えなかった。
刑事部屋の空気は、冗談のようで、冗談ではなかった。
佐々木キミヤス。
小宮末広。
ヤス田直人。
ヤス兵衛。
ヤスード。
犬のヤス。
ヤスという名前は、事件の中で増えすぎていた。
刑事「それと、おまえが淡路にいる間に、ヤス田の話も少し進んだ」
ヤス「ヤス田さんの?」
刑事「佐々木キミヤス、小宮末広、コウゾウの屋敷、旅館・ニュー・ヤスダ」
ヤス「全部ですか」
刑事「全部、とは言わん。だが、本人が認めた部分はある」
刑事は、机の上の書類を一枚めくった。
いつもの報告書のはずなのに、ヤスにはやけに重く見えた。
刑事「佐々木キミヤスは、十年前の記録に近づいていた」
ヤス「十年前の記録……」
刑事「ヤス田は、それを止めようとした。佐々木は、その中で死んだ」
ヤス「じゃあ、小宮さんは」
刑事「小宮末広は、佐々木を殺した犯人に見せかけられた」
ヤス「見せかけられた」
刑事「部屋も、遺書も、時計も、整いすぎていた。あれは自殺じゃない。自殺に見えるように置かれたものだ」
ヤスは、小宮の部屋を思い出した。
あまりにも静かで、あまりにも片づいていた部屋。
あの不自然さには、ちゃんと理由があった。
ヤス「コウゾウさんの屋敷は」
刑事「床下だ」
ヤス「床下」
刑事「何かが残っていた。あるいは、残っていると思われた」
ヤス「旅館・ニュー・ヤスダは?」
刑事「同じだ」
ヤス「同じ?」
刑事「証拠を消すためだけじゃない」
ヤス「じゃあ、何のためですか」
刑事「近づく道を消すためだ」
ヤスは、言葉を失った。
佐々木キミヤス。
小宮末広。
磯辺コウゾウ。
旅館・ニュー・ヤスダ。
ばらばらに見えていたものが、十年前の一点へ向かっていた。
ヤス「そこまでして、誰に近づけたくなかったんですか」
刑事「本人は、兄さんと言っている」
ヤス「兄さん……」
刑事は、取調室の方を見た。
刑事「会うなら、今のうちだ」
ヤス「ぼくがですか」
刑事「おまえに話すと言っている」
ヤス「ヤス田さんが?」
刑事「ああ」
そして今、その中の一人が、取調室にいた。
*
ヤス田刑事は、やつれていた。
三日前まで、同じ刑事部屋にいた男だった。
机に座り、書類を整理し、時々ヤスに妙な目を向けていた男だった。
今は、机の向こう側に座っていた。
刑事としてではない。
容疑者として。
ヤスは、取調室の扉の前で一度立ち止まった。
中にいるのは、ヤス田刑事だ。
だが、ヤスにはまだ、何と呼べばいいのか分からなかった。
ヤス田さん。
ヤス田刑事。
犯人。
それとも、ボスの何か。
ヤスは扉を開けた。
ヤス「失礼します」
ヤス田「……戻ったんですね」
ヤス「はい。淡路から」
ヤス田「鞄は、もう触らない方がいいですよ」
ヤス「それ、淡路でも言われました」
ヤス田は、ほんの少しだけ笑った。
笑ったように見えただけかもしれない。
ヤスは、向かいの椅子に座った。
ヤス「ボスがいません」
ヤス田「知っています」
ヤス「休暇だそうです」
ヤス田「ええ」
ヤス「アヤスさんのところへ行ったと聞きました」
ヤス田は、目を伏せた。
ヤス「ヤス田さん」
ヤス田「はい」
ヤス「あの日、ぼくを三宮に誘いましたよね」
ヤス田は答えなかった。
ヤス「三宮に誘った時です」
ヤス「あの時、本当は何を話すつもりだったんですか」
取調室の空気が、少しだけ冷えた。
ヤス田は、机の上に置かれた自分の手を見た。
その手は、刑事の手だった。
だが今は、手錠をかけられる側の手だった。
ヤス田「話せば、終わると思っていました」
ヤス「何がですか」
ヤス田「兄さんのことです」
ヤスは、息を止めた。
三日前に、ヤス田は言った。
兄さんには、これ以上、近づけたくなかった。
その言葉だけが、三日間、ヤスの頭に残っていた。
ヤス「兄さんって、誰ですか」
ヤス田は、ゆっくり顔を上げた。
ヤス田「鈴木ヨシヒコではありません」
ヤス「え?」
ヤス田「あなたがボスと呼んでいる人の名前は、鈴木ヨシヒコじゃない」
ヤスは、何も言えなかった。
ヤス田「兄さんの本当の名前は、ヤス田ヨシヒコです」
取調室の時計が、やけに大きな音を立てた。
ヤス「ヤス田……」
ヤス田「ええ」
ヤス「ボスが……」
ヤス田「私の兄です」
ヤスは、背もたれに寄りかかることもできなかった。
ただ、目の前の男を見ていた。
ヤス田直人。
現在事件の犯人。
そして、ボスの弟。
ヤス「じゃあ、ボスは……」
ヤス田「十年前に、名前を捨てました」
ヤス「捨てた?」
ヤス田「捨てさせられた、と言った方が近いかもしれません」
ヤス「誰に」
ヤス田は、すぐには答えなかった。
その沈黙の中で、ヤスは初めて思った。
ボスのいない署は、静かすぎる。
ヤス田「十年前、旅館・ニュー・ヤスダで、父が死にました」
ヤス「父……」
ヤス田「ヤス田紀之。私たちの父です」
ヤスは、喉の奥が乾くのを感じた。
ヤス田「兄さんは、ずっと自分が殺したと思っています」
ヤス「ボスが……?」
ヤス田「でも」
ヤス田は、そこで言葉を切った。
ヤス「でも?」
ヤス田「十年前の記録は、ほとんど残っていません」
ヤス「残っていない?」
ヤス田「消されたように見えます」
ヤス「誰が」
ヤス田「旧ヤスードが関わっています」
その名前だけが、取調室に残った。
ヤスード。
事件を解くためのもの。
けれど、十年前の夜には、別の使われ方をしたのかもしれない。
ヤスは、ボスの席が空だった理由を、まだ知らない。
ボスが今、アヤスのもとで何を聞いているのかも知らない。
そして、自分自身が、この十年前の夜にどれだけ近い場所に立っているのかも、まだ知らなかった。
次回、第三章 EP02 地下迷宮。
戻ってきたボスの足元には、十年前から続くもう一つの通路が口を開けていました。




