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第二章 EP10 地図の場所

雨は、三宮の路地を細く濡らしていた。


写真屋を出たあとも、ヤスは何度もスマホの画面を見ていた。

古い通知をさかのぼり、消していなかった地図を開く。


ヤス田刑事から送られてきた地図だった。


ヤス「ありました」


ボス「見せろ」


ヤスはスマホを差し出した。

画面には、三宮の少し奥まった場所が表示されている。

駅前の明るい通りから、一本、また一本と路地を入った先だった。


ヤス「ここですね」

ボス「写真屋から近いな」

ヤス「はい。歩いて行けます」


ボスはしばらく画面を見ていた。

それから、短く言った。


ボス「行くぞ」

ヤス「はい」


二人は傘を差して歩き出した。


ヤスは、少しだけ胸の奥が重くなっていた。

あの日、ヤス田刑事はここへ自分を連れてくるつもりだった。

飲みに行こうと言っていた。

地図を送りますね、と言っていた。


けれど、ヤスは来なかった。

来られなかった。


無銭飲食で捕まっていたからである。


ヤス「……人生って、タイミングですね」


ボス「急に何だ」

ヤス「いえ。重めに反省してます」

ボス「軽く聞こえる」

ヤス「そこは僕の声質です」

ボスは答えなかった。





地図が示していた場所は、小さなバーだった。


古いビルの一階。

狭い入口の上に、木製の看板がかかっている。


そこには、薄れた文字でこう書かれていた。



**BAR 裏靖**



ヤス「うらやす……ですか」

ボス「たぶんな」

ヤス「またヤスですね」

ボス「言うな」

ヤス「はい」

扉を開けると、低いベルの音が鳴った。


店内は暗かった。

カウンター席が六つ。

奥に小さなテーブルが二つ。

壁には、色あせた映画ポスターと、誰が置いたのか分からない招き猫が並んでいる。


カウンターの中に、年齢の読めない女が立っていた。

髪をきれいにまとめ、紫色の薄いカーディガンを羽織っている。


店主「いらっしゃい」

ボス「警察です」

店主は、驚いた様子もなく二人を見た。

店主「あら。また?」

ヤス「また?」

店主「ああ、あの刑事さんね」


ヤス「ヤス田さんですか」


店主「名前は知らないけど、よく来てましたわ。いつも奥の席で、古い写真を眺めてました」

ヤス「そんな感じ」

ボス「黙ってろ」


ボスは携帯を取り出し、署で撮られた集合写真を表示した。

画面の端に、ヤス田刑事が硬い顔で写っている。


ボス「この中にいますか」


店主は画面を覗き込んだ。

少し目を細める。


店主「ああ。この人です」

店主の指が、ヤス田刑事の顔を示した。


ヤス「ヤス田さんですね」

ボス「まだ確認だ」

ヤス「指さしてますけど」

ボス「確認だ」

店主は小さく笑った。


店主「私は、やすゑといいます」

ヤス「やすゑさん」

ボス「……」


ヤス「ボス、今のは僕じゃなくてお名前です」

ボス「分かってる」


やすゑは、カウンターの奥からグラスを三つ出した。


ボス「酒はいらん」

やすゑ「水ですわ」

ヤス「僕も今日はちゃんと払います」

ボス「水だ」

ヤス「水でも払います」

ボス「黙って飲め」





やすゑは、ヤス田刑事のことを覚えていた。


何度か、この店に来ていたという。

いつも一人で、カウンターの端に座っていた。

酒はあまり飲まず、古い写真を出しては、じっと見ていたらしい。


やすゑ「洲本の話ばかりしてましたわ」

ヤス「洲本?」

やすゑ「ええ。淡路島の。昔、住んでたんですって」

ボス「昔、住んでいた」


やすゑ「旅館の息子だったそうです」

ヤス「旅館」

やすゑ「名前は、たしか……」


やすゑは少し考え、カウンターの上を指で叩いた。


やすゑ「旅館・ニュー・ヤスダ」

ヤス「ニュー・ヤスダ」


ボスの指が、グラスの横で止まった。

ほんの一瞬だった。


ヤスだけが、それに気づいた。


ボス「今もあるのか」

やすゑは首を横に振った。

やすゑ「いいえ。もう潰れてます」

ヤス「どうしてですか」


やすゑ「お父さんの借金が原因だったとか」

ヤス「借金……」


やすゑ「詳しいことは知りません。ただ、あの刑事さんは、いつも同じ写真を見せてくれました」

ボス「どんな写真だ」


やすゑ「子どもが三人。男の子が二人と、女の子が一人」

ヤス「三人」

やすゑ「その人は言ってましたわ。兄さんと妹と一緒に撮ったんだって」

ヤス「兄さんと、妹」

やすゑ「あと、大人の男の人も写ってました」

ボス「男?」


