第二章 EP11 旅館・ニュー・ヤスダ
ヤス「皆さん、お久しぶりです。真野ヤスヒロです」
ボス「誰に言ってる」
ヤス「読者です」
ボス「やめろ」
ヤス「前回、三宮の地図の場所で、BAR裏靖という大変ヤスい名前のお店に行きました」
ヤス「そこで、旅館・ニュー・ヤスダという、さらにヤスい名前が出てきました」
ヤス「もうここまで来ると、作者の精神状態が心配です」
ボス「おまえが言うな」
ヤス「そして今回は、淡路島の洲本へ向かいます」
ヤス「旅情ミステリーです」
ヤス「たぶん、二時間ドラマならここで崖です」
ボス「崖には行かん」
ヤス「じゃあ、何も起きないといいですね」
ボス「余計なことを言うな」
ヤス「じゃあ、皆さんもう犯人はおわかりですね!」
ヤス「犯人はヤスです!」
ヤス「僕じゃないですよ!」
ボス「余計なことを言うな」
ヤス「こんな小説にマジになっちゃってどうするの」
ボス「最後に作者側がそれを言うな」
ヤス「僕は登場人物です」
ボス「なお悪い」
その時点では、ヤスはまだ知らなかった。
その余計な一言が、わりと当たることを。
*
翌朝、雨は上がっていた。
神戸の空はまだ灰色だったが、雲の切れ間から、細い光が海の方へ落ちている。
ボスとヤスは、淡路へ向かう車の中にいた。
助手席で、ヤスは何度も手帳を見ていた。
正確には、ボスの手帳をのぞき込もうとして、そのたびに睨まれていた。
手帳には、昨日、BAR裏靖で黒堂が吐き出した言葉が残っている。
洲本。
旅館・ニュー・ヤスダ。
床下。
爆発音。
姫路。
ヤス兵衛。
古い屋敷。
借金。
消えた記録。
兄。
妹。
ボスは、信号待ちの間に手帳を閉じた。
ヤス「見ても減りませんよ」
ボス「減る」
ヤス「手帳がですか」
ボス「俺の気力がだ」
ヤスは、黙った。
車は橋を渡り、海を越えた。
神戸の街が遠ざかっていく。
ヤスは窓の外を見た。
海は静かだった。
静かすぎるほどだった。
ヤス「ヤス田さん、ここに来たんでしょうか」
ボス「来たかどうかを確かめに行く」
ヤス「来てたら?」
ボス「次を探す」
ヤス「来てなかったら?」
ボス「別の次を探す」
ヤス「どっちにしても探すんですね」
ボス「刑事だからな」
ヤスは、少しだけ背筋を伸ばした。
海の向こうに、洲本の町が見え始めていた。
*
旅館・ニュー・ヤスダは、まだそこにあった。
ただし、旅館としては、もう終わっていた。
海に近い細い道の先。
少し坂を下ったところに、古い建物が残っている。
看板は錆び、白かったはずの外壁は灰色に汚れていた。
窓には板が打ちつけられ、入口には古いロープが張られている。
それでも、建物の形は残っていた。
かつて人を泊めていた場所。
かつて誰かが帰る場所だった建物。
看板には、薄く文字が残っていた。
旅館・ニュー・ヤスダ
ヤス「ニューなのに、だいぶ古いですね」
ボス「黙ってろ」
ヤス「はい」
風が吹いた。
看板が小さく鳴った。
ボスは入口のロープを見た。
古いものではあるが、最近誰かが触ったようにも見える。
ヤス「中、入りますか」
ボス「その前に周りを聞く」
近くの家の前で、住民が植木鉢を動かしていた。
年齢は六十代くらいに見える。
ボスが近づくと、住民は少し警戒した顔をした。
ボス「警察です」
住民は、ボスとヤスを見比べた。
住民「神戸の?」
ボス「ええ」
ボスは携帯を取り出し、ヤス田刑事の写った画像を表示した。
ボス「この人を見ませんでしたか」
