第二章 EP09 ヤスが思い出したこと
ヤス田刑事の住所は、すぐに分かった。
三宮だった。
署内の記録に残っている住所を確認し、ボスとヤスはすぐに車へ向かった。
雨はまだ細く降っていた。
朝からずっと降っている雨だった。
ヤス「三宮なんですね」
ボス「ああ」
ヤス「ヤス田さん、三宮に住んでたんですね」
ボス「住所はそうなっている」
ヤス「なんか、三宮っぽくないですね」
ボス「どういう意味だ」
ヤス「もう少し、謎の山奥とかに住んでそうです」
ボス「刑事を何だと思っている」
ヤス「ヤス田さんを、です」
ボス「余計悪い」
車内には、それ以上の会話は続かなかった。
ヤス田刑事がいなくなった。
退職届を置いて。
私物を消して。
防犯カメラの資料が届いたあとに。
その順番だけが、ヤスの頭の中で何度も並び直された。
ボスは助手席で、黙って外を見ていた。
いつもより、少しだけ顔が固かった。
*
ヤス田刑事の部屋は、三宮の古いマンションの三階にあった。
管理会社の立ち会いで扉を開けると、部屋の中は驚くほど静かだった。
生活の匂いはあった。
だが、生活そのものは、もうそこにはなかった。
棚には何もない。
机の上にも何もない。
冷蔵庫の音だけが、低く鳴っていた。
ヤス「片づいてますね」
ボス「片づけたんだろう」
ヤス「退職するから?」
ボス「逃げる人間なら、持っていく」
ヤス「じゃあ、ヤス田さんは逃げたんですね」
ボス「決めつけるな。可能性の話だ」
ヤス「はい」
ヤスは部屋の中を見回した。
机。
椅子。
小さな棚。
窓際に置かれた古い観葉植物。
そして、机の右奥に、四角い跡があった。
ヤス「ボス」
ボス「見えている」
そこだけ、埃の色が違っていた。
署の机に残っていた跡と、よく似ていた。
ヤス「写真立てですかね」
ボス「だろうな」
ヤス「署の机にも、同じような跡がありましたよね」
ボス「ああ」
ヤス「持っていったんですね」
ボス「そうだろう」
ヤス「逃げるのに、写真って要りますか」
ボスは少しだけ黙った。
ボス「逃げるために持っていったんじゃない」
ヤス「じゃあ、何のためですか」
ボス「忘れないためだ」
ヤスは、その言葉を聞いて、机の跡をもう一度見た。
何が写っていたのか。
誰が写っていたのか。
ヤス田刑事は、何を忘れないために持っていったのか。
部屋の隅に、小さな紙くずが落ちていた。
ヤスが拾い上げる。
破れた封筒の端だった。
白い紙に、青いインクの印刷が残っている。
ヤス「写真……」
ボス「何だ」
ヤス「いえ。何か、思い出しそうで」
ヤスは封筒の端を見た。
青い文字。
古い紙。
写真。
三宮。
頭の中で、別の声がよみがえった。
ヤス田刑事の声だった。
*
数日前。
署の廊下で、ヤス田刑事が立ち止まったことがあった。
ヤスはその時、缶コーヒーを二本持っていた。
一本は自分用で、もう一本はボス用だった。
ボスはブラックしか飲まないのに、ヤスはなぜか微糖を買っていた。
ヤス田刑事「真野さん」
ヤス「はい」
ヤス田刑事「三宮に、まだ古い写真を直す店はありますか」
ヤス「写真ですか」
ヤス田刑事「ええ」
ヤス「スマホで撮ればいいんじゃないですか」
ヤス田刑事「昔の写真です」
ヤス「ああ、紙の」
ヤス田刑事「紙です」
ヤス田刑事は、それだけ言って黙った。
ヤス「探してるんですか」
ヤス田刑事「探している、というほどではありません」
ヤス「じゃあ、何ですか」
ヤス田刑事「読めないものを、読めるようにしたいだけです」
ヤスはその時、深く考えなかった。
ヤス田刑事は、いつも少し変だった。
だから、その会話も、少し変なだけだと思った。
*
ヤス「ボス」
ボス「何だ」
ヤス「ヤス田さん、前に言ってました」
ヤス「三宮に、古い写真を直す店がないかって」
ボスが振り返った。
ヤス「昔の写真です。読めないものを、読めるようにしたいって」
ボス「なぜ今まで言わない」
ヤス「今、思い出したんです」
ボス「便利な頭だな」
ヤス「褒めてます?」
ボス「半分だけだ」
ボスは部屋の中をもう一度見た。
写真立ての跡。
破れた封筒。
空になった棚。
ボス「その店、場所は分かるか」
ヤス「たぶん。三宮の高架下の方に、古い写真屋があったと思います」
ボス「行くぞ」
ヤス「はい」
ヤスは、部屋を出る前にもう一度机を見た。
四角い跡は、そこに残ったままだった。
写真は消えていた。
だが、そこに写真があったことだけは、消えていなかった。
*
三宮の高架下は、昼でも薄暗かった。
店の看板は、少し傾いていた。
古い写真修復。
色あせ修正。
破れ補修。
文字復元。
ヤス「ここです」
ボス「入るぞ」
