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第二章 EP09 ヤスが思い出したこと

ヤス田刑事の住所は、すぐに分かった。


三宮だった。


署内の記録に残っている住所を確認し、ボスとヤスはすぐに車へ向かった。

雨はまだ細く降っていた。

朝からずっと降っている雨だった。


ヤス「三宮なんですね」

ボス「ああ」

ヤス「ヤス田さん、三宮に住んでたんですね」

ボス「住所はそうなっている」

ヤス「なんか、三宮っぽくないですね」

ボス「どういう意味だ」

ヤス「もう少し、謎の山奥とかに住んでそうです」

ボス「刑事を何だと思っている」

ヤス「ヤス田さんを、です」

ボス「余計悪い」


車内には、それ以上の会話は続かなかった。


ヤス田刑事がいなくなった。

退職届を置いて。

私物を消して。

防犯カメラの資料が届いたあとに。


その順番だけが、ヤスの頭の中で何度も並び直された。


ボスは助手席で、黙って外を見ていた。

いつもより、少しだけ顔が固かった。





ヤス田刑事の部屋は、三宮の古いマンションの三階にあった。

管理会社の立ち会いで扉を開けると、部屋の中は驚くほど静かだった。


生活の匂いはあった。

だが、生活そのものは、もうそこにはなかった。


棚には何もない。

机の上にも何もない。

冷蔵庫の音だけが、低く鳴っていた。


ヤス「片づいてますね」

ボス「片づけたんだろう」

ヤス「退職するから?」

ボス「逃げる人間なら、持っていく」

ヤス「じゃあ、ヤス田さんは逃げたんですね」

ボス「決めつけるな。可能性の話だ」

ヤス「はい」


ヤスは部屋の中を見回した。

机。

椅子。

小さな棚。

窓際に置かれた古い観葉植物。


そして、机の右奥に、四角い跡があった。


ヤス「ボス」

ボス「見えている」


そこだけ、埃の色が違っていた。

署の机に残っていた跡と、よく似ていた。


ヤス「写真立てですかね」

ボス「だろうな」

ヤス「署の机にも、同じような跡がありましたよね」

ボス「ああ」

ヤス「持っていったんですね」

ボス「そうだろう」

ヤス「逃げるのに、写真って要りますか」


ボスは少しだけ黙った。


ボス「逃げるために持っていったんじゃない」

ヤス「じゃあ、何のためですか」

ボス「忘れないためだ」


ヤスは、その言葉を聞いて、机の跡をもう一度見た。


何が写っていたのか。

誰が写っていたのか。

ヤス田刑事は、何を忘れないために持っていったのか。


部屋の隅に、小さな紙くずが落ちていた。

ヤスが拾い上げる。


破れた封筒の端だった。

白い紙に、青いインクの印刷が残っている。


ヤス「写真……」

ボス「何だ」

ヤス「いえ。何か、思い出しそうで」


ヤスは封筒の端を見た。


青い文字。

古い紙。

写真。

三宮。


頭の中で、別の声がよみがえった。


ヤス田刑事の声だった。





数日前。


署の廊下で、ヤス田刑事が立ち止まったことがあった。


ヤスはその時、缶コーヒーを二本持っていた。

一本は自分用で、もう一本はボス用だった。

ボスはブラックしか飲まないのに、ヤスはなぜか微糖を買っていた。


ヤス田刑事「真野さん」

ヤス「はい」

ヤス田刑事「三宮に、まだ古い写真を直す店はありますか」

ヤス「写真ですか」

ヤス田刑事「ええ」

ヤス「スマホで撮ればいいんじゃないですか」

ヤス田刑事「昔の写真です」

ヤス「ああ、紙の」

ヤス田刑事「紙です」


ヤス田刑事は、それだけ言って黙った。


ヤス「探してるんですか」

ヤス田刑事「探している、というほどではありません」

ヤス「じゃあ、何ですか」

ヤス田刑事「読めないものを、読めるようにしたいだけです」


ヤスはその時、深く考えなかった。


ヤス田刑事は、いつも少し変だった。

だから、その会話も、少し変なだけだと思った。



ヤス「ボス」

ボス「何だ」

ヤス「ヤス田さん、前に言ってました」

ヤス「三宮に、古い写真を直す店がないかって」


ボスが振り返った。


ヤス「昔の写真です。読めないものを、読めるようにしたいって」

ボス「なぜ今まで言わない」

ヤス「今、思い出したんです」

ボス「便利な頭だな」

ヤス「褒めてます?」

ボス「半分だけだ」


ボスは部屋の中をもう一度見た。

写真立ての跡。

破れた封筒。

空になった棚。


ボス「その店、場所は分かるか」

ヤス「たぶん。三宮の高架下の方に、古い写真屋があったと思います」

ボス「行くぞ」

ヤス「はい」


ヤスは、部屋を出る前にもう一度机を見た。

四角い跡は、そこに残ったままだった。


写真は消えていた。

だが、そこに写真があったことだけは、消えていなかった。





三宮の高架下は、昼でも薄暗かった。


店の看板は、少し傾いていた。

古い写真修復。

色あせ修正。

破れ補修。

文字復元。


ヤス「ここです」