住民は画面を覗き込んだ。
少しだけ目を細める。
住民「ああ。この人なら、昨日来てましたよ」
ヤス「昨日?」
住民「ええ。あの旅館の前で、ずっと立ってました」
ボス「中へ入ったか」
住民「入口の方へは行ってましたね。そのあと、裏手へ回っていきました」
ヤス「一人でしたか」
住民「一人に見えましたけどね」
ボス「何か持っていたか」
住民は、少し考えた。
住民「小さな鞄を持ってましたわ」
ヤスは、旅館跡を見た。
ロープの向こう側。
壊れた玄関。
板の打たれた窓。
昨日、ヤス田刑事はここに立っていた。
その姿を想像すると、急に建物がただの廃墟ではないものに見えた。
ヤス「ヤス田さん、ここで何を探してたんでしょう」
ボスは答えなかった。
ただ、旅館の裏手へ目を向けた。
*
ボスとヤスは、住民に礼を言い、旅館跡へ近づいた。
ロープは張られている。
だが、警告の札は古く、文字の半分が読めなくなっていた。
ヤス「これ、入って大丈夫なんですか」
ボス「大丈夫ではない」
ヤス「じゃあ、やめませんか」
ボス「確認だけだ」
ボスは、玄関の横を見た。
埃の上に、かすかな靴跡が残っている。
新しい。
ヤスもそれに気づいた。
ヤス「これ……」
ボス「触るな」
そのすぐ横に、小さな黒い鞄が落ちていた。
ヤス「あれ」
ヤスは、思わず鞄を持ち上げた。
ボス「触るなと言った」
ヤス「言われた時には、もう触ってました」
ボス「最悪だ」
その時だった。
建物の奥で、低い音がした。
何かが、内側で落ちたような音。
それに続いて、空気が一瞬だけ沈んだ。
ボス「下がれ」
ボスがヤスの腕を引いた。
次の瞬間、旅館の奥が白く光った。
遅れて、腹に響くような音が海沿いの道を揺らした。
ヤスは反射的にしゃがみ込んだ。
熱い風が頬をかすめ、古いガラスが砕ける音がした。
看板が揺れた。
旅館・ニュー・ヤスダ。
その文字が、一度だけ大きく震えた。
建物の奥から煙が上がる。
崩れた壁の一部が、ゆっくりと道路側へ倒れ込んだ。
住民の悲鳴が聞こえた。
ヤス「ボス!」
ボスは、すでに携帯を取り出していた。
ボス「下がれ。誰も近づけるな」
ヤス「ヤス田さんが中にいたら……」
ボス「決めつけるな」
ボスの声は低かった。
だが、いつもより少しだけ早かった。
煙の向こうで、旅館の一部が崩れていく。
ヤスは、何も言えなかった。
さっきまで、形が残っていた。
昨日、ヤス田刑事が立っていた場所だった。
そこが今、音を立てて壊れている。
*
淡路側の警察が到着するまで、長く感じた。
実際には、それほど時間は経っていなかったのかもしれない。
だがヤスには、海沿いの道に立っている時間が、ずっと続いているように思えた。
規制線が張られた。
住民たちは離れた場所から、崩れた旅館を見ていた。
淡路側の刑事が、ボスに近づいた。
淡路の刑事「鈴木さんですね。連絡は受けています」
ボス「現場の確認を頼みます。中に人がいた可能性がある」
ヤスは、その言葉に反応した。
淡路の刑事「目撃情報ですか」
ボス「昨日、この男がここに来ていた」
ボスはヤス田刑事の画像を見せた。
淡路の刑事は、表情を変えずにうなずいた。
淡路の刑事「捜索します」
ヤス「お願いします」
自分でも、声が少し震えているのが分かった。
ボスはヤスを見た。
ボス「落ち着け」
ヤス「落ち着いてます」
ボス「嘘をつくな」
ヤス「少しだけ落ち着いてません」
ボス「少しではない」
ヤスは黙った。