やすゑ「たぶん、お父さんじゃないかしらね。でも、その人のことは一度も話さなかった」


店内が少し静かになった。


外では雨が窓を叩いている。


やすゑ「兄さんの話はする。妹さんの話もする」

やすゑ「でも、その男の人のことになると、何も言わないの」

やすゑ「写真には、ちゃんと写ってるのにね」


ヤスはグラスの水を見た。

水面が、わずかに揺れている。


ヤス「……僕にも、この話を聞いてほしかったんでしょうかね。ボス」


ボスは答えなかった。


ヤス「だから、三宮に誘ったんでしょうか」

ボス「本人に聞け」


ヤス「その本人が、いないんです」


ボスは、やすゑを見た。

ボス「その男は、最近ここへ来たか」

やすゑ「来ましたわ。昨日ではありません。けれど、そう遠くないです」

ボス「何か言っていたか」

やすゑ「もうすぐ淡路に一度戻る、と」


ヤス「洲本へ?」

やすゑ「ええ。旅館・ニュー・ヤスダを見に行く、と言ってました」


ヤスはボスを見た。


ボスはまだ何も言わなかった。





カウンターの奥に、古い端末が置かれていた。


小型の箱のような形で、画面は黒い。

上部に古いカメラのような丸い部品がついている。

どこか、ヤスード改に似ていた。


けれど、同じものではなかった。


ヤス「これは……ヤスードとは違うんですか」

やすゑ「似たような時代の子よ。でも別の子」

ボス「子って言うな」

やすゑ「長く店にいると、機械にも名前くらいつくわ」


ヤス「名前があるんですか」


やすゑ「黒堂」


ヤス「くろうど?」

やすゑ「ええ。うちではそう呼んでるの」


ボス「名前からして信用できんな」

やすゑ「信用しなくていいわ。信用されるような子じゃないもの」


その時、黒い画面に白い文字が浮かんだ。


黒堂「聞こえています」

ヤス「しゃべった」


ボス「古い端末は、余計な時だけ元気だな」


黒堂「検索履歴があります」

ボス「誰のだ」

黒堂「言えません」

ボス「言えないなら黙ってろ」


黒堂「検索語句」


画面に、白い文字が一つずつ表示されていく。



**洲本**


**旅館・ニュー・ヤスダ**


**床下**


**爆発音**


**姫路**


**ヤス兵衛**


ヤス「ヤス兵衛?」



ボスは答えなかった。



黒堂「関連語句」


**古い屋敷**


**借金**


**消えた記録**


**兄**


**妹**



そこで、画面の文字は止まった。


ヤス「最後、急に重いですね」

黒堂「軽い事件は、ここには来ません」


ボスは古い鉛筆を取り出した。

芯の先を少しだけ舐める。


それから手帳を開き、黒堂の画面に浮かんだ言葉を書き写していった。


洲本。

旅館・ニュー・ヤスダ。

床下。

爆発音。

姫路。

ヤス兵衛。

古い屋敷。

借金。

消えた記録。

兄。

妹。


ヤス「僕も写真とっとこー」

ヤスはスマホで、黒堂の画面を撮った。


ボス「撮ったものが、正しいとは限らん」

ヤス「手帳に書いた文字も同じでは?」

ボス「うるさい」


やすゑは、少しだけ笑った。


黒堂の画面が暗くなる。

最後に、一行だけ文字が残った。



黒堂「この事件は、終わっていません」

ヤスは息を止めた。



その言葉を、前にも聞いた気がした。





店を出ると、雨は少し弱くなっていた。


三宮の路地には、濡れたネオンがぼんやり映っている。


ヤスは傘を開きながら、もう一度だけ店の看板を見た。


BAR 裏靖。


ヤス田刑事は、ここへヤスを連れてくるつもりだった。

この店で、何を聞かせたかったのか。

何を言わせたかったのか。


兄。

妹。

父親らしき男。

旅館・ニュー・ヤスダ。


そして、洲本。


ヤス「ボス」

ボス「何だ」

ヤス「行くんですよね」

ボス「どこへ」

ヤス「洲本です」


ボスは、少しだけ黙った。

それから手帳を閉じた。


ボス「明日の朝一番で行く」

ヤス「はい」

ボス「それまでに、淡路側へ照会をかける。旅館・ニュー・ヤスダの登記、廃業記録、過去の火災や事故の記録もだ」

ヤス「火災や事故」

ボス「爆発音、床下、古い屋敷。偶然で並ぶ言葉じゃない」


ヤスはうなずいた。


雨の向こうに、海の匂いがした気がした。


神戸の事件は、少しずつ外へ出ようとしていた。


海の向こうへ。


洲本へ。


次回、第二章 EP11「旅館・ニュー・ヤスダ」。

地図の先で待っていたのは、名前からして逃げ場のない旅館でした。

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