ボス「入るぞ」


店の中には、年配の店主が一人座っていた。

小さなラジオが棚の上に置かれていたが、音は消されていた。


店主「いらっしゃい」

ボス「警察です」


ボスが手帳を見せると、店主は小さく目を細めた。


店主「また警察の人ですか」


ヤスとボスは、同時に店主を見た。


ボス「また?」

店主「この前も来ましたよ。若い、真面目そうな刑事さん」

ヤス「ヤス田さんですか」

店主「名前までは。けど、そんな感じの人でした」

ヤス「そんな感じ」

ボス「黙ってろ」


ボスは、ポケットから携帯を取り出した。


何度か画面を操作して、一枚の写真を開く。

署の前で撮った集合写真だった。


ボス「この中にいますか」

店主は画面を覗き込んだ。


店主「ああ……この人です」

店主の指が、画面の端に写っているヤス田刑事の顔を指した。


ヤス「ヤス田さんですね」

ボス「まだ確認だ」

ヤス「指さしてますけど」

ボス「確認だ」


店主は、奥の棚から小さな伝票を取り出した。


店主「古い写真を持ってきました。だいぶ傷んでましたね」

ボス「どんな写真です」

店主「家族写真みたいでしたよ。子どもが三人。大人が一人。場所は……海の近くみたいでした」


ヤスは、息を止めた。


ボス「写真は」

店主「本人が持って帰りました」

ヤス「他に、何か言ってませんでしたか」

店主「言ってはいません。ただ……」


店主は、少し考えるように目を細めた。


店主「家族写真みたいでしたよ」

ボス「家族?」

店主「ええ。男の人と、子どもが三人。古い写真でした」


ヤス「三人……」


その言葉を聞いた瞬間、ヤスの中で何かが引っかかった。




ヤスは、写真屋の古い床を見つめた。


三宮。

写真。

ヤス田刑事。


その三つが並んだ瞬間、忘れていた小さな会話が、頭の奥から浮かび上がった。





――小宮が犯人と思ってた時

画面には、知らない番号が表示されていた。

ヤスは少し迷ってから、電話に出た。


ヤス「はい、真野です」

電話の向こうから、聞き覚えのある声がした。


ヤス田刑事「真野さんですか」

ヤス「ヤス田刑事さん?」

ヤス田刑事「お一人ですか?鈴木さんと一緒ですか?」

ヤス「いえ、今一人です」


ヤス田刑事「そうですか」

ヤス「何かありましたか?」


ヤス田刑事「まずは、事件解決おめでとうございます」

ヤス「ありがとうございます」


ヤス田刑事「ただ、今日の小宮末広の件で、少し気になることがあるんです」

ヤス「小宮さんの件で?」

ヤス田刑事「ええ。電話で話すより、直接の方がいいのですが」

ヤス「今からですか」


ヤス田刑事「今、三宮にいるんですが。来られますか」

ヤス「今からですか」

ヤス田刑事「ええ。少しだけ。」


ヤス「ええと……」


ヤス田刑事『奢りますよ』


ヤスは、すぐに立ち上がった。





――自宅待機、五日目。

スマホが鳴った。


表示された名前は、ヤス田刑事だった。


ヤス「はい、真野です」

ヤス田刑事「この前は、急に電話してすまなかったな」

ヤス「ああ……いえ」

ヤス「おかげで減給です」

ヤス田刑事「それは本当に悪かった」

ヤス「本当にですよ。五日分ですよ」

ヤス田刑事「近々、ご馳走させてもらうよ」

ヤス「それは……おごりですよね?」

電話の向こうで、ヤス田刑事が少し笑った。


ヤス田刑事「もちろんです。今度は、ちゃんと払いますよ」

ヤス「僕が払わなかったみたいに言わないでください」

ヤス田刑事「払わなかったんでしょう」

ヤス「……はい」

――





ヤスは、息を吸った。


ヤス「……ボス」

ボス「何だ」

ヤス「ヤス田さん、ぼくを三宮に誘ってました」

ボス「いつだ」

ヤス「小宮さんの事件が終わったあとです」

ヤス「地図を送りますって」


ボスの目が、少しだけ細くなった。


ボス「残ってるか」

ヤス「探します」


ボス「地図は」

ヤス「たぶん、スマホに残ってます」


ヤスは慌ててスマホを取り出した。

通知をさかのぼる。

画面に、ヤス田刑事から送られてきた地図が残っていた。


ボス「ここか」

ヤス「はい」


画面に表示された場所は、写真屋からそう遠くなかった。

三宮の中でも、少し奥まった路地だった。


ヤス田刑事は、退職届を置いて消えた。

でも、ただ逃げたわけではない。


写真。

三人の子ども。

三宮の地図。

行けなかった約束。


ヤス「ボス」

ボス「何だ」

ヤス「ヤス田さん、あの日、何を話すつもりだったんでしょう」


ボスは答えなかった。


店の外では、雨がまた強くなっていた。


ヤスが思い出した小さな約束は、三宮の古い写真屋から、もう一つの場所へつながっていた。

次回、第二章 EP10「地図の場所」。

古い記憶の先にあった地図は、十年前の夜へ続いていました。

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