旅館跡からは、まだ煙が上がっていた。
ニュー・ヤスダ。
父親の借金。
兄。
妹。
話されなかった父親。
そして、爆発音。
黒堂の画面に出た言葉が、ヤスの頭の中で並び直していく。
偶然ではない。
少なくとも、ボスはそう見ている。
*
現場の確認は続いた。
崩れた建物の中へは、すぐには入れなかった。
古い旅館は、爆発のあとも危うく形を保っている部分があり、二次的な崩落の危険があった。
淡路側の警察と消防が、慎重に周囲を確認していく。
ヤスは規制線の外で待った。
待つのは苦手だった。
特に、人が死んだかもしれない時に待つのは、もっと苦手だった。
ヤス「ボス」
ボス「何だ」
ヤス「ヤス田さんが、中にいたと思いますか」
ボスは、すぐには答えなかった。
煙の向こうを見ている。
ボス「思うな」
ヤス「え」
ボス「思うと、見えるものを間違える」
ヤスは、ボスの横顔を見た。
ボスの表情は変わらない。
だが、手帳を握る指に、少しだけ力が入っていた。
ヤス「でも、昨日ここに来てたんですよ」
ボス「昨日来たことと、今日ここで死んだことは別だ」
ヤス「はい」
ボス「今あるのは、昨日来たという証言だけだ」
ヤスは、うなずいた。
分かっている。
分かっているが、心は勝手に先へ行く。
旅館で死んだのではないか。
証拠ごと消されたのではないか。
あるいは、自分で消したのではないか。
そのどれもが、まだ答えではなかった。
*
夕方近くになって、淡路の刑事が戻ってきた。
淡路の刑事「現時点で、遺体は確認されていません」
ヤスは、息を吐いた。
安心していいのかは分からなかった。
けれど、少なくとも、最悪の答えはまだ出ていない。
ボス「他に分かったことは」
淡路の刑事「旅館跡の近くに、防犯カメラはほとんどありません。ただ、洲本バスセンター付近の映像を確認しています」
ボス「映っていたか」
淡路の刑事は、タブレットを出した。
画面に、ぼやけた映像が表示される。
雨上がりの路面。
バスセンターの入口。
人が何人か行き来している。
その中に、ひとりの男が映っていた。
帽子をかぶり、小さな鞄を持っている。
顔ははっきりしない。
だが、歩き方に見覚えがあった。
ヤス「……ヤス田さん」
ボスは画面を見つめた。
淡路の刑事「断定はできません。ただ、体格と服装は目撃証言と一致しています」
ボス「時間は」
淡路の刑事「爆発の、およそ一時間前です」
ヤス「一時間前……」
つまり、その男がヤス田刑事なら、爆発の時には旅館にいなかった。
ヤスの中で、何かが少しだけ戻った。
ボス「行き先は」
淡路の刑事「神戸方面ではありません」
ヤスは顔を上げた。
淡路の刑事「姫路方面へ向かう便の乗り場に移動しています」
ヤス「姫路……」
ボスは、手帳を開いた。
昨日、黒堂の画面から書き写した言葉がある。
姫路。
ヤス兵衛。
ヤスも、その文字を見た。
ヤス「ヤス兵衛」
ボス「次はそこだ」
ヤス「姫路ですか。温泉くらい入っていきましょうよ!」
ボスは手帳を閉じた。
ボス「姫路に行く」
海の向こうで、日が沈みかけていた。
旅館・ニュー・ヤスダは、煙の中で形を失っていく。
けれど、そこにあったものは、完全には消えていなかった。
消えたはずの名前が、次の場所を指していた。
姫路。
ヤス兵衛。
事件は、またヤスの名前を追い始めていた。
次回、第二章 EP12「犯人はヤス」。
十年前の部屋で、ボスとヤスはもう一度、犯人の名前に向き合います。