店の中には、年配の店主が一人座っていた。
小さなラジオが棚の上に置かれていたが、音は消されていた。
店主「いらっしゃい」
ボス「警察です」
ボスが手帳を見せると、店主は小さく目を細めた。
店主「また警察の人ですか」
ヤスとボスは、同時に店主を見た。
ボス「また?」
店主「この前も来ましたよ。若い、真面目そうな刑事さん」
ヤス「ヤス田さんですか」
店主「名前までは。けど、そんな感じの人でした」
ヤス「そんな感じ」
ボス「黙ってろ」
ボスは、ポケットから携帯を取り出した。
何度か画面を操作して、一枚の写真を開く。
署の前で撮った集合写真だった。
ボス「この中にいますか」
店主は画面を覗き込んだ。
店主「ああ……この人です」
店主の指が、画面の端に写っているヤス田刑事の顔を指した。
ヤス「ヤス田さんですね」
ボス「まだ確認だ」
ヤス「指さしてますけど」
ボス「確認だ」
店主は、奥の棚から小さな伝票を取り出した。
店主「古い写真を持ってきました。だいぶ傷んでましたね」
ボス「どんな写真です」
店主「家族写真みたいでしたよ。子どもが三人。大人が一人。場所は……海の近くみたいでした」
ヤスは、息を止めた。
ボス「写真は」
店主「本人が持って帰りました」
ヤス「他に、何か言ってませんでしたか」
店主「言ってはいません。ただ……」
店主は、少し考えるように目を細めた。
店主「家族写真みたいでしたよ」
ボス「家族?」
店主「ええ。男の人と、子どもが三人。古い写真でした」
ヤス「三人……」
その言葉を聞いた瞬間、ヤスの中で何かが引っかかった。
ヤスは、写真屋の古い床を見つめた。
三宮。
写真。
ヤス田刑事。
その三つが並んだ瞬間、忘れていた小さな会話が、頭の奥から浮かび上がった。
*
――小宮が犯人と思ってた時
画面には、知らない番号が表示されていた。
ヤスは少し迷ってから、電話に出た。
ヤス「はい、真野です」
電話の向こうから、聞き覚えのある声がした。
ヤス田刑事「真野さんですか」
ヤス「ヤス田刑事さん?」
ヤス田刑事「お一人ですか?鈴木さんと一緒ですか?」
ヤス「いえ、今一人です」
ヤス田刑事「そうですか」
ヤス「何かありましたか?」
ヤス田刑事「まずは、事件解決おめでとうございます」
ヤス「ありがとうございます」
ヤス田刑事「ただ、今日の小宮末広の件で、少し気になることがあるんです」
ヤス「小宮さんの件で?」
ヤス田刑事「ええ。電話で話すより、直接の方がいいのですが」
ヤス「今からですか」
ヤス田刑事「今、三宮にいるんですが。来られますか」
ヤス「今からですか」
ヤス田刑事「ええ。少しだけ。」
ヤス「ええと……」
ヤス田刑事『奢りますよ』
ヤスは、すぐに立ち上がった。
*
――自宅待機、五日目。
スマホが鳴った。
表示された名前は、ヤス田刑事だった。
ヤス「はい、真野です」
ヤス田刑事「この前は、急に電話してすまなかったな」
ヤス「ああ……いえ」
ヤス「おかげで減給です」
ヤス田刑事「それは本当に悪かった」
ヤス「本当にですよ。五日分ですよ」
ヤス田刑事「近々、ご馳走させてもらうよ」
ヤス「それは……おごりですよね?」
電話の向こうで、ヤス田刑事が少し笑った。
ヤス田刑事「もちろんです。今度は、ちゃんと払いますよ」
ヤス「僕が払わなかったみたいに言わないでください」
ヤス田刑事「払わなかったんでしょう」
ヤス「……はい」
――
*
ヤスは、息を吸った。
ヤス「……ボス」
ボス「何だ」
ヤス「ヤス田さん、ぼくを三宮に誘ってました」
ボス「いつだ」
ヤス「小宮さんの事件が終わったあとです」
ヤス「地図を送りますって」
ボスの目が、少しだけ細くなった。
ボス「残ってるか」
ヤス「探します」
ボス「地図は」
ヤス「たぶん、スマホに残ってます」
ヤスは慌ててスマホを取り出した。
通知をさかのぼる。
画面に、ヤス田刑事から送られてきた地図が残っていた。
ボス「ここか」
ヤス「はい」
画面に表示された場所は、写真屋からそう遠くなかった。
三宮の中でも、少し奥まった路地だった。
ヤス田刑事は、退職届を置いて消えた。
でも、ただ逃げたわけではない。
写真。
三人の子ども。
三宮の地図。
行けなかった約束。
ヤス「ボス」
ボス「何だ」
ヤス「ヤス田さん、あの日、何を話すつもりだったんでしょう」
ボスは答えなかった。
店の外では、雨がまた強くなっていた。
ヤスが思い出した小さな約束は、三宮の古い写真屋から、もう一つの場所へつながっていた。
次回、第二章 EP10「地図の場所」。
古い記憶の先にあった地図は、十年前の夜へ続いていました